先日、リクエスト頂きました、鳥羽伏見の戦いの時の、天気につきまして、管見を申し述べます。
鳥羽伏見の戦い開戦時は、慶応四年一月三日申刻頃、西暦にしますと、1868年1月27日午後4時頃になります。
両軍ともに、「あり得る」とは思っていたかもしれませんが、大寒の時節の晩からの開戦とは驚きです。
寒かったでしょうね。(命のやり取りで寒さも感じなかったのかもしれませんが)
ともあれ、天気概況を申し上げますと、慶応三年十二月二十九日頃日本列島を、低気圧が通過しました。
つがる市森田の【萬覚帳】によれれば二十八日は「朝暖気也晴曇り東風少々夜曇り風なし」とあり
翌二十九日には「明ケ頃雨少々降り東風大雨降ル、夜半頃雪吹西風替り大風往来止り申候、、雪吹倒れ森田人のよし」
とありまして、前日から東風と共に暖気が入っていましたが、二十九日の朝から東風で雨がふり、夜の12時頃から西風
に変わり大吹雪となり、行倒れの人まで出たことが書かれています。
つがる市では、低気圧から延びる寒冷前線が、夜12時頃通過しまして、大吹雪となったようです。
その夜は、群馬県中之条町でも「夜雪一寸足らず積る」とあります。
強い低気圧の後は、優勢な寒気が流入して来ます。
寒気の流入は日本海に筋状の雲を発達させ、日本海側に雪を降らせます。
鯖江の【間部家御日記】によれば、
十二月二十八日 雨
二十九日 雪
三十日 雪
一月 一日 雪
二日 雨
三日 晴
となっています。
水戸での気温の変化は(寒暖計ハ朝五ツ時をしるし、冬ハ其日の内の極寒き時分をしるし、夏ハ其日の内極あつき時分をしるす)
となっており、一月一日、二日と強い寒気が入ってきたことがわかります。
さて、慶応四年一月三日の天気分布をみて参りましょう
となっていまして、全国的に晴となっています。日本列島全体が、すっぽりと移動性高気圧に覆われたようです。
日中は、つがる市、銚子、新島などで弱い西風が吹き、あちこちの日記に暖和なことが記録されていて、江戸では摂氏1.7度、丸亀では、
8.9度との記事があります。(観測時間不詳)
翌、四日も日中は関東で弱い雨があったものの、温暖で穏やかな一日だったようです。(函館屋外で、摂氏3.3度)
と言いますと、鳥羽伏見の戦いは、比較的温暖ななかで、進んだと思われますが、実は恐ろしい落とし穴があります。
京都では、戦争開始の三日の夜から二日の朝にかけて、雲はあったものの、ほぼ晴天だったと考えられます。
そうしますと、放射冷却が厳しいはずです。
ちなみに、京都で晴天だった昨年(平成29年)の12月22日の午後4時の気温は摂氏10.2度、翌朝の最低気温は1度でした。
もし、同じくらい気温が低下したとしますと、氷点下だったことは、ほぼ間違いないと思います。
この日の高知県土佐市の日記には、
「晴、七ツ頃ゆる小、夜星動け共風も吹かす大ニ寒し、手水鉢ニ冰張る」とあります。
手も凍り付くような寒さの中で必死に戦った、鳥羽伏見の会津藩士の姿を、西条八十が詩で綴っています。
その夜の侍
宿貸せと縁に刀を投げ出した、 ふぶきの夜のお侍。
眉間にすごい太刀傷の、血さえかわかぬお侍。
口数きかず大いびき、暁までねむってゆきました。
鳥羽のいくさの すんだころ伏見街道の一軒家
その夜、炉ばたで遊んでた子供はぼくのお祖父さん
ふぶきする夜は しみじみと想いだしては話します
うまく逃げたか、斬られたか。
縁に刀を投げ出した その夜の若いお侍
その夜は吹雪にはなりませんでしたが、流石に状況が手に取るようです。
大詩人は、上手ですねえ。
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