落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

ただいま

2008年11月25日 | diary
21日から旅行に行ってました。マカオと香港。
マカオでは世界遺産めぐりをして、シルク・ド・ソレイユのショーを観て、ポルトガル料理を食べて夜の海岸を散策、ホテルのアトラクションを観てまわって、もちろんカジノもやりました。1日で(爆)。マカオフルコース。
香港では買物と食べ歩き。主に雑貨のお店をまわってフルーツのデザートを食べたり広東料理を食べたり、街市をひやかしたり亀ドリンクを飲んだり。
残念だったのはせっかく買物する気満々で行ったのに、欲しいものがありすぎて実際にはほとんど何も買えなかったこと。結局買ったのはネックレス1本、しかも日本製とゆー。もっと何も考えずにバンバン買いまくればよかったあー。激しく後悔。なんてなことがあるから香港リピーターになる人がいるんだろーな。これといって大きな観光地があるわけじゃないのに、常に変化があって刺激的な香港。既に2度めなのに全然遊び足りた気がしない。

あとガイドブックやネットの情報があまりあてにならないことも今回判明。香港で行った日本語OKのマッサージ屋さん、値段はまあまあなんだけど技術的にはイマイチ。しかも1〜2時間後に激烈な揉み返しが来た。上海で行った激安マッサージ屋の方が相当うまかった。
マッサージはスタッフ個人のセンスや相性もあるから店単位でのジャッジは難しいけど、日本語に対応してるってだけで技術までは評価できないもんなんだよね。

旅先から更新する予定だったけど、結果的にはとてもそんな時間はなくて4日間放置してしまった。
旅のネタはまた今後おいおい書いて行こうと思います。


ベネチアンマカオリゾートにて。

On ne naît pas femme, on le devient.

2008年11月20日 | book
『できそこないの男たち』 福岡伸一著
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すべての人は女から生まれる。
男だろうが女だろうが、偉人だろうが犯罪者だろうが、天才だろうが凡人だろうが、セレブだろうがニートだろうが、とにかくどういう人間もそもそもの人生のスタート地点は女の股であるという一点だけは絶対に同じだ。
ところが人類の歴史の中でいつからか性差別が生まれ、どういうわけか女よりも男の方がエライとされる時代が長く続いている。一部では一見そんな差別は解消されたかのように見える社会も存在するが、本質的な解決の道はまだ遠い。
著者は分子生物学を専門とする学者。この本は遺伝子のレベルで「女はすべての生命の源である」という理論を説いている。
遺伝子学なんぞというと小難しい理系の専門書というイメージだが、文体が叙情的でまるで詩のように美しく、DNAを写本に喩えた表現などは歴史小説のようでもある。全体に読みやすく、読んでいて文章そのものにヒーリング効果があるようにも思える、綺麗な本だ。

地球の生命の歴史上、性差は長い間存在しなかった。初めはありとあらゆるすべての生命が、自らのコピーをつくって遺伝子を次世代に受け渡して来た。つまりその時代、この星にいた生命はすべてが母であり娘だった、というのが著者の解釈である。
単性生物のコピーは正確でありひとりで次世代をつくれるという意味では確実だが、不測の事態が起きたとき─急激な環境の変化、感染症─には絶滅の危険がある。そんな危機に備えて、生き物はより強い子をつくらなくてはならなくなった。そのためには自分以外の遺伝子との交雑が必要になる。
だから母は息子を産んだ。母の遺伝子を他の娘に運んでいくための使者として。こうして地球上には男が誕生したのだ。

こうした性の発生そのものについてはとくに新しい話ではないが、今の保守化のこの時代に科学者の立場から語られるというのがおもしろい。しかも文章そのものが読んでて楽しいのがいい。
けどぐり的には、遺伝子学の研究の現場がどれほどハードかつセンシティブなものかを、悲喜こもごものドラマを交えて淡々と描いたパートがいちばんおもしろかった。遺伝子ったって超ミクロな世界ですから、それこそ研究自体が超ミクロである。気が遠くなるほどの根気と繊細な熱意を失わない、精神的なスタミナが要求される業界である。そしてなおかつ、未だに知られていない・誰にも解読されていないページに満ちたロマンの宇宙でもある。
素敵です。冒険です。まだ誰も見たことのない宝物が山と埋もれた秘境みたいな場所、それが遺伝子。

