三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎氏は「龍馬伝」では、今のところボロボロの着物に、山のように虫かごを背負ったカタツムリのような姿で登場しています。
本当にあんな滑稽な格好だったのかどうかは分かりませんが、地下浪人の生活が苦しかったことは十分伝わってきます。
勿論、天下の岩崎弥太郎です、着物も段々良くなっていったことだと思います。
そこで、今回は岩崎の服装について調べてみました。
岩崎弥太郎は日記を付けています、長崎滞在中の日記を【瓊浦日歴】と言います。この日記の慶応三年四月二十六日の記事に、商談(ひそかに朝鮮貿易を談ず)の帰り「異人の店に入り、襟並襟結を買う、代四円一歩」とあります。「襟並襟結」というのは、背広のことのようですが自信はありません。
ただ、翌日の日記、 慶応三年四月二十七日(西暦1867年5月30日)の冒頭に、誇らしげに「洋服を着る」とあります。
洋服の価格の、四円一分というのは、四両一分です(古手かも知れません)。今の価格にしますといくら位でしょうか。
【あきる野市】の儀三郎日記によりますと、同年五月一日の記事に一両に白米九升とありますので、 白米にしますとおよそ、三斗八升二合五夕です。
【浜松付近】の萬日記覚によりますときじ三わ、壱両ト百文 、みかん15ケ300文とありますの で 雉にしますとおよそ12羽となります。
みかんにしますと、銭相場、一両約8000文で計算しますとおよそ、1700個分となります。
場所や相場の関係で現在との価格比較ははとても難しいようです。一般に江戸時代は、現在より米の相場は高く人件費は安かったようです。
それでは、岩崎弥太郎氏が洋服を着て長崎の町を闊歩した時の天気を御紹介しましょう。
購入した、四月二十六日は晴と【瓊浦日歴】には書いてありますが、他の日記を見ますと
曇【南阿蘇村】
雨、晴天【肝属町】
雨、終日やます、夜中同断【土佐市】
少々雨降ル【小郡市】
となっていまして、九州地方は天気は良くなかったようです。
翌日の四月二十六日には、
晴【南阿蘇村】
曇、晴天【肝属町】
晴【下関市】
雨四ツ半頃より晴ル、、夜星皆顕るる【土佐市】
天気【小郡市】
とありますように、天気は回復傾向にあったようです。
四月二十三日の夜、龍馬の乗った「いろは丸」は衝突沈没しました。弥太郎は知っていたのでしょうか、知らなかったのでしょうか。
何れ、天気の良い長崎の街を、洋服をきた岩崎弥太郎が得意げに歩いている姿が思い浮かびます。
本当にあんな滑稽な格好だったのかどうかは分かりませんが、地下浪人の生活が苦しかったことは十分伝わってきます。
勿論、天下の岩崎弥太郎です、着物も段々良くなっていったことだと思います。
そこで、今回は岩崎の服装について調べてみました。
岩崎弥太郎は日記を付けています、長崎滞在中の日記を【瓊浦日歴】と言います。この日記の慶応三年四月二十六日の記事に、商談(ひそかに朝鮮貿易を談ず)の帰り「異人の店に入り、襟並襟結を買う、代四円一歩」とあります。「襟並襟結」というのは、背広のことのようですが自信はありません。
ただ、翌日の日記、 慶応三年四月二十七日(西暦1867年5月30日)の冒頭に、誇らしげに「洋服を着る」とあります。
洋服の価格の、四円一分というのは、四両一分です(古手かも知れません)。今の価格にしますといくら位でしょうか。
【あきる野市】の儀三郎日記によりますと、同年五月一日の記事に一両に白米九升とありますので、 白米にしますとおよそ、三斗八升二合五夕です。
【浜松付近】の萬日記覚によりますときじ三わ、壱両ト百文 、みかん15ケ300文とありますの で 雉にしますとおよそ12羽となります。
みかんにしますと、銭相場、一両約8000文で計算しますとおよそ、1700個分となります。
場所や相場の関係で現在との価格比較ははとても難しいようです。一般に江戸時代は、現在より米の相場は高く人件費は安かったようです。
それでは、岩崎弥太郎氏が洋服を着て長崎の町を闊歩した時の天気を御紹介しましょう。
購入した、四月二十六日は晴と【瓊浦日歴】には書いてありますが、他の日記を見ますと
曇【南阿蘇村】
雨、晴天【肝属町】
雨、終日やます、夜中同断【土佐市】
少々雨降ル【小郡市】
となっていまして、九州地方は天気は良くなかったようです。
翌日の四月二十六日には、
晴【南阿蘇村】
曇、晴天【肝属町】
晴【下関市】
雨四ツ半頃より晴ル、、夜星皆顕るる【土佐市】
天気【小郡市】
とありますように、天気は回復傾向にあったようです。
四月二十三日の夜、龍馬の乗った「いろは丸」は衝突沈没しました。弥太郎は知っていたのでしょうか、知らなかったのでしょうか。
何れ、天気の良い長崎の街を、洋服をきた岩崎弥太郎が得意げに歩いている姿が思い浮かびます。
大分前ですが、「一両を今の価格にするとどれくらいか」江戸時代に詳しい方にお聞きした事があります。
その方のお話によると「(目安で)一両は6万円くらい。一分はその四分の一だから1万5千円くらい。庶民が普段使う一文は10円くらい」とのことでした。
背広(らしきもの)が四両一分。
そうすると、これは25,6万円くらいになるんですね。
初めての洋装でしょうか。掛けた金額も考えると、弥太郎さん格別な思いだったでしょう。
あら~。
龍馬さんの衝突沈没しちゃったお船・・いろは丸さんと同じ名前だったんですか??
ちょっと困っちゃいます
私の方のいろは丸は潜水艦ですので、常に沈没状態です。ご心配なく。
お教え頂きました一両、六万円位と言うのは分かりやすい目安ですね。
仙台藩は銀本位制でしたので、出てくるのは一分銀が多いです。
居酒屋のメニューも古文書にありますので、其のうちに「江戸時代、居酒屋ごっこ」でもしようかなと思っています。ただメニューが少ないのが残念です。
その時に一文10円、使わせて頂きます。
コメントありがとうございました。
やはり洋服は高かったんですね。
当時のはほぼすべて古着だったらしいので、ますます高いです。アルマーニかっ。
よく司馬遼太郎さんが、幕末モノで「小者の給金が年に3両」と書いてます。まあ、食・住つきではありますが、確かに人件費は安かったんですね。
返書が遅くなり申し訳ありません。
先ほど、岩槻市で書かれた「草木堂雑用日記」を読んでおりましたら、手ぬぐいの値段と労賃がありましたので、ご参考にお知らせ致します。
元治二年八月二十一日に手拭一本四百文です。同じく七月二十一日に大工四人で1400文ですから、大工さん一日の日当より手拭のほうが50文高かったようです。
よく考えてみますと、一日で手拭一本作れといわれても難しいです。としますと、今の安さの方が異常なのかと思いました。
ちなみに、綿黒羽織が一両三分七百文ですので、ざっと代相場が1500文位としますと11200文ですので、大工さんが32日働かないと、綿の黒羽織は買えないようでした。
慶応元年の物価騰貴と言いながら、今とは大変な違いです。今に生まれて良かったと思います。