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この度は、前回ワイル・ウエフ沈没に続く、幕末海難シリーズ第二弾!!
「いろは丸衝突は霧の夜だったか?」をお送り致します。
いろは丸は伊予大洲藩がポルトガル領事から買い付け、海援隊に貸付けた
全長 30間
全幅 3間
深さ 2間
トン数 160トン
機関 45馬力 外輪船(蒸気機関)、マスト3本あり、帆走可能
の蒸気船です。
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慶応三年四月十九日に、丸紅、白紅の旗章を掲げ長崎を出発し、
慶応三年四月二十三日第十一字(西暦1867年5月26日午後十一時頃)、
紀州藩の蒸気船、明光丸と衝突し、鞆の浦に曳航中に沈没しました。
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ところで、衝突の夜に霧は出ていたのでしょうか。
四、五月の瀬戸内海は霧が多発するので有名です。
昭和30年5月11日、死者168名を出した、紫雲丸も霧の中での衝突でした。
春から初夏にかけて霧の多い瀬戸内海です。霧のため視界不良で衝突した
と言えば、つい「なるほど」と頷きたくなります。
事実、多くの小説や解説書には霧の中で衝突したと書かれています。
永国淳哉著「坂本龍馬事典」
平尾道雄著「龍馬のすべて」
同 「坂本龍馬・中岡慎太郎」
森本繁著「坂本龍馬 いろは丸事件の謎を解く」
でも、霧が衝突の原因と書かれていました。
ただ、「いろは丸航海日記」など史料に当たってみると、霧の文字が一つもありません。
不思議です
一般的に、瀬戸内海の晴霧は、南から暖かく湿った空気が流入し、
夜間から早朝にかけて海水に冷やされて凝結して発生します。
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それでは、天気を見て参りましょう。
まず衝突日の前日、慶応三年四月二十二日の各地の天気を見て行きましょう。
午後雨風【北海道函館】
朝曇り、上ハ下り風ニて少々暖也、下タ東風也九ツ頃より雨少々【青森県森田村】
風吹折々雨夜雨降【新潟県新発田市】
小雨ふり出【江戸】
風烈し、小雨降り【愛知県岡崎市】
雨降風荒吹夜双天【京都】
雨【鳥取市】
晴【山口県下関市】
雨、五ツ頃より晴ル、、夜空明也【高知県土佐市】
開霽【長崎市】
晴天【鹿児島県肝属町】
などとなっています。四月二十一日に雨だった九州や一部中国、四国地方を除けば、帯低気圧の移動に伴って
全国的に雨や風がつよかったことが分ります。
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いろは丸衝突も当日慶応三年四月二十三日第十一字(西暦1867年5月26日)は、
晴【北海道函館市】
晴天也終日【青森県森田村】
晴寒し【新潟県新発田市】
終日雨フル【江戸】
早朝曇、巳刻頃より晴【愛知県岡崎市】
快晴【京都】
晴【鳥取市】
晴【山口県下関】
晴、、夜星見へる【高知県土佐市】
霽【長崎市】
晴天朝晩寒し【熊本県南阿蘇村】
晴天【鹿児島県肝属町】
となっていて、関東、東海の沿岸を除いて、全国的に晴れとなっています。
また、瀬戸内海に面した丸亀でも晴72度(摂氏20度)、広島でも照となっていますので、
衝突した六嶋付近も日中は晴れていたと思われます。
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それでは、衝突当時、南よりの湿った風が備讃瀬戸に吹き込んでいたでしょうか。
鞆の裏付近の情報がありませんので、全国的な状況を見ますと。
京都では東風、千葉県の銚子市で北風、東京の新島で北風
翌二十四日も萩で東風、京都では東風、千葉県の銚子市で北風、東京の新島で北風
となっています。
二十三日の気温は、新潟県新発田市で寒し、京都で余程冷気、です。
はっきりとは、言えませんが日本列島は、北東の風に乗って寒気が入っていたようです。
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霧発生のポイントとなる南からの湿潤な暖気が流入は無かったと考えられます。
と言う訳で霧は発生しにくい天気状況だとおもわれますが、
状況証拠ではあり、史料の密度も薄く十分な自信はありません。
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もう一度「坂本龍馬関係文書」の「航海日記附録草稿」を見直しますと
「讃州箱ノ崎ノ沖ヲ過グ、時ニ蒸気船東方ヨリ来ルアリ」とありまして、
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また、海援隊と紀州藩の応接のなかに一切、霧とか、視界不良などと言う
言葉がありません。
私の結論としましは、以上の理由から、やっぱり霧は出ていなかったと
思います。
誰かが、「春の瀬戸内海だもの、霧が出ていたんじゃないの」
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とでも言ったのでしょう。この一言が伝言ゲームのように
「霧が出ていたに違いない」「霧が出ていました」となったのでしょう。
話しは変わりますが、丸亀幽閉中の鳥居甲斐守様はこの日茄子を植えました。
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