ふろむ播州山麓

京都山麓から、ブログ名を播州山麓に変更しました。本文はほとんど更新もせず、タイトルだけをたびたび変えていますが……

伊藤若冲 生涯と画業

2013-03-23 | Weblog
江戸時代後期の画家、18世紀に京都で活躍した伊藤若冲(1716~1800)のブームは、依然として衰えません。昨年春、ワシントンのナショナル・ギャラリーで開催された若冲「動植綵絵展」には、わずか1ヶ月足らずの会期に22万人以上の観客が詰めかけたそうです。アメリカでもたいへんな人気です。
 ところで若冲は謎の多い人物でした。しかし彼の秘密のベールは最近の研究によってつぎつぎにはがされ、真実の人物像があらわれつつあります。かつての若冲のイメージは、絵画オタクで世事にはうとい人物とされていました。しかし彼は正義感の強い、活発な人間であったことを、滋賀大学の宇佐美英機先生(日本近世経済史)が錦市場の文書から発表されました。
 また最近ではミホミュージアムの岡田秀之氏が、伊藤家菩提寺である宝蔵寺過去帳から、若冲が晩年に同居していた謎の人物だった女性と子どもを解明されました。
 岡田氏の記述はほかにも若冲還暦前の空白の数年間の解明。そして85歳で亡くなった若冲が88歳と款記している年齢加算の問題などにも、果敢にアプローチし大きな成果をあげておられます。

 小学館から大冊の美術全集が刊行されています。『日本美術全集』全20巻ですが、先月に第2回配本の第14巻「江戸時代Ⅲ 若冲・応挙、みやこの奇想」が発売されました。
 同書に掲載された岡田秀之解説「伊藤若冲 生涯と画業」が、若冲伝としてこれまでで最高の内容です。この本は1冊1万5千円と高額。興味ある方には図書館での閲覧、余裕ある方には購読をおすすめします。
 

 まず錦市場に近い裏寺通にある宝蔵寺。伊藤家の菩提寺で若冲の父母やふたりの弟たちの墓がいまも現存しています。大正時代に伊藤家過去帳が調査されていたのですが、当時発表されたのは若冲と両親とふたりの弟の記載でした。最近の再調査で岡田氏は同寺のすべての江戸期過去帳を調べ、新しい発見をされました。伊藤家初代から幕末の9代目まですべての当主とその家族の探究です。なお若冲の墓はこの寺ではなく、還暦以降の晩年を傾注した伏見深草の石峰寺にあります。
 伊藤家の当主は代々、伊藤源左衛門を名のり、初代源左衛門(1573~1649)は江戸時代のはじめから錦小路で青物商「桝源」を営んでいました。枡屋は錦市場有数の大店で、若冲は若くして亡くなった父、3代目源左衛門を継ぎ4代目を名のります。しかし彼は40歳にして弟の白歳に5代目を譲り画作に専念する。
 岡田氏は初代から9代目源左衛門まで、またその妻や子どもの名を追跡された。なかでも注目されるのが「寂真」と「清坊」の発見です。
 広島浅野藩の平賀白山が石峰寺門前に住む若冲のことを記しています。「若冲の妻か妹らしき女性の真寂が、その子どもらしい男の子と同居している」という不可解な記録です。若冲は生涯独身だったはずです。
 過去帳から判明したのは、若冲の末弟・宗寂の妻の名が「深窓寂真(ママ)禅尼」であり、寛保3(1743)~寛政10(1798)年3月11日没、享年56歳。寂真は若冲没の2年前に亡くなっていました。白山のいう女性は寂真です。子どもは清坊のようで、若冲のすぐ下の弟・白歳の孫です。過去帳では清坊の父は左太郎(6代目源左衛門)で、若冲の甥左太郎の次男が清坊(9代目源左衛門)。
 平賀白山が石峰寺を訪れたとき、門前の若冲宅に同居していたのは、若冲の亡くなった末弟の嫁だった寂真と、次弟の孫の清坊だったのです。清坊は石峰寺の若冲墓横に立つ筆塚を33回忌に建立した人物です。
 また若冲は身寄りのない子、「スイ笑」を養っていたという記述も紹介されている。スイ笑は天明元年(1781)没だが、平賀白山が石峰寺を訪れる12年前である。不思議な名のスイ笑とは何者か?
<2013年3月23日 「伊藤若冲 生涯と画業」は続けます 南浦邦仁記>
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