ふろむ播州山麓

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津波の歴史 4 「原発耐震指針」

2011-04-23 | Weblog
 内閣府に所属する原子力安全委員会が制定した「発電用原子炉施設に関する耐震設計審査指針」という重要な指針があります。2006年9月19日に大改訂され、新指針と呼ばれています。以下、略して「原発耐震指針」「指針」と記します。
 1995年1月17日に阪神淡路大震災が起き、「どんな地震が起きても壊れない」と専門家が太鼓判を押していた、高速道路や新幹線の高架が崩れた。これが契機で、旧「原発耐震指針」の見直しがはじまったのだが、新指針の決定まで11年もかかった。
 新指針に適さない炉や施設はもう一度見直し、つくり直さねばならない。電力会社は膨大な出費を強いられる。11年もかかった原因は、電力会社の圧力ではないかといわれている。また新指針改訂が遅れれば、それだけ電力会社は儲かる。それと地震学者間の見解の相違も、新指針の決定を遅らせたとされる。

 指針の前文を長いですが引用します。なお全文はネット上に公開されています。PDF14枚で見ることができます。
 「本指針は、発電用軽水炉の設置許可申請(変更許可申請を含む。以下同じ。)に係わる安全審査のうち、耐震設計方針の妥当性について判断する際の基礎を示すことを目的として定めたものである。/従前の「発電用原子炉施設に関する耐震設計審査指針(昭和56年7月20日原子力安全委員会決定、平成13年3月29日一部改訂。以下、「旧指針」という。)は、昭和53年9月に当時の原子力委員会が定めたものに基づき、昭和56年7月に、原子力安全委員会が、当時の知見に基づいて静的地震力の算定法等について見直して改訂を行い、さらに平成13年3月に一部改訂したものであった。/このたびは、昭和56年の旧指針策定以降現在までにおける地震学及び地震工学に関する新たな知見の蓄積並びに発電用軽水型原子炉施設の耐震設計技術の著しい改良及び進歩を反映し、旧指針を全面的に見直したものである。/なお、本指針は、今後の新たな知見と経験の蓄積に応じて、それらを適切に反映するように見直される必要がある。」
 ところがこの新指針の文末に「地震随伴事象に対する考慮」という項目があります。ここで「津波」の記載がはじめて出るのですが、わずか2行のみ。
 「施設の供用期間中に極めてまれではあるが発生する可能性があると想定することが適切な津波によっても、施設の安全機能が重大な影響を受けるおそれがないこと。」
 津波について、わずかこれだけの記述である。また<極めてまれではあるが発生する可能性があると想定することが適切な津波>とされている。このような軽すぎる判断が下された経過は、この連載の次回で取り上げたいと思っています。

 米モントレー国際問題研究所上席研究員のマイルズ・ポンパー氏は、日本の電力業界の招きで、大震災・原発事故の前に来日した。福井県敦賀市の「もんじゅ」と茨城県東海村の原子力関連施設、そして青森県六ケ所村の使用済み核燃料貯蔵施設などを視察した。
 「東京に戻ってすぐに大震災に遭った。あのような揺れを体験したことはなく、強い恐怖を感じた。福島第1原発は視察していないが、全般的に日本の原発は地震に比べて津波への備えが不十分だと感じた」
 「日本を含む多くの国々は原発増設は節電などの『苦痛』を伴わずに温暖化ガス排出量を減らす唯一の方法と考えてきた。しかし、事故という『苦痛』を日本にもたらした。使用済み核燃料貯蔵施設は満杯に近く、再処理も進んでいない。今後の原子力政策を国民全体で再考すべき時だろう」<「日本経済新聞」4月22日朝刊>

 原子力安全委員会委員だった住田健二氏(80歳)は「地震だろうが、水害だろうが、テロだろうが、放射能という危険なものを抱えているわけで、何が起きても対応できるようにしておかなければなりませんでした。(今回の原発事故は)我々の世代の責任です」
 住田氏は実験用原子炉研究が専門の大阪大学名誉教授。原子力安全委員会の委員を1993年から8年間、また委員長代理を内2年間つとめた。2000年からは2年間、日本原子力学会会長であった。
 「大勢の学者が集まって検討しても、実質的には学者の専門分野ごとに縦割りです。自分の守備範囲は責任を持ってがんばるが、守備範囲外のことだと、仮におかしいなと思うことがあっても、相手はその世界の権威。食い下がってまで口出しする学者は、ほとんどいません」
 新指針策定のため、原子力安全委員会のなかに分科会をつくり、約20人の学者らが、5年がかりでまとめあげた。
 住田氏は「非常用電源が大事だとはいえ、安全審査の中心は炉を守ること。それが、とにかく第一です。配管が折れるとか、崩れるとか、それによって深刻な事態が起きないか。議論は、そこに集中し、津波は付随事象でした。…しかし、津波をかぶる、あんな位置に非常用電源を置いていたとは、本当に申し訳ないのですが、私も知りませんでした。…事故のあとに、学術会議の会合で私が報告したら『原発というのは町工場以下ですね』と失笑されました」
 住田氏が原子力安全委員だったときに、配管のなかの温度計が折れるという事故を調査したことがある。原発工事認可の書類を調べたところ、大手メーカーが下請けに出し、さらにふたつ下請けに行く。温度計が設置されるまでに、いちばん下の町工場から含めて20人ほどのハンコが押してある。知っている人が偶然いたので聞いてみると、「押した記憶はない。上司の机の上にあるハンコを部下が押して出すのは当たり前でしょう」
 住田氏は「福島原発の電源喪失の問題がなぜ見落とされたのか、私にはわかりませんが、ひょっとしたら、それ(無責任なハンコ意識)と似た意識だったのかもしれません」。また「柏崎の事故のときの教訓が生きなかったのかと残念でなりません。あのときは炉そのものは大丈夫でしたが、電源部分が弱いことがわかりました。今回の事故は『人災』と言われてもしかたがありません」<住田健二インタビュー「週刊アエラ」4月18日号>

 チェルノブイリ原発事故から25年。いまウクライナのキエフで記念の国際会議が開かれている。4月21日、柴田義貞氏(長崎大学特任教授)は会議の分科会で次のように語った。「福島原発事故を引き起こした巨大津波について、専門家が発生の可能性を指摘していたのに、東京電力が十分な対策をとらなかった」。「専門家の警告が無視されたという点で(チェルノブイリ原発事故と)同じ原因を共有している」<「朝日コム」4月22日>

<2011年4月23日>
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