ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

若冲 五百羅漢 №6 <若冲連載25>

2008-12-14 | Weblog
椿山荘の羅漢 (4)

 ところで椿山荘ですが、もとは上総国久留里藩黒田家の下屋敷でした。明治十一年(1878)に公爵山縣有朋が入手し、もとの地名「椿山」にちなんで椿山荘と名づけます。なお彼の別邸は京都に無隣庵が新旧二庵ありますが、いずれにも羅漢の痕跡は見当たりません。
 椿山荘は大正七年(1918)に、山縣から藤田組二代目の男爵藤田平太郎に譲られました。理由は、晩年を過ごすには広すぎるから。また丹精をこめて造りあげた名園を永久に保存してくれる人物として、同じ長州出身の故藤田伝三郎の長子、平太郎は適任であったのです。
 藤田平太郎の妻、富子は『椿山荘記』に記しています。椿山荘にはかつて一休禅師の建立という開山堂があった。山城国相楽郡の薪寺から移築したものですが、「堂のまわりは熊笹の丘で、石の羅漢仏十数体を点々と配置してあります。この石仏は若冲の下画と称し、古くより大阪網島の藤田家の庭園にあつたものを移した。」
 富子は伯爵芳川顯正の三女として明治十五年に生まれました。父顯正は幕末、伊藤俊輔、のちの伊藤博文に英語を教えたひとです。明治期には東京府知事、文部大臣、司法大臣、逓信大臣、内務大臣などを歴任しました。彼も長州閥に属したひとです。
 平太郎が富子と結婚したのは明治三十四年二月です。網島のふたりの新居は、日本郵船の大阪支店長だった吉川泰次郎の屋敷を、藤田伝三郎が明治十九年に購入し、まわりの地を買い足した広大な敷地でした。富子は結婚当初から網島の豪邸で暮らしました。大阪網島は近松門左衛門『心中天の網島』で知られます。
 小松宮が羅漢を所望したのは明治三十三年でした。その翌年に結婚した富子は「羅漢は古くより大阪網島の庭園にありました」と記しています。椿山荘の羅漢たちはかなり以前に、宮とは別の経路を通じて、深草石峰寺から大阪網島をへて、大正年間に東京椿山荘へ移されたのでしょう。
 それと、もと高麗橋通にあった藤田旧邸から網島に移った可能性も考えられます。また吉川泰次郎の庭に、明治十九年以前からあったのかもしれません。移動経路は不明ですが、石峰寺から明治のはじめ、廃仏毀釈のころに出たに違いありません。江戸時代には、若冲石像が石峰寺から流出したという記録は一切ありません。
 ちなみに網島の旧藤田本邸は現在、藤田観光太閤園、藤田美術館、大阪市長公館、藤田邸跡桜之宮公園などが並ぶ地です。なかでも藤田伝三郎が親子二代にわたって集めた美術品は、大阪空襲にも幸い耐え残りましたが、質量ともに実に見事です。昭和初年の金融恐慌時にいくらか売却され散失しましたが、それでも同家所蔵品は数千点、うち国宝重要文化財は五十点をこえます。それらを収蔵する財団法人藤田美術館の設立に尽力したのは富子と義妹の治子でした。昭和二十九年に開館した同館初代館長は、藤田富子がつとめます。
<2008年12月14日 南浦邦仁>
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