幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

幕末海難シリーズ第二弾!! いろは丸衝突は霧の夜だったか?

2010-05-30 15:44:27 | Weblog


この度は、前回ワイル・ウエフ沈没に続く、幕末海難シリーズ第二弾!! 

「いろは丸衝突は霧の夜だったか?」をお送り致します。

いろは丸は伊予大洲藩がポルトガル領事から買い付け、海援隊に貸付けた

全長 30間
全幅 3間
深さ 2間
トン数 160トン
機関 45馬力 外輪船(蒸気機関)、マスト3本あり、帆走可能
の蒸気船です。

慶応三年四月十九日に、丸紅、白紅の旗章を掲げ長崎を出発し、
慶応三年四月二十三日第十一字(西暦1867年5月26日午後十一時頃)、
紀州藩の蒸気船、明光丸と衝突し、鞆の浦に曳航中に沈没しました。

ところで、衝突の夜に霧は出ていたのでしょうか。
四、五月の瀬戸内海は霧が多発するので有名です。
昭和30年5月11日、死者168名を出した、紫雲丸も霧の中での衝突でした。
春から初夏にかけて霧の多い瀬戸内海です。霧のため視界不良で衝突した
と言えば、つい「なるほど」と頷きたくなります。

事実、多くの小説や解説書には霧の中で衝突したと書かれています。
永国淳哉著「坂本龍馬事典」
平尾道雄著「龍馬のすべて」
  同  「坂本龍馬・中岡慎太郎」
森本繁著「坂本龍馬 いろは丸事件の謎を解く」
でも、霧が衝突の原因と書かれていました。

ただ、「いろは丸航海日記」など史料に当たってみると、霧の文字が一つもありません。

          不思議です

一般的に、瀬戸内海の晴霧は、南から暖かく湿った空気が流入し、
夜間から早朝にかけて海水に冷やされて凝結して発生します。

南からの湿潤な暖気が流入が、霧発生のポイントになりそうです。

それでは、天気を見て参りましょう。

まず衝突日の前日、慶応三年四月二十二日の各地の天気を見て行きましょう。

午後雨風【北海道函館】
朝曇り、上ハ下り風ニて少々暖也、下タ東風也九ツ頃より雨少々【青森県森田村】
風吹折々雨夜雨降【新潟県新発田市】
小雨ふり出【江戸】
風烈し、小雨降り【愛知県岡崎市】
雨降風荒吹夜双天【京都】
雨【鳥取市】
晴【山口県下関市】
雨、五ツ頃より晴ル、、夜空明也【高知県土佐市】
開霽【長崎市】
晴天【鹿児島県肝属町】

などとなっています。四月二十一日に雨だった九州や一部中国、四国地方を除けば、帯低気圧の移動に伴って
全国的に雨や風がつよかったことが分ります。


いろは丸衝突も当日慶応三年四月二十三日第十一字(西暦1867年5月26日)は、

晴【北海道函館市】
晴天也終日【青森県森田村】
晴寒し【新潟県新発田市】
終日雨フル【江戸】
早朝曇、巳刻頃より晴【愛知県岡崎市】
快晴【京都】
晴【鳥取市】
晴【山口県下関】
晴、、夜星見へる【高知県土佐市】
霽【長崎市】
晴天朝晩寒し【熊本県南阿蘇村】
晴天【鹿児島県肝属町】

となっていて、関東、東海の沿岸を除いて、全国的に晴れとなっています。
また、瀬戸内海に面した丸亀でも晴72度(摂氏20度)、広島でも照となっていますので、
衝突した六嶋付近も日中は晴れていたと思われます。

それでは、衝突当時、南よりの湿った風が備讃瀬戸に吹き込んでいたでしょうか。
鞆の裏付近の情報がありませんので、全国的な状況を見ますと。

京都では東風、千葉県の銚子市で北風、東京の新島で北風
翌二十四日も萩で東風、京都では東風、千葉県の銚子市で北風、東京の新島で北風
となっています。
二十三日の気温は、新潟県新発田市で寒し、京都で余程冷気、です。
はっきりとは、言えませんが日本列島は、北東の風に乗って寒気が入っていたようです。

おそらく、衝突の夜、六嶋付近は、北東よりの冷たい風が吹いていたと思われますので、
霧発生のポイントとなる南からの湿潤な暖気が流入は無かったと考えられます。

と言う訳で霧は発生しにくい天気状況だとおもわれますが、
状況証拠ではあり、史料の密度も薄く十分な自信はありません。

もう一度「坂本龍馬関係文書」の「航海日記附録草稿」を見直しますと
「讃州箱ノ崎ノ沖ヲ過グ、時ニ蒸気船東方ヨリ来ルアリ」とありまして、
月齢23日の月と星の明かりで、箱ノ崎を目視で確認したことと思います。

また、海援隊と紀州藩の応接のなかに一切、霧とか、視界不良などと言う
言葉がありません。

私の結論としましは、以上の理由から、やっぱり霧は出ていなかったと
思います。

誰かが、「春の瀬戸内海だもの、霧が出ていたんじゃないの」
とでも言ったのでしょう。この一言が伝言ゲームのように
「霧が出ていたに違いない」「霧が出ていました」となったのでしょう。

話しは変わりますが、丸亀幽閉中の鳥居甲斐守様はこの日茄子を植えました。

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いざ大陸へ

2010-05-20 14:15:16 | Weblog


いろは丸の沈没について調べていましたが、
「今日をはじめと繰り出す船は  稽古始めのいろは丸」
と言う詩を口ずさんでいる内に元気が出てまいりました。

日本の気象データも一とうり集り、
あとは、各地の図書館を巡らなければと思っていましたが、
とても時間の余裕がありません。

そこで、薩英戦争や、ワイル・ウエフ沈没時の台風の進路を
調べるためには、不可欠の中国、朝鮮の日記から気象データ
を収集することにしました。

中国語、韓国語は勿論分かりません。
ままよと「曽国藩日記」と「郭嵩涛日記」を求めました。
曽国藩は分かりますが郭嵩涛と言う人が誰なのかも分かりません。
近くに中国人や韓国人も居りますので、教えられながらなんとかなるでしょう。