男女問題といえば日本では先年ちょろりと問題になってスパッと消えた「お世継ぎネタ」。最後の方で少し触れられている。ちょっと残念なのは、ここでは「2700年続く万世一系」という伝説を誰も科学的に立証したことがないという事実に触れられていない点。
これってよく考えたらおかしな話なんだよね。これができないって時点で既にこの国は民主国家とはいえないんじゃ?なんてことは口が裂けてもいえないのよね?きっと?(ってゆーとるやんけ<自分)

脳も筋肉痛

2008年11月18日 | diary
一昨日の記事を若干改訂・追記しました。

土曜日はピープルズプランの講義に出て日曜日はAsagaya/Loft A、濃い週末で普段つかわないアタマを使ったせいかまだぼんやりする。
ピープルズプランの方はせいぜい2時間強だがAsagaya/Loft Aは1時に始まって飲み会が終わったのが9時半、8時間以上も連続して人の話を聞いてたことになる(途中抜けはしたけど)。集中力を限界まで使いきりました。そりゃ疲れる。
けど人身売買についての勉強会に出るたび、出席者も登壇者も圧倒的に女性が多く、議論も偏りがちな場が続いて微妙に物足りなさを感じてたぐりとしては、日曜のAsagaya/Loft Aのイベントは本当に貴重な機会だった。登壇者の立場もバラバラだし会場の観客も老若男女さまざま、映画も原作も読んでない人もいれば映画に批判的な人もいる。ネットで飛び交っているような嘘みたいに薄っぺらな非難にさえ、監督や原作者や製作者の口からちゃんしたと反論が聞けるなんてすばらしい。それでいて会場の空気が必要以上に刺々しくなったりもしない。いいイベントでした。

惜しむらくは会場が狭過ぎて、4時半に終わるまでほとんどまったく身動きすらとれないほど窮屈だったこと。
ぐりは開演ぎりぎりに着いてどうにか空いてた前から2列めのド真ん中という、思いっきり登壇者の目の前に座っていたのだが、その位置でなくても空間的余裕はどこにもなかったと思う。まっすぐ座ってられないくらい狭くて、ずっと腰をひねった妙な姿勢を取らざるを得なかった。
おかげさまで腰とか背中とかなんかへんなところが筋肉痛です。トークイベントに行って筋肉痛になるってどんなんだ。

ところでこの日曜のイベントにはTVはNHKの取材が入っていて他に紙媒体も来てたらしいので(ジャーナリストらしき客も結構いた)、そのうちどっかに出るかもとゆーことです。どこだかは知らんけど(爆)。


紅葉が見頃を迎えております。

濃日

2008年11月16日 | lecture
Asagaya/Loft Aで行われた「阪本順治監督『闇の子供たち』タイ上映禁止をめぐって。」というトークイベントに行って来た。
登壇者は阪本順治監督、原作者・梁石日氏、タイの撮影プロデューサー・唐崎正臣氏に加えて元一水会代表・鈴木邦男氏、企画は元赤軍派議長・塩見孝也氏。加えてなぜか「9条改憲阻止の会」の活動を記録したドキュメンタリー映画『We 命尽きるまで』の藤山顕一郎監督までいる。濃ゆい。濃ゆいにもほどがあろーとゆー濃さでございます。
午後1時にスタートして3時半までがパネルディスカッション、10分休憩を挟んで4時半までが質議応答でした。

*作品製作の経緯
・阪本監督にこの企画をオファーした中沢敏明プロデューサーは、以前プーケットで白人が少女を愛でている光景を目撃しいつかこのことを映画にしたいと考えているところに原作に出会った。
・ジャーナリストだった唐崎氏は30年間タイに関わっており、当初からこの問題をドキュメンタリーで扱いたいという意志はあった。
・タイでは海外映画の撮影には許可申請が義務づけられており、一旦申請して却下となった。理由は「あまりにも事実に近すぎるから」(爆)。合作映画であれば許可は必要ないので、タイ日合作映画という形式をとって撮影に入ったが、現在は法制度が変わり合作映画にも許可が必要になっている。
・監督は現地入りしてからも「本当に撮影できるのか」とても心配していた。唐崎氏は「100%撮らせます」と保証して安心させようとした。
・1998年に故勝新太郎氏が東南アジアでの幼児買春と臓器売買をテーマにした映画の企画を立ち上げようとしたことがあるが、実現しないまま亡くなっている。

