幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

戊辰戦争の難民

2024-03-31 19:00:54 | Weblog
戦争は常に弱い人々にとって酷い事ばかりです。
戊辰戦争でも、やはり、巻き添えになり難民化した村上藩の婦女子がおりました。
山形境から会津に転戦したしました官軍側の日記「軍事日記」に、このような記事がありました。
曰く

 解読しますと、以下のようでしょうか。

一、昼少前方、村上之婦女子老若三四拾人つれニ而、山野ニ打伏、昨十五日夜取〆所え
  来リ、夕飯をもらひ度段頼入、右ニ付無拠一宿を施、夕朝飯振舞、朝出立ニ而舟渡駅
  え来りつるか、雨ニ濡みの笠もなく俵のはしはぢをもちひ頭にかむり物、あわれなる有様也、
  右之躰を見て舟渡屋久右衛門、女子共ニ笠三拾かい餘施し、其外銘々ニ栗ゆて汁迄遣候。
  誠ニ稀也もの也。何程火急ニ逃出候也、衣類も差当の侭ニてたくわひも無之様子也

とあります。
要約しますと、
慶応四年八月十五日の夜、山野に隠れていた村上藩の婦女子老若
34人が官軍の取締所へ夕飯を貰いたいと頼みに来た、仕方がないので一宿させ
夕飯と朝飯を振舞ってやった。
朝出立の時舟渡駅に来たが、雨に濡れ、蓑笠もなく、米俵の端を頭にかぶりあわれな有様でした。
この様子をみて、気の毒に思った、舟渡屋久右衛門が女子供に笠を三十余かい施し、銘々に栗茹で汁まで遣わした。
本当に稀な人物だ。
どんなに急いで逃げ出してきたのだろうか、衣類も其の時ままで、貯えも無い様子だ。

となります。
その時の村上藩は、慶応四年七月十六日に藩主 内藤信民が急死し、藩主不在のまま、藩内は佐幕派と官軍への帰順派
に分かれ争っていたようです。
官軍が村上城に近ずくと、佐幕派は城を捨てて家族とともに羽州境に移動して戦い9月末まで戦闘を続けたとあります。
想像ですが、当然同行した家族の非戦闘員は足手まといとなります
日記は、羽州境から会津か米澤を目指して、舟渡(山形県小国町舟渡)を通過した際の村上藩の婦女子の様子ではなかったのでしょうか。
着の身着のままで、お金も持たずに会津か米澤を目指す様は、生活に苦労をしている百姓とは思えません。

ともあれ、村上の婦女子34人は、敵方の温情と舟渡屋久右衛門の侠気で何とか行先を目指して行ったと思われます。

それにしても、官軍にも度量があり、舟渡屋久右衛門の人徳も大したものです。
子孫でも居て商売をしてれば、何かの時に行ってみようと思い、小国町 船渡屋で検索しましたが、探しかねました。

  顕彰のため 「」と叫びました。

今の世の中、この叫び声よくないでしょうね。


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佐賀藩羽州遠征隊の着帆地点 姉川伊貞陣中日誌

2024-02-18 12:50:42 | Weblog
 佐賀藩士 姉川伊貞の戊辰戦争従軍日記を読んで、こんなものなのでしょうかと思ったことがありましたので、紹介致します。
姉川伊貞と鍋島藩兵は、慶応四年八月十一日、鍋島藩船甲子丸とイギリス船に乗り込み、羽州を目指して久原村から出発しました。
八月二十一日新潟県北部の島に粟島に到着しました。

 着帆ニ而、水少々相談相成候得共、昨今之戦争ニ而其儀難叶

とありまして、粟嶋で水を貰うため交渉したところ、戦争中なので断られたとあります。
また、夕方七時頃、山形県飛島に着船水を貰おうとしたところ、

  紋付之籏差上、大鉋打掛る様子ニ御座候得ハ、早速出帆

紋付之籏を上げ、大砲を打ちかける様子でしたので、すぐさま出帆したとあります。
この後、秋田領分の男鹿嶋に着帆して上陸しますが、

  右トは違、大悦ニ而秋田より役人罷出

とあります、官軍に属する秋田藩の行為としては、当然と思われますが、この後鍋島勢は、秋田に到着後、今泉付近で南部藩との戦争に突入して行きます。

さて、到着する目的の港もなく、姉川伊貞らは水を求めて漂着しています。       こんなものなのでしょうか。

ただ、粟嶋でも飛島でも、交渉相手は百姓だったと思われます。
力ずくでも水は奪えたと思われますが、相手の言い分を通して佐賀兵は立ち去っています。
そう言えば、戊辰戦争で民衆(農兵は別として)が殺戮されたと言う記事は見たことがありません。
ただ、福島県の日記に土佐藩兵が通行した後は犬がいなくなって困ると言う記事がありましたが、、

