ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

京のモンシロチョウ                

2008-04-05 | Weblog
♪ちょうちょう ちょうちょう 菜の葉にとまれ 菜の葉にあいたら 桜にとまれ 桜の花の 花から花へ とまれよ 遊べ 遊べよとまれ
 唱歌「ちょうちょう」だが、字面を追うと、この歌詞はどこか変である。モンシロチョウが卵を産むために菜の葉にとまるのはわかるが、桜の花から花へ飛ぶ紋白は、まずいないのではないか。
 戦前の原曲は「桜の花の さかゆる御代に」という詞だったそうだ。それが戦後に「花から花へ」に改編されてしまった。ために実に不自然な歌詞になってしまったのである。蝶もたいへんな迷惑をこうむって、うろたえフラフラしているのではなかろうか。
 しかし満開の桜花の下を優雅に舞う蝶はいる。ひらひらと飛び舞う花びらに、負けじと上下左右にゆっくり飛翔するモンシロチョウは、実にうつくしい。

 ところで、モンシロがいつから日本本土に住んでいるのか、不明だそうだ。原産地はヨーロッパ地中海辺だが、アメリカ大陸では1860年にはじめて採集されている。キャベツにまぎれての密入国であろう。
 ニュージーランドでは1930年に初確認され、オーストラリアは1939年、台湾では1961年に発見されている。日本でも沖縄は1925年、奄美大島では1927年からである。どの記録も意外と新しいが、日本列島へいつ来たのか、謎である。縄文後期か弥生時代との説もあるが、せいぜい数百年ともいう。

 日本最古のモンシロチョウの標本は、江戸時代のおわりころに数点が作製されている。なかでも面白いのが慶応2年(1866)、関東地方で採集された虫たちである。翌年にパリで開催される万国博覧会に出品するため、幕府学問所の役人であった田中芳男が五人の部下を従え、数ヶ月かけていろいろな昆虫を採取した。田中が捕虫網を振り回していたちょうどそのとき、徳川幕府は第二次長州征伐で悪戦苦闘している。
 虫たちは56個の絹下張りの桐箱に収められ、船でフランスに運ばれた。そのなかにモンシロチョウもいた。パリでは昆虫学者の注目を集め、ナポレオン三世から田中の標本は銀賞を授与される。慶応3年のモンシロチョウは、ヨーロッパに里帰りを果たした洋行蝶である。ちなみに田中芳男は帰国後、明治新政府に仕え博覧会や博物館事業にかかわり、上野動物園の初代園長も兼務している。

 標本以外の蝶で、もっとも古いとお墨付きを得た紋白蝶は、230年ほど前に円山応挙が京都・四条通の画室で描いた蝶「写生図」(東京国立博物館蔵)とされている。安永元年から同5年(1772~1776)の間に描かれた。彼は写生を重視した画家だが、日本最古のモンシロチョウは、応挙の写生帖で証明されたとされている。ご本人は、まさか後世に生物学者から認知され、「すごい!」と評価されるとは思いもしなかったようだ。
 蝶の古画は不思議だが少ない。また描かれた「てふてふ」をみても、装飾化されすぎていて、蝶の種類が特定できない。白蝶であっても、スジグロチョウなのかエゾスジグロチョウなのかモンシロチョウなのか、わからない。ところが応挙は、ものを忠実に写す写生を絵の基本に置いた。その成果が、モンシロチョウの特定につながったのである。

 円山応挙は亀岡市穴太の貧しい農家の出身だが、少年のときに京の商家に奉公に出る。四条通富小路西入にあった玩具商「尾張屋」中村勘兵衛方で働きながら作画を学んだ。彼はその後、住居を四条通麩屋町東入、同西入、堺町東入、高倉東入などとたびたびかえたが、四条通に居を構えたことが知られている。そしてずっと四条に晩年まで住み続けた。四条通の画室、おそらく麩屋町東入奈良物町の自宅で、一所懸命に紋白蝶をはじめ座敷に居並ぶ虫たちを写生する応挙の姿を想像すると、なんともほほえましい。
 ところで、応挙の蝶図は東京国立博物館に収蔵されている。だが、この画がいつなぜどのような経路で入手されたのか、博物館に確認してもらったが、記録は失われ不明である。ただ明治の早い時期ということは明らかであるが、たぶん同館の実質第二代館長をつとめた田中芳男が関与したことは間違いないであろうと、わたしは確信している。それと初代館長の町田久成も関わったであろう。彼は近江の応挙寺と呼ばれた三井寺・円満院と密接であった。田中はさきほど述べた、蝶たちをヨーロッパに運んだ人物である。

 と、このような文章を書いたのは、およそ五年前であった。モンシロや応挙や田中芳男のことなどかなり調べ、正確でいい文を発表できたと自画自賛していた。ところが最近になって驚いた。上記の文章はでたらめであり、大変な間違いを仕出かしている。
 ひとの文章を読んでいて、著者の間違いに気づくと「ふふん、これおかしいでしょ!」といつも微笑む、悪い癖をもつわたし。ところが今回は、自分の文に決定的なミスを犯していたのである。実に複雑な心境であるが、世間の定説を覆しておかねばならない。
 モンシロチョウを最初に描いたのは、応挙ではなく、実は伊藤若冲であった。

 京都の細見美術館所蔵「糸瓜(へちま)群虫図」に描かれていた。この作品を若冲が制作したのは、宝暦2年(1752)のことである。応挙の蝶図より二十年は古い。ほかにも、若冲の「動植綵絵」や「菜虫譜」などにも紋白は散見される。いずれもあきらかにモンシロチョウである。
 宝暦2年のこの年、応挙は若冲が住む錦市場のすぐ近くの四条に住まいしていたが、年齢は二十歳。作画修行中の身であり、「応挙」と名乗るのは三十四歳からである。
 ふたりが描いたモンシロを比較すると、決して正確でない羽の紋印まで、間違い方が非常に似ている。これからみても、若き応挙は隣人の若冲から影響を受けていたのでは、と思ったりしてしまう。ふたりの住居は、徒歩数分の圏内である。若冲は応挙より十七歳年長であった。
<2008年4月5日 覆しの醍醐味 南浦邦仁記>
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