幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

大王いか(和名、八千代いか)、将軍家慶に拝謁す 天保十一年十一月四日(西暦1840年11月27日)

2013-03-23 11:49:40 | Weblog


 冬の晴れた日、小田原で捕れた大王烏賊の鳶烏が江戸城に登り、将軍に拝謁しました。「いかに!」

【井関隆子日記】に曰く

「此ごろいと大きなる烏賊のとれつるなど聞えしを、いかならむとおぼつかなかりしが、今日其いかの口なる、世に鳶烏とかいふなる物、世にいみじかればとて大城に奉れるを、上も御覧ぜさせ給ひ、皆人見たりとて、、、さるは、さりし月のつもごりのころ、上総ノ国ノ天羽の舟人海の面に浮びたるを見付けてとりあげたる。
其烏賊のながさ二つゑ五さか、横のわたり六さかにあまり、その足のかこみ二さか斗にていみじう大きなる事、むかしも今もためしなし、、、さて世に珍らしき物なればとて、三つ斗にたち切、舟しておし送り、小田原町なる、、魚の問屋がもとへ来れるなりとなむ、それが口なる鳶烏は、ま事のとびがらすの大さしたるに、見る人あざみあへりとぞ。
是が年経たるはいくら斗かはしらざらめど、八千代いかと名を負せたりと聞て

   鶴亀の よはひにならふ 八千代いか
             八千代は御世の ためしとをなれ 

とあります、

要約しますと「先月末日のころ、上総の天羽の漁師が、長さ二丈五尺(約8m)、幅六尺(約1.8m)、足回り二尺(0.6m)もある大烏賊が海に浮いてるのを見て、珍しいので三つに切て小田原の魚問屋に持ち込んだ、その口の鳶烏は本当の飛び烏の位あり、江戸城に登り将軍の閲覧に供した。
この烏賊の年は分らないが、八千代いかと名前をつけたと聞いて、一句

    鶴亀の よはひにならふ 八千代いか
             八千代は御世の ためしとをなれ

 となります。
世界中でも、大王烏賊の大きさがはっきり書かれている史料として、古い方に入るのではないかと思います。
大王烏賊の語源ははっきりしていませんが、
(Architeuthis は、古典ギリシア語: τευθίς (teuthis) 「イカ」に、「最高位の、最たる」を意味する接頭辞 archi-[3] を添えたもの。『ウィキペディア』)の和訳ではないかと思われます。

としますと、和訳の前に日本では、八千代烏賊と名づけられていたのではないでしょうか。

    八千代いか
         何とも、みやびでございますな~
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歴史ドラマと史実、吉田松陰会津に行く、嘉永五年一月二十九日(西暦1852年2月18日)

2013-03-02 17:57:24 | Weblog
大河ドラマ「八重の桜」では、山本覚馬宅に吉田松陰が立ち寄ったことになっていた。
創作だろうと思ったがひょっとしてと思い松陰の「東北遊日記」を見てみた。


(昔図書館から借りたのですが、今回は古本屋から買いました、12巻揃いで¥9,000でした。古本の価格は、安くなり助かります、昔は高かったですね~。)
日記では、松陰は会津では、井深蔵人、志賀與三兵衛、黒河内伝五郎、高津平蔵、廣川勝助、馬嶋瑞園、西郷十郎右衛門など多くの知己を訪れていますが、やはり山本の名は出て来ませんでした。

ドラマに有名人が出てくるのは良いのですが、史実から遠ざかると歴史ドラマは安っぽく成って来るような気がします。
下世話にも「事実は小説より奇なり」と申します。

松陰が会津に着いたのは嘉永五年一月二十九日(西暦1852年2月18日)です。日記によりますと、当日の天気は、

    朝雪、のち晴

【霊憲候簿】によりますと、江戸でも天気は良いのですが、北寄りの風がふく寒い一日で、

気温は朝マイナス4.4度、昼は0度と、朝はその年の冬の最低気温でした。

日本列島が寒気にすっぽり覆われた時、松陰は勢至堂口から、福良、黒森、瀧澤を経て、会津に入ったのでした。
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