やはり、江戸時代は兵農が分離された、倫理的な社会であったような気がします。


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岩倉具視の和歌 夏獣

2023-11-19 16:13:24 | Weblog
この頃、日記を書いた人の和歌を楽しんでいます。
和歌にはそれぞれの人柄が出ているような気がします。
先ずは、嵯峨実愛卿の短冊です。

 船中雪 と題しまして
   拂うさえ かえす袂と 見ゆるかな あさ妻ふねの 雪のゆうぐれ


続きまして東久世通禧卿の和歌です。

 
   七種は のこりすくなに なりにけり 心してふけ 野辺の秋風

秋の七草の歌でもございましょうか、二首ともに みやびておりますなあ。


続きまして、岩倉具視卿の和歌ですが



夏獣と題しまして
   てる月に 母きてうとや ひくらむを なおむらあけて 蓑きる子勝

と、社会性の強い根性ものになっております。
母を幕府軍、子を薩長軍、蓑を錦旗と読むのは穿ちすぎでしょうか。
いずれ、前の二卿の和歌とは全く異なっているようです。

ところで、その短冊本物かい?。
と言われますと、そのようなものと思ってお楽しみください。
としか言えないところがまた面白いです。
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弘化三年六月十七日(西暦1846年8月7日) 大阪、嶋の赤とんぼう群集して北へ

2023-06-22 23:08:54 | Weblog
この度は、大坂の八軒家絵巻様より頂きました、お題「弘化三年六月十七日(西暦1846年8月7日) 大阪、嶋の赤とんぼう群集して北へ」の時の天気について考えたいと思います。

八軒家絵巻様によりますと、「弘化三年(1846)に大坂中之島の上空を赤とんぼうの大群が北の山をめざして飛んで行ったとゆう怪異現象を調べて」いるとのことですが、
以前、御教示いただきました、竹垣直道の日記に「半晴小雨今朝立秋」とあります。
半晴と言うのが曲者で、全く定義がありません。
竹垣日記と大阪とその周辺の天気を突き合わせてみますと、おそらく、晴れたり曇ったりなのではないかと思われます。
全国的な天気概況を申し上げますと、六月十五日は、関東を除き晴で、翌十六日は全国的に不安定な天気となり雷や夕立があったところが多かったようです。
(本来ですと、天気図を出したいところですが、天気図作成ソフトが見当たりませんので失礼致します)

続きまして、十五、十六、十七と大阪付近の天気記事を挙げてみますと

   十五日   晴【奈良】 天キ【池田】 晴天【池田】 【大坂】 晴【浮世の有様】晴【大坂】 天気、炎熱如きのふ【大坂】 天気よく風吹【東大阪市】

   十六日   晴90度(摂氏度)也、、午後迅雷、是はとおもひしか西北之方え鳴行たり、近山より起りしなるへし【奈良】 天キ、夕雨【池田】 晴天午下刻夕立東風【池田】
         晴、遠雷【竹垣直道日記】【大坂】 晴【大坂】 烈暑、三十二度強、夜廿七度冷気覚【大坂】 天気よろしく、、夜風吹雨少々降り申候、、風吹【東大阪市】

   十七日   晴、きのふはひるも夕かた雷深夜に至り又雷其節少々雨今朝は少すすし【奈良】 天キ【池田】 晴天東風【池田】
         半晴小雨今朝立秋【大坂】 寅刻より雨、辰刻止【大坂】 朝かた夕立在、暑廿八度、四ツ三十度、【大坂】 天気よろしく、、同【東大阪市】

