2012. 6/27 1126
五十一帖 【浮舟(うきふね)の巻】 その34
「夜の程にて立ち帰り給はむも、なかなかなべければ、ここの人目もいとつつましさに、時方にたばからせ給ひて、河よりをちなる人の家に率ておはせむ、と構へたりければ、さきだててつかはしたりける、夜更くる程に参れり。『いとよく用意してさぶらふ』と申さす」
――せっかく訪れてすぐお帰りになるならば、却って来ない方がましというもので、さらに邸内の人の目も気兼ねですので、時方に工夫をおさせになって、川向うの人目につきにくい、さる人の家にお連れ出しになるよう手筈を整えさせておりましたので、夜更けてから時方が参って、「万事、御用意いたしました」と申し上げます――
「こはいかにし給ふことにか、と、右近もいと心あわただしければ、寝おびれて起きたる心地も、わななかれて、あやしき童べの雪遊びしたるけはひのやうにぞ、ふるひあがりにける。『いかでか』なども言ひあへさせ給はず、かき抱きて出で給ひぬ。右近はここの後見にとどまりて、侍従をぞたてまつる」
――これはいったいどういうおつもりか、と右近も気が気ではなく、寝ぼけて起きた心地でぶるぶる震えて、子供が雪投げをした時のように、震えあがるのでした。匂宮は浮舟に「まあ、どうして(参れましょう)」などという余裕もお与えにならず、抱きかかえてお出ましになりました。右近はこの家の留守役に残って、侍従をお付き添い申させます――
「いとはかなげなるものと、あけくれ見出す、ちひさき舟に乗り給ひて、さし渡り給ふ程、遥かならむ岸にしも漕ぎ離れたらむやうに、心ぼそく覚えて、つとつきて抱かれたるも、いとらうたしと思す」
――(浮舟は)ただ頼りないものだと朝夕見ていました小舟に、匂宮がお乗りになって、川向うにお渡りになる間も、はるばる遠い岸に離れていくような心地がして、ぴったり寄り添って抱かれているのも、匂宮はただもういじらしいと御覧になるのでした――
「有明の月すみ昇りて、水の面も曇りなきに、『これなむ橘の小島』と申して、御舟しばしとどめたるを見給へば、おほきやかなる岩のさまして、されたる常盤木のかげ繁れり」
――有明の月がさやかに空に昇り、水の面も曇りなく明るく見渡されます。舟人が、「これが橘の小島でございます」と申して、お舟をしばらく留めたのを御覧になりますと、大きな岩のような形で、洒落た常盤木が茂っています――
「『かれ見給へ。いとはかなけれど、千年も経べき緑の深さを』とのたまひて、『年経ともかはらむものかたちばなの小島のさきに契るこころは』」
――「あれを御覧なさい。ちょっとした頼りない木だが、千年も保ちそうな緑の深さですよ」とおっしゃって、歌「千年の緑を保つ橘の小島で約束するのだから、二人の仲は何年たっても変わることはない」――
「女も、めづらしからむ道のやうに覚えて、『たちばなの小島の色はかはらじをこのうき舟ぞゆくへ知られぬ』をりから、人のさまに、をかしくのみ、何ごとも思しなす」
――女も、なにか珍しい旅路を行くような心地がして、歌「橘の小島の緑の色のように貴方のお心は変わらないでしょうが、波に浮かぶ小舟のような頼りない私の身は、いったいどうなるのでしょうか」折も折とて、この浮舟のご様子もまことにたおやかですので、匂宮は何もかも風流に感じていらっしゃいます――
では6/29に。
五十一帖 【浮舟(うきふね)の巻】 その34
「夜の程にて立ち帰り給はむも、なかなかなべければ、ここの人目もいとつつましさに、時方にたばからせ給ひて、河よりをちなる人の家に率ておはせむ、と構へたりければ、さきだててつかはしたりける、夜更くる程に参れり。『いとよく用意してさぶらふ』と申さす」
――せっかく訪れてすぐお帰りになるならば、却って来ない方がましというもので、さらに邸内の人の目も気兼ねですので、時方に工夫をおさせになって、川向うの人目につきにくい、さる人の家にお連れ出しになるよう手筈を整えさせておりましたので、夜更けてから時方が参って、「万事、御用意いたしました」と申し上げます――
「こはいかにし給ふことにか、と、右近もいと心あわただしければ、寝おびれて起きたる心地も、わななかれて、あやしき童べの雪遊びしたるけはひのやうにぞ、ふるひあがりにける。『いかでか』なども言ひあへさせ給はず、かき抱きて出で給ひぬ。右近はここの後見にとどまりて、侍従をぞたてまつる」
――これはいったいどういうおつもりか、と右近も気が気ではなく、寝ぼけて起きた心地でぶるぶる震えて、子供が雪投げをした時のように、震えあがるのでした。匂宮は浮舟に「まあ、どうして(参れましょう)」などという余裕もお与えにならず、抱きかかえてお出ましになりました。右近はこの家の留守役に残って、侍従をお付き添い申させます――
「いとはかなげなるものと、あけくれ見出す、ちひさき舟に乗り給ひて、さし渡り給ふ程、遥かならむ岸にしも漕ぎ離れたらむやうに、心ぼそく覚えて、つとつきて抱かれたるも、いとらうたしと思す」
――(浮舟は)ただ頼りないものだと朝夕見ていました小舟に、匂宮がお乗りになって、川向うにお渡りになる間も、はるばる遠い岸に離れていくような心地がして、ぴったり寄り添って抱かれているのも、匂宮はただもういじらしいと御覧になるのでした――
「有明の月すみ昇りて、水の面も曇りなきに、『これなむ橘の小島』と申して、御舟しばしとどめたるを見給へば、おほきやかなる岩のさまして、されたる常盤木のかげ繁れり」
――有明の月がさやかに空に昇り、水の面も曇りなく明るく見渡されます。舟人が、「これが橘の小島でございます」と申して、お舟をしばらく留めたのを御覧になりますと、大きな岩のような形で、洒落た常盤木が茂っています――
「『かれ見給へ。いとはかなけれど、千年も経べき緑の深さを』とのたまひて、『年経ともかはらむものかたちばなの小島のさきに契るこころは』」
――「あれを御覧なさい。ちょっとした頼りない木だが、千年も保ちそうな緑の深さですよ」とおっしゃって、歌「千年の緑を保つ橘の小島で約束するのだから、二人の仲は何年たっても変わることはない」――
「女も、めづらしからむ道のやうに覚えて、『たちばなの小島の色はかはらじをこのうき舟ぞゆくへ知られぬ』をりから、人のさまに、をかしくのみ、何ごとも思しなす」
――女も、なにか珍しい旅路を行くような心地がして、歌「橘の小島の緑の色のように貴方のお心は変わらないでしょうが、波に浮かぶ小舟のような頼りない私の身は、いったいどうなるのでしょうか」折も折とて、この浮舟のご様子もまことにたおやかですので、匂宮は何もかも風流に感じていらっしゃいます――
では6/29に。