*ペドファイルについて
・ペドファイル=加害者ではない。NGOでペドファイルとして人権保護活動をしている当事者もいる。罪悪感なく加害者になってしまうペドファイルはそういう意味では別人種。
・かつては東南アジアで児童買春をして検挙されても賄賂で釈放されて無罪放免だったが、現在は各国とも法規制が厳しくなり、現地で検挙されなくても本国に戻ってからNGOの告訴により罪を問うことができる。
・タイでは今年6月1日に人身売買禁止法が改正施行され、未成年者を買春した者は8年以上の懲役+100万バーツ(約350万円)の罰金が課せられる。
・映画に描かれたように、現地警察の中にもマフィアと癒着している者はいるが、そうでない者もいる。

*臓器密売について
・1990年にタイの医師が患者を殺害し臓器を売買した事件が発覚。
・やはりタイで僧侶が子どもを集めて殺害し、ジャングルで臓器を密売した事件も報告されている。
・(タイで日本の心臓移植が行われた事実はなく、映画の設定はフィクションである。なぜ現実に行われている腎臓移植を題材にしなかったかという指摘に対して)心臓に限らず臓器を奪われた子どもは間違いなく死ぬし、ふたつある腎臓の片方を売った大人でも健康な生活は二度と送れなくなる。腎臓ならよい、心臓でなければよいなどという問題ではない。
・日本国内では子どもの臓器提供が不可能なため患者はドイツやアメリカで提供を受けるが、日本の子どもが臓器移植ネットワークに登録すると当事国の患者の順番がくり下がってしまう。
・映画制作に協力した大阪大学の福嶌教偉医師が法改正のために運動しているが、なかなか議論が進展しないのが現状。
・移植法改正運動に参加している人たちも脳死問題については感情論でなく不満を持っている。日本では臓器移植は美談としてしか語られないが、この映画ではそうでない面があるということを表現したかった。

*バンコク国際映画祭での上映中止について
・この問題を国内でも議論するべく招待してくれたのは現地の映画監督たち。映画祭のスポンサーである政府観光省が「観光産業に悪影響がある」という理由でNGを出した。
・タイの政治家は「民主主義」という言葉が好きでよく使うが、タイの現実は建て前とは別物である。現実にはタイでは表現の自由が保障されていない。
・タイの市民社会では児童買春や臓器密売について誰もが知っている。この作品を「タイの国辱」ととらえるのは現実的ではない。
・日本以外ではハワイとチェコで上映された。

*リアリズムについて
・塩見氏:近代史を描いた映画では日本の客観的な「有り様」を題材にした映画はこれまでにもあったが、現在進行形のそれを描いた商業映画はなかったのではないか。
・タイの子どもは日本の子どもと見て来たものが違う。彼らのシーンがノンフィクションのように見えてしまうのは、彼らのリアルな演技力の賜物(ぐりは演出も良かったんだと思うけどね)。
・プラパドン・スワンバン演じるチットはかつて被害者だったという設定になっているが、実際に売春組織の末端で働いている人の50〜60%は元被害者だという現状がある。
・銃撃戦のシーンでマフィアがNGOではなく警察に発砲するのは、NGOを撃って殺してしまうと世論が余計に盛り上がってしまうから、という理由がある。
・タイでは国内作品・海外作品問わず社会派映画が上映されることがほとんどないため、俳優にも出演の機会がない。今回出演した現地キャストにとっては、リスクはあってもひとつのチャンスでもあった。
・ラストの売春宿の摘発シーンはシナリオにはなく、唐崎氏がリクエストして撮った。監督はそういう妥協をしてくれる人。また子どもの撮影についてはできる限りの時間を割いた。
・シナリオは日本で調べるだけ調べて書き、その後は現地取材をしてリライト、ディテールに事実に反する部分があれば改訂作業を重ねた。