となっております。
当日十七日の
大阪の天気を総合しますと、午前六時ころから午前八時頃まで時雨が降り後は晴れたり曇ったりと言ったところでしょうか。

赤とんぼをの性質をウィキペディアで調べて見ますと、赤とんぼは暑さに弱く、平地で成長したのち、涼しい山岳に移動し、産卵の時にはまた
平地にもどる。とのことでした。

そういたしますと、この弘化三年六月十七日は、避暑のため大挙して赤とんぼが移動していったのではないかと推察し、当時の気温を調べました。
大阪のぶんは記録が乏しく、江戸の霊憲公簿で気温の傾向を調べました。

と言うところで、とりわけ気温との関係がはっきりしてはいないようです。

大阪の記録によりますと、十五日の気温は「炎熱きのふの如し」十六日は「烈暑32度強、27度冷気覚ゆ」十七日は「朝方28度、午前十時ごろ30度」と大変な暑さが続いています。
摂氏30度を過ぎると、赤とんぼの命に関わる暑さのようで、涼しい北の山を目指して必死の飛行だったのでありましょう。

今年の夏も暑そうですね。
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強盗団【頭突(ずずき)連中

2023-05-20 18:11:23 | Weblog
強盗団【頭突(ずずき)連中】

近頃、恐ろしい強盗が流行っています。
文字通り無法で、暴力で目的を達成しようとする輩です。
幕末にも多くの犯罪がありますが、かなり悪質な集団もあり、【浮世の有様】【大坂】の天保九年二月三十日の記事に、

近来盗賊、巾着切の類大に勢ひ振るひ、住吉街道、天王寺辺は申に及ばず、市中にても往来の者共白昼にはぎ取りぬる事、傍に人なきが如く甚しき事也と云、北野、曽根崎の辺には頭突連中と唱へ、大勢の党を結び、頭を以て人に突掛り喧嘩なして、大に人をゆすり打擲せし上金銀を奪取、此連中には角力取なと打交り、甚しかりしかとも、追々に此悪徒共は召捕へられしと云【浮世の有様】【大坂】

とあります。
天保九年はまだ天保大飢饉の影響がさめやらぬことであり、公権力のゆるみもあったのでしょうか、白昼の追剥も多く出現したことが書かれています。
大阪の、北野、曽根崎辺りの悪党の中には、【頭突連中】と言うグル-プがあり、関係ない人に、頭突をして因縁をつけ、喧嘩をして、ゆすったり、暴行を加えたりして、御金を奪い取っていたグル-プがあったようです。
次第に召捕られて行ったようですが、凶悪な輩でございます。
何か、今の強盗に似ているような?

「傍に人なきが如く甚しき事也」

桑原、桑原
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週休二日 下総国貝塚村 與治右衛門の休日

2022-11-19 15:59:18 | Weblog
先日、下総国貝塚村 與治右衛門の年中日記帳を読みました。



この日記は、貝塚村(千葉県匝瑳市)に住む御百姓、與治右衛門の日々の生活と世状が記されています。
この日記は安政五年の一年分の日記ですが、珍しいことに月毎の労働日と休日が書かれています。

以下紹介しますと、
    一月 〆 十二日休   
         十七日働
    二月 〆 十日休
         二十日働キ
    三月 〆 九日半不働休
         十九日半働申候
    四月 〆 十日休
         十九日働キ
    五月 〆 六日半休
         二十三日半働
    六月 〆 二十日働キ
         九日休ス
    七月 〆 二十日半働
         八日半休
    八月 〆 五日風待   
         二十五日働
    九月 〆 十日不働
         二十日働
    十月 〆 四日休
         二十五日働
    十一月〆 八日休
         二十二日働
    十二月〆 七日休
         二十三日働




  凡 三百五拾四日之内
年中〆 九十九日休
    弐百五十五日働
 とありまして、農繁期の休みは少ないことが分かりますが、年間で354日のうち255日働き99日休みと書かれています。
割合にしますと、二割八分が休日となっています。これを週に直しますと1.96日の休日となっています。
 貝塚村 御百姓 與治右衛門さんは、概ね週休二日だったことが分かります。

