ふろむ播州山麓

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若冲 五百羅漢 №8 <若冲連載27>

2008-12-25 | Weblog
江戸時代の石峰寺五百羅漢(2)

『拾遺都名所圖會』
 『都名所圖會』再刻版発行の翌年、天明七年(一七八七)には『拾遺都名所圖會』が刊行されました。都名所図会がたいへんなベストセラーになったため、柳の下のドジョウを狙って、続編が出たわけです。このあたりの思惑は、現代の出版事情とかわりません。以下本文を意訳します。なお図はない。
 「石像五百羅漢は深草石峰寺後山にある。中央に釈迦無牟尼佛、長さ六尺ばかりの坐像にして、まわりに十六羅漢、五百の大弟子が囲み、釈尊が霊鷲山(りょうじゅせん)において法を説きたまう体相である。羅漢の像おのおの長さ三尺ばかり。いずれも雨露の覆いなし。近年安永のなかばより天明のはじめに到っておおよそ成就した。都の画工、若冲が石面に図を描いて指揮した。」
 安永年間は十年間であったので多分、安永五年(一七七六)ころでしょうか。若冲六十一歳、還暦のころに制作を開始したのです。昔の年齢は数えなので、還暦は六十一歳でした。
 そして天明のはじめ、六十六歳か六十七歳の時、おおよそ五年か六年ほどの歳月をかけて、第一期の造作を完了したと思われます。
 石峰寺の石像群は五百羅漢と呼ぶにふさわしくない。このことは何人もの先学が指摘しておられます。明治期以前には千体以上の石像が後山にあったのですが、それを五百羅漢と称した原因は、最初に若冲が完成させた初期石像群が、上記のごとく、五百体余であったからでしょう。
<2008年12月25日 若冲屏風絵「象と鯨」を考える日々 南浦邦仁記>

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