幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

ペリー来航の夏 アメリカがまたフランスでこまりけり

2008-11-16 15:05:33 | Weblog
次回の、篤姫はいよいよ鳥羽伏見の戦いの模様ですが、鳥羽伏見の戦いではとりわけて特別な天気ではありませんでした。
 そこで今回は幕末の社会変動のい出発点と言うべき、ペリー来航の夏の干ばつを紹介いたしましょう。 
アメリカ合衆国のペリー提督が黒船四隻を従えて浦賀に乗り込んできたのが、新暦の1853年7月8日(旧暦六月三日、以下日付は新暦)、今から155年ほど前のことである。幕府は大あわて、諸藩は海岸警備に借り出される、庶民は見物で、江戸から浦賀までの海岸線は押すな押すなでごった返した。7月27日将軍家慶が亡くなったが、世間では、家慶が遠眼鏡で黒船を見るため江戸城天守閣から身を乗り出し、落ちて死んだとの噂がもっぱらであった。
 西暦1853年、日本の年号では、嘉永六年の夏、ぺリー来航と同じくらい庶民を悩ましたものがあった。旱魃である、この年の旱魃はひどく「六十年余、覚えざる大ひでり」で「暑い暑い」の声が日本列島に充満した。「雨の気はアメリカへでも行たかえ」との洒落も飛び出した。実際、ぺリーが滞在した、7月8日から17日までの沼津市での最高気温の平均は、33.8度で暑さが甚だしく、30度を越える暑さは9月上旬まで続いた。雨も6月30日を最後に9月14日頃まで、雷雨を除けば雨らしい雨はなく、7月、8月をピークとして、10月頃まで水不足が続き、俗に言う「百日ひでり」の状態であった。もちろん、日本各地で秘術をこらした「雨乞い」が行われた。霊験あらたかな神々に歌舞音曲を奉納したり、神社の御札を海に沈めたり、霊山への登拝、龍神様の像を造って神社に篭り結願の日に焼き払ったり、町内会で山車や手踊りをだしたり、日本全国雨乞い祭りであった。
 夜には、不吉の前兆とされる妖星が北西の方角に長々と尾を曳き。
まことに、世の中の終末を思わせるものがあった。そんな、ある日江戸城の御門前に二本の大根にお灸がすえてあった。そのこころは、「日本大困窮」。

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