ちなみに、一月の日記から労働記録を抜いて見ますと、
   元旦                      休
   二日   縄壱ツなへ              休
   三日   草履作る 弐足            休
   四日   熊手□本拵へ             休
   五日   宮本より八日市綿買ニ行、ヲダキ削り  休
   六日   朝山入前嶋、夫より赤羽根山刈、昼より宝光寺へ働キニ行
   七日   斧柄拵へ、小仕業
   八日   長崎□□□ 山刈
   九日   長崎赤羽根 山刈
   十日   前嶋赤羽根 山苅
   十一日  前同様山苅
   十二日  屋形年玉ニ行
   十三日  長崎山苅
   十四日  赤羽根ソダマルキ
   十五日  酒屋ニ而若蔵nへ行
   十六日  平兵衛□□礼
   十七日  平兵衛花ゆキ
   十八日  飯倉山苅
   十九日  飯倉山苅
   二十日  昼より祭礼ニ行
   二十一日 四ツ半より祭礼ニ行
   二十二日 早朝より善右衛門葬礼ニ行、穴掘役
   二十三日 飯倉山苅
   二十四日 草履作る
   二十五日 ヲダ木棟削り、昼より祭礼ニ行
   二十六日 飯倉山苅  麦作入
   二十七日 七兵衛へ山茅カケ渡ス、四ツ□鎮守田土入 休
   二十八日 瓜保タメ出し              休
   二十九日 モツコ拵へ

とあります。
一月は、農閑期なにで、山仕事が中心のようです。
十二日休みと記していますが、休と書いてあるのは元旦から五日迄と二十七日、二十八日の七日間です。他の五日は日記の内容から、平兵衛の花に行った十六、十七日、祭礼と葬式の二十、二十一、二十二日が休みではないかと思われます。
ただ、休みの日でも縄や草鞋熊手などを作ったり、タメを出したり、ちょこちょこ仕事をしていたようです。

結論を申し上げますと、週休二日位を、当人の與治右衛門は意識していたようですが、勿論曜日の感覚はなく、用事があると休みを取っていたようで、一日の労働時間も分かりません。

私の感覚では、明治から昭和の人程は働いていなかったような感じです。

明治政府によって民衆はネジを巻き込まれ、労働に戦争に駆り出されて行ったような気もします。

今の世の中を見ますと、物騒で世の中終わりになるかも知れません。

鎖国をして、儒学を学問の中心に据えた、徳川幕府は偉大な平和主義だったと思います。











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唐丸のこと

2022-09-03 22:22:18 | Weblog
 ご無沙汰しております。
ようやく涼しくなってまいりました。
相変わらず、夜な夜な各地の日記を解読して楽しんでおります。
先日、仙台藩重臣の茂庭周防の家来の日記「日穆清 掌中録」を読んでいまして、
元治二年三月二十三日(西暦1865年4月18日)の記事の中に

「峯松手かへ之唐丸、猫ニ被取、半死半生ニナル」
とありました。
さて、手飼の唐丸とは、何かペットのようなものだと思いましたが、気になりました。
翌々日の三月二十五日の記事には、次のようにありました。

「峯松手飼之唐丸養生不叶暮ニ隕ル」
猫に襲われた唐丸は養生の甲斐もなく暮に死んでしまいました。
唐丸とは一体何なのでしょうか?❓。
次の日の二十六日

「峯松手飼之鶏、山ノ中段へ寅治両人ニ而埋」
とありまして、唐丸は鶏だと分かりました。そうとうに大事にされていたようです。

唐丸とは鶏の個別の愛称なのか、種類の名前なのか、分からないので、早速インタ-ネットで検索してみました。
運良く、唐丸が検索に引っかかりました。「鶏の種類」様の記事によりますと   
曰く
    蜀鶏 とうまる(唐丸 とうまる)
昭和14年9月7日、天然記念物に指定されている鶏で、
   蜀鶏は、東天紅鶏、声良鶏とともに日本三大長鳴き鶏のひとつです。
   謡の標準は数メ-トル離れて、人が聞こえる範囲で15秒です。
とありました。
また、ユ-チュウブで実際の声も聞けました。
便利とは言いながら、恐ろしい世の中になりました。

幕末に、宮城県の松山町で、貴重な唐丸を大切に飼育していた、峯松寅治という人がいた事が分かりました。
何でもないようなことかも知れませんが、江戸時代の多様性がまた一つ見えて参りました。

私こと、唐丸の鳴き声を真似てみましたが、声が枯れてしまいました。
小さな体で、声の出ること、さすがは、天然記念物でありますな。
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石楠花

2022-05-01 15:43:38 | Weblog


この頃、またお天気史料が集まり、データベースに入力しており、
さっぱり、記事を投稿していません。

庭の石楠花がとても美しく咲いています。
花の写真をアップします。

「天のみやげに何もたそう、 奥州仙台石楠花の花」

と言う民謡があったような
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吉原放火 遊女の意図 嘉永二年八月五日(西暦1849年9月21日)