*梁石日氏
・昔からこの問題に関心はあったが、直接のきっかけは部落解放同盟からの依頼があって書いた。
・社会の矛盾のしわ寄せは弱者に向かう、という事実を書いておかなくてはならない。
・実は取材はあまりしていないのだが、小説はあくまでもフィクション。だが事実の向こうにある真実になかなか辿り着けないときにそこまで飛躍できるのが小説であり、虚構の持つ真実には普遍性があるはず。
・以前にも映画化の企画はあったが立ち消えになったことがある。
・阪本監督とはもともと面識があった。
・物書きと映画監督は別物なので、映画化作品が原作と違うのは当然。注文はつけなかったが、ひとつだけ「子どもの虐待シーンはちゃんと描かないと意味がない」といった。いったものの実際どう撮るのかは想像がつかなかった。
・設定に違いはあるが本質的には原作に忠実な映画。

*なぜ舞台がタイ?
・梁氏:原作がタイだから(笑)。責任の所在は原作者。
・グローバル経済による新自由主義の影響を受けやすい土壌がタイにはあり、そこが近隣諸国と違う。
・監督:タイの映画界が発達していて仕事がしやすい環境があった。架空の国に設定すれば誰にでも言い訳が通用するが、それでは問題の距離が遠くなってしまう。
・唐崎氏:タイには近隣諸国からの不法入国者が100万人以上いて、うち子どもはほとんどが人身売買の被害者。成長した彼らはタイを経由してもっと豊かな諸外国へ売られていくという、タイが人身売買の経由地になっている事実があるから、この映画の舞台がタイであることはその意味で的を得ている。
・(映画では「タイ=貧しい国VS日本=豊かな国」という単純な構図がとられているがタイはそこまで貧しい国ではないのでは?という指摘に対し)首都だけ見れば確かに近代化が進んでいて先進国と変わらない水準に見えるが、そこを離れれば地方では日本の昭和初期と変わらない暮らしが残っている。山岳部の少数民族が暮らすエリアでは貧困問題は深刻。近隣国との経済格差だけをとりあげて「タイは貧しい国ではない」と判断するのは誤り。

*協力の「日本ユニセフ協会」の児童ポルノ禁止法の改正運動について
・(冤罪のリスクがあり表現の自由を侵害するリスクが懸念される改正運動に作品が利用されているのではないかという指摘に対して)監督:利用されているかどうかについてはわからないが、自分としては「この作品は抵触しないのか?」ということだけは気になる。
(この問題については以前ティーチインでも触れていて、「この映画に関わっていなければ、自分ももっと強く改正に反対していた」と述べられていた)

*音楽について
・岩代太郎氏自身がアフリカの子どものための活動に参加している(この活動が具体的になんなのかは不明)。

*映像美について
・題材が残酷であっても劇映画である限り映像に完成度は必要。映像でものを語れなくては意味がない。
・月のイメージカットは、月はどの国からも見えるから、映画の舞台はタイだけど描かれているのは日本である、というメッセージを込めたかった。
・ラストの川での水遊びのシーンは、前日に豪雨が降って濁流になり空も曇っていて撮影条件は悪かった。それでも子役がたまたまそこで遊んでいる「子ども本来の姿」を見て、虐待されている子どもを見せるだけではなく、子ども本来の姿から何が失われているかを表現するのにうってつけのシーンであるように思えたので、予定を変えて撮影することにした。

イベント終了後に近所の居酒屋で企画の塩見氏のミクシィ仲間と登壇者と一般参加者で飲み会があったのだが、ぐりは野暮用で速攻で会場を出なくてはならない。でもそこでムリ〜なんて諦めたらもったいない。用を片づけてから急いで合流、また監督に根掘り葉掘り些末なことを聞いてしまった。いちいち親切に答えてくれる阪本監督、素敵でした。50歳で独身。超ストライクゾーンなんですけどー。どうしよう(どうもこうもない)。
梁さんも一見怖そーなのに、ときどきすっとぼけた発言で会場全員大爆笑させてくれたりするナイスキャラでした。

今日いちばん心に残ったのはプラパドン・スワンバンの「この問題を知らなかった人全員に責任がある」という言葉。
言い方を変えれば、いったん知った人間は全員が責任意識をもつべきだということ。まったくもっておっしゃる通りでございますー。

