2011. 8/29 995
四十九帖 【宿木(やどりぎ)の巻】 その(56)
「げに誰も千年の松ならぬ世を、と思ふには、いと心ぐるしくあはれなれば、この召し寄せたる人の聞かむもつつまれず、かたはらいたき筋の事をこそ選りとどむれ、昔より思ひきこえしさまなどを」
――確かに古歌のいうとおり、誰一人千年の長寿を保つ人はいない人生だもの、と思いますと、痛ましくあわれな心地がして、召し寄せた少将の君が聞いているのも憚らず、人前では差し障りのあるところは省いて、昔からどんなにお慕いしていたかなどを――
「かの御耳ひとつには心得させながら、人はかたはにも聞くまじきさまに、さまよくめやすくぞ言ひなし給ふを、げにありがたき御心ばへにも、と聞き居たりけり。何事につけても、故君の御事をぞつきせず思ひ給へる」
――女君(中の君)にだけお分かりになるようにしながら、人には感づかれないように上手にお話になりますのを、(少将の君は)なるほど世にも稀なお心遣いであることよ、と聞き入っています。何をおっしゃるにしても、薫の君は、亡くなった大君のことを、尽きることなく思っておいでになります――
薫は、亡き大君のことを、
「いはけなかりし程より、世の中を思ひ離れて止みぬべき心づかひをのみならひ侍りしに、さるべきにや侍りけむ、うときものからおろかならず思ひそめきこえ侍りしひとふしに、かの本意の聖心は、さすがにたがひやしにけむ」
――私は幼少の頃から俗世を離れて世を終わりたいとの心遣いばかりし馴れて参りましたところ、前世からの因縁と申しますか、打ち解ける折とてなかったものの、並み一通りではなく大君をお慕い初めましたので、その一つのことで、折角の道心も揺らいでしまいました――
「なぐさめばかりに、ここにもかしこにも行きかかづらひて、人のありさまを見むにつけて、まぎるる事もやあらむ、など、思ひ寄る折々侍れど、さらに外ざまには靡くべくも侍らざりけり」
――大君を喪った悲しみに、せめてもと、あちこちの女に行きかかずらい、女たちの様子を見れば悲しさも紛れようかと思ってみました折々のありましたが、やはり他の女の人には心が動きそうにもありませんでした――
「よろづに思ひ給へわびては、心のひく方の強からぬわざなりければ、すきがましきやうに思さるらむ、と、はづかしけれど、あるまじき心の、かけてもあるべくはこそめざましからめ、ただかばかりの程にて、時々思ふ事をもきこえさせ承りなどして、へだてなくのたまひ通はむを、誰かはとがめ出づべき。世の人に似ぬ心の程は、みな人にもどかるまじく侍るを、なほ後やすくおぼしたれ」
――いろいろ思案に暮れては、一方では強く心惹かれるという人が居ないものですから、あなたは私をさぞかし浮気っぽいようにお思いになるでしょうと、恥ずかしいのですが、道ならぬ心が少しでもありましたら、怪しからぬことも言われましょう。ただこの位のことで、時折りあなたとお話をしたり、隔てなくお話を伺ったりしますのを、誰が咎めましょう。私は世間一般の普通の男とは違っておりますから、誰からも非難を受ける気遣いなどございますまい。どうぞご安心なさってください――
と、恨んだり泣いたりなさいます。
では8/31に。
四十九帖 【宿木(やどりぎ)の巻】 その(56)
「げに誰も千年の松ならぬ世を、と思ふには、いと心ぐるしくあはれなれば、この召し寄せたる人の聞かむもつつまれず、かたはらいたき筋の事をこそ選りとどむれ、昔より思ひきこえしさまなどを」
――確かに古歌のいうとおり、誰一人千年の長寿を保つ人はいない人生だもの、と思いますと、痛ましくあわれな心地がして、召し寄せた少将の君が聞いているのも憚らず、人前では差し障りのあるところは省いて、昔からどんなにお慕いしていたかなどを――
「かの御耳ひとつには心得させながら、人はかたはにも聞くまじきさまに、さまよくめやすくぞ言ひなし給ふを、げにありがたき御心ばへにも、と聞き居たりけり。何事につけても、故君の御事をぞつきせず思ひ給へる」
――女君(中の君)にだけお分かりになるようにしながら、人には感づかれないように上手にお話になりますのを、(少将の君は)なるほど世にも稀なお心遣いであることよ、と聞き入っています。何をおっしゃるにしても、薫の君は、亡くなった大君のことを、尽きることなく思っておいでになります――
薫は、亡き大君のことを、
「いはけなかりし程より、世の中を思ひ離れて止みぬべき心づかひをのみならひ侍りしに、さるべきにや侍りけむ、うときものからおろかならず思ひそめきこえ侍りしひとふしに、かの本意の聖心は、さすがにたがひやしにけむ」
――私は幼少の頃から俗世を離れて世を終わりたいとの心遣いばかりし馴れて参りましたところ、前世からの因縁と申しますか、打ち解ける折とてなかったものの、並み一通りではなく大君をお慕い初めましたので、その一つのことで、折角の道心も揺らいでしまいました――
「なぐさめばかりに、ここにもかしこにも行きかかづらひて、人のありさまを見むにつけて、まぎるる事もやあらむ、など、思ひ寄る折々侍れど、さらに外ざまには靡くべくも侍らざりけり」
――大君を喪った悲しみに、せめてもと、あちこちの女に行きかかずらい、女たちの様子を見れば悲しさも紛れようかと思ってみました折々のありましたが、やはり他の女の人には心が動きそうにもありませんでした――
「よろづに思ひ給へわびては、心のひく方の強からぬわざなりければ、すきがましきやうに思さるらむ、と、はづかしけれど、あるまじき心の、かけてもあるべくはこそめざましからめ、ただかばかりの程にて、時々思ふ事をもきこえさせ承りなどして、へだてなくのたまひ通はむを、誰かはとがめ出づべき。世の人に似ぬ心の程は、みな人にもどかるまじく侍るを、なほ後やすくおぼしたれ」
――いろいろ思案に暮れては、一方では強く心惹かれるという人が居ないものですから、あなたは私をさぞかし浮気っぽいようにお思いになるでしょうと、恥ずかしいのですが、道ならぬ心が少しでもありましたら、怪しからぬことも言われましょう。ただこの位のことで、時折りあなたとお話をしたり、隔てなくお話を伺ったりしますのを、誰が咎めましょう。私は世間一般の普通の男とは違っておりますから、誰からも非難を受ける気遣いなどございますまい。どうぞご安心なさってください――
と、恨んだり泣いたりなさいます。
では8/31に。