2022-03-13 14:07:17 | Weblog
先日、晩酌をしながらテレビをみていますと、「歴史探偵」と言う
番組で、遊女による吉原の放火事件を放送していました。

放火には、必ず意図があり、その意図により放火日の天候を選ぶのが
通常です。
「吉原遊郭」は大変興味深く拝見しましたが、天気好きの私には、もう少し放火当日の
天気を掘り下げて頂きたいところです。

そこで、吉原の梅本屋、豊平他遊女16人放火の日江戸の天気を見ますと、

 雨、8つ後より晴【鎌田日記】【江戸】
 朝雨午後晴【林日記】【江戸】
 小雨 巳の刻過止 曇【江戸日記】【江戸】
 雨降昼後晴暮時より又雨【月岑日記】【江戸】
 雨天【梅若実日記】【江戸】
 朝より四ツ時迄降夫より天気、夜に入又雨多分【二宮尊徳日記】【江戸】
 朝雨西北風、74度、29寸4分3厘【霊憲候簿】 23.3
 午正雨西南風、75度、29寸4分6厘【霊憲候簿】 23.9
 昏曇南風、昏後雨、77度、29寸5分2厘【霊憲候簿】 25

となっており、江戸も広いので一概には言えませんが、
朝から午前10時~昼ぐらいまで小雨、昼すぎには止み曇り
夜になるとまた雨が強めに降った様子です。
ちなみに気温は摂氏23~5度で、風もなく湿気の多い温暖な一日でした。

天気の概況を見ますと、七月末ごろから、八月中旬頃まで関東付近に丞
秋雨前線がかかり、湿気の多い日々が続いています。

このような状況での、火災は広がりにくく、放火の目的は火事を起こすことの
他にあったようです。
吉原から抜け出すためだったのでしょうか。

北町奉行遠山左衛門尉は、その辺も考慮に入れてのお裁きだったと思われます。
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権威より金 弘化三年山之内豊熈大井川越え 

2021-10-11 18:34:34 | Weblog


手元に弘化三年の、土佐藩主山之内豊熈の参勤に随行した{小原與一郎(武市半平太らと他藩応接役、維新後は倉敷県知事となった人のようです)の記録がある、参勤御供の通達から、江戸到着までの子細が書かれています。
なかでも、大井川越えの部分の記述が面白いので紹介してみたいと思います。



弘化三年三月九日、高知を出発した山之内容堂の行列は江戸を目指し四月三日増水して濁っている天竜川を渡り日坂の宿に入った。
折しも大井川も増水しており、島田本陣の新右衛門によると、大井川は、三月十七日から四月三日までで川明の日は、三月二十二日と二十九日のたった二日だけであった。足止めを喰った旅行者で日坂はごった返しで、
「下宿、ウドン屋平吉二階座鋪也、旅籠ニ非ス」
とあり、與一郎は、旅籠屋にも泊まれずウドン屋の二階で泊まったようです。
翌日の四日も川留めで、ウドン屋にもう一泊です。
脚止めとなり,
本陣の豊熈侯は当然不機嫌です。
五日は川明となり、七ツ半出発
  「大井川今朝ヨリ明川故大混雑ニテ、宇和島侯、分部侯、二條御番等群集、川端ニテ休  
  ム也、然ニ伊達ノ同勢早ク渡ル、川役ノ者料ヲ増シテ渡ル也、駕籠夫荷夫四人共逃テ不居合、家来不案内故ナリ、依テ島田迄三人三百文ニテ自力雇イニスル 」



というわけで、大井川川辺は土佐二十四万石 山之内侯、宇和島十万石 伊達宗城侯、大溝二万石 分部侯、京都二条城御番役の幕臣などが休んでいました。大名たちの家来だけでも千人を優に超えたと思われます。中に、後の四賢侯の一人伊達宗城の一行は手配良く、人夫を高額で雇って大井川を越えます。
一方土佐藩の小原與一郎には来るはずの四人の人夫が来なくて、自費三百文を払って三人の人夫を雇って漸く川を超しました。
大名といえども、油断のならない川越人夫のしたたかさが面白いですね。

「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」やはり「地獄の沙汰も金次第」といったところでしょうか。

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