関連レビュー:
『臓器漂流─移植医療の死角』 木村良一著
『脳死・臓器移植の本当の話』 小松美彦著
『闇の子供たち』1
『児童性愛者―ペドファイル』 ヤコブ・ビリング著
『現代の奴隷制―タイの売春宿へ人身売買されるビルマの女性たち』 アジアウォッチ/ヒューマンライツウォッチ/女性の権利プロジェクト著
『アジア「年金老人」買春ツアー 国境なき「性市場」』 羽田令子著
『幼い娼婦だった私へ』 ソマリー・マム著
『子どものねだん―バンコク児童売春地獄の四年間』 マリー=フランス・ボッツ著
『アジアの子ども買春と日本』 アジアの児童買春阻止を訴える会(カスパル)編
『少女売買 インドに売られたネパールの少女たち』 長谷川まり子著


梁さんと監督。なんかかわいいツーショットだなーと思うぐりのアタマは相当疲れてるね。
今日は朝からバタバタバタバタしていてソイジョイ1本以外何も口にしていないのだが、9時半に解散して帰りにコンビニに寄ったものの、バナナ1本しか買えなかった。何を食べたらいいのかも考えられないくらい疲れた。

セックスワークってなんだ

2008年11月15日 | lecture
ピープルズプラン研究所で行われた一度に読み解くセックスワークと人身取引という講義の2回め(1回めの感想)。
本日のお題は「ケア労働・感情労働・性労働」。

まず「セックスワーク」という言葉について。
この言葉が使われ始めたきっかけは1987年にアメリカで出版されてベストセラーになった『Sex Work』という当事者の証言集。日本では93年に翻訳が刊行されている。
ちなみにぐりが「セックスワーク」という言葉を初めて耳にしたのは95年で、フリーランスでセックスワークをしている女性が自らそう表現していたのを耳にしたときだと記憶している。

「感情労働(Emotional Labour)」の社会学的定義は
・それを提供する相手との相互行為の中で
・顔や身体を使って
・外側から観察できる表現をつくりだすように
・自らの感覚をコントロールする
ことが要求される労働である(by Arlie R. Hochschild)。
例)フライトアテンダント・ホステス・介護師・主婦・カウンセラーなど

一方「ケア労働」とは人の世話をする、気を配る、面倒をみる労働。
具体的に保育・介護・介助・看護・清掃・クリーニング・ケータリングなどを指す。
これと育児・看病・掃除・炊事・洗濯との違いは何か。
・家事/仕事
・プライベート/パブリック
・対象が限られる/限られない
家事労働を社会学では「愛の労働(Labour of Love)」と表現する。

「性労働」とはセクシュアリティを媒介にし対価のある労働を指すが、現在では具体的に厳密な定義は困難とされている。
なぜなら、「性労働」には一種のコミュニケーションや幻想・感覚の共有などを伴うケースが多々あり、「感情労働」「ケア労働」との境界が非常に曖昧だからである。かといって「性が関わっている」以上同じに考えることもできない。
たとえば高齢の利用客が多いナイトクラブのホステス嬢には自らの業務を「子どもに戻りたがっている男性の相手をしてあげる保母さんのようなもの」と表現する人がいて、高齢者福祉施設の男性介護師には女性利用者の介助業務を「デリへル」と表現する人がいる。両者の労働の性格は非常に似ていてある面では同一視することも可能だが、完全に同一視することに疑問も残る。
性労働従事者には圧倒的に女性が多いが、感情労働やケア労働にしても比率的には女性の方が男性よりも多い職種が大半を占めている。

この後も「感情労働」「ケア労働」「性労働」の差異と同一性について突っ込んだ説明と議論があったのだが、かなり細かくて散漫で感覚的な内容になるので今日ははしょります(爆)。まとめられない〜。
ひとつひっかかったのは「性的な付加価値のない労働はない(足立真理子・お茶の水女子大学教授)」という言葉。そりゃまーそーだわねー。究極的にはねー。
前回と出席者が結構カブッてたんだけど、フェミニズム活動家の方々の中には男性優位社会のすべてを断定的に否定的にとらえる人もいて、そーゆーのは議論の場といえどもリアリティないなーなんて思ってみちゃったりもしました。


フォーとベトナムコーヒー。
フォー大好き。