「今日をはじめと乗り出す船は 稽古始めのいろは丸」





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五島列島塩屋崎にて、慶応二年五月二日(西暦1866年6月14日)ワイルウエフ難破

2010-05-01 13:16:06 | Weblog
 この度は、亀山社中が薩摩藩から貸与された小型帆船、
ワイルウヱフ号難破の日の天気につきまして書き込みたいと思います。


遭難時の模様につきまして「坂本龍馬関係文書」によりますと、

慶応二年丙寅五月二日暁「ワイルウヱルウエフ」号、五嶋沖ヲ過キ、塩屋崎ニテ難破
船将黒木以下溺死スル者多ク乗組員池内蔵太亦死ス

  瑞山会編、池内蔵太伝ニ曰ク

  桜島丸ヲ以テ「ワイルウヱフ」帆船ヲ率キ長崎ヲ発ス、途中風浪悪ク、帆船進ムヲ
  得ス、聯索ヲ断チ汽船ハ進ミ帆船ハ風ニ随テ廻航シ肥前五島ヲ過キ塩屋崎ニ至リテ
  天、将ニ明ケントシテ颶風俄ニ起リ、乗組員皆力ヲ極メテ防護スト雖モ、風力益ス
  暴烈ニシテ之ヲ避ル術ナク、漂蕩中、船体破壊シ内蔵太及ヒ船将黒木小太郎等遂ニ
  溺死云々

とあります。

櫻島丸に曳航されて、ワイルウヱフ号が長崎を出航したのが四月二十八日。聯索の綱を切られて、漂流の末難破したのが五月二日明け方です。
それでは、ワイルウヱフ号の遭難の時の天気を想像してみましょう。

まず、鹿児島県肝属町の四月二十八日から五月三日までの天気を見ますと
四月二十八日  晴天
四月二十九日  晴天
五月朔日    曇、雨天
五月二日    雨天
五月三日    曇、晴天

となっており、朔日から二日にかけて雨天となっております。
五月一日から三日までの雨の記述をあげますと、

五月一日

昼晴入夜子剋頃より大雨【京都】
陰蒸、夜雨明に連る【丸亀】
夜中大雨、久し振りの甘雨【土佐市】
曇、昼後より雨【小倉】
曇巳時より雨降【熊本県南阿蘇村】

とあるように、雨は九州阿蘇付近では午前10時頃、小倉で昼過ぎ、丸亀市、土佐市では夜から、
京都では夜12時頃から雨となっていて、雨域が北東進してきた事が分かります。
京都と南阿蘇村の距離は約460kmで、14時間の時間差がありますから、雨域は約30kmで
進んだことになります。

五月二日

夜雨【青森県森田村】
曇後小雨夜風出【新潟県新発田市】
東風雨降【東京都新島】
雨降風烈し、夜入小雨風【岡崎市】
夜明方より雨降ル【熊野市】
終日雨つよし、出水川越大造也、夜中強雨、、夜明方より雨上ル【熊野市】
風雨【京都】
雨降雲西行東風荒吹【京都】
昨夜より大風雨【下関市】
東風甚、雨添【下関市】
大風雨、谷水大ニ出る、波高くして、岩崎の往来道を打崩す、橋田ノ濱も大分流れる、夜中星少々見ゆる【土佐市】
雨降風吹【熊本県南阿蘇村】

南阿蘇村、土佐市、下関、京都、岡崎市で東寄りの強風。熊野市で大雨。土佐市で高波による被害が書かれています。
また、下関市では朔日の夜から大風雨となっていたことが窺えます。

五月三日

暴風雨【箱館】
雨南風也【森田村】
雨夕止北風【福島県郡山】
微雨夕景より晴【京都】
陰雨雲東北行午後晴雲南行北風涼【京都】
とあり三日には北海道函館市で暴風雨となっています。


以上のように強風、強雨域は北東進しており、西暦の6月14日で台風の襲来にはやや早い時期ですが、
進行状況から台風であることは間違いないと想われます。
進路は、雨域や風の方向から、九州西側より日本海に出て、日本海で東寄に転向して北海道
に至ったのではないかと推測されます。
大きな被害の報告はなく、格別に強い台風ではなかったと思われますが、四国南岸で高波の被害
があったように、海は大荒れだったと思います。

ワイルウヱフ号は五月二十八日、晴天の中を櫻島丸に曳航され、翌二十九日も同じような状況で、
快適な航海が続くように想われましたが、五月朔日朝から雲が拡がりはじめ、昼ころには雨が振り出し
東風も次第に強くなり、波も高くなっていったと想われます。
恐らく櫻島丸は朔日夜にワイルウヱフとの綱を切断したのでしょう。
動力を失い、次第に強まる風雨と波浪の中、懸命の努力にも関わらず、二日明け方、ワイルウヱフは
沈没いたしました。

ワイルウヱフという憶えにくい名前は WILD,WAVEから来ているそうです。
また、船に丸をつけるのは、出航しても無事に元の場所に帰ってくるようにとの願いからだそうです。
「ワイルウヱフ」は日本語で言えば「荒波丸」とでも言いましょうか。
有為の若者と供に、荒波丸は荒波でオシャカです。
つまらないダジャレで〆てしまいました。  おそまつ
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