手元に表紙のない日記風の書物
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読み進めてみますと、戊辰戦争時の鍋島藩士の京都~新潟~江戸への行軍記録です。
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裏表紙も立派で、それなりの地位を持った人の従軍日記のようですが、名前は分かりません。
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同十八日は雨天で、武佐で昼食、愛智川泊りです。途中の安川と愛川では川水が溢れて
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十九日は晴天で長浜泊り、廿日も晴天で梁ケ瀬泊りです。
廿一日は今庄に抜ける予定でしたが、
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「翌廿一日今庄泊候筈之処、雪深ニ而、荷物其外運送揃通行難成ニ付、夜五ツ半時比我々敦賀泊り」
廿一日は通達通り「此道中平日ニハ中河内道路□処、雪深キ故敦賀え廻り道」しまして無事敦賀で泊りました。
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廿二日は今庄までの行軍で、「直々木ノ芽峠大難渋
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慶応四年二月二十二日は、西暦で1868年3月15日です。
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予定を変える程ですから、例年と較べてさぞかし積雪が多いことと思いますが、土地勘も無く全く分かりません(分かる方に御教示ください)
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(余談ですが、京都や近江にの本堅田に初雪が降ったのは慶応十一月三年十一月三日ですから経歴書が正しいとしますと、竜馬は十一月四日以降に西近江路を帰京したことになります。十一月十五日に暗殺されますから、ほんと直前ですね。)
この史料からも、慶応三年暮れから、四年は琵琶湖北嶺の雪は深かったようです。
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ともあれ、大難渋して上った木の芽峠で、某氏は「峠之絶頂ニ太閤之茶釜有」とあり、秀吉公拝領の茶釜
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木の芽峠で検索をしますと、未だにこの茶釜は存在するようです。
行ってみたいのですが、木の芽峠はあまりに遠いので、せめて土瓶で燗をつけて雪深い木の芽峠を偲びたいと存ずる。
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翌、戊辰の年は琵琶湖の湖水が膨張したのですが、次はこのあたりを調べたいと思っています。
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