ふろむ播州山麓

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宝島社、マッカーサー写真の謎 6

2011-11-13 | Weblog
 宝島社がマッカーサー厚木到着の写真を新聞各紙に掲載したのは、9月2日でした。1945年9月2日は「VJデ―」。この日、東京湾に停泊する黒船、アメリカ戦艦ミズーリ号の艦上で、降伏文書調印式が行われました。この日でもって、長かった第2次世界大戦が終了します。宝島社があえて選んだ9月2日は、米国のいう「VJデ―」対日戦勝利の日なのです。
 マッカーサーは連合国軍を代表して調印。そしてその場で、世界に向けて大戦終結をラジオで放送します。「この日、砲は鳴りをひそめ、一つの大きな悲劇が終わった。われわれは今、わがペリー提督ゆかりの地、東京湾に立っている。ペリー提督の目的はこの国に光と進歩をもたらすことだった……」

 ところで、降伏調印の式場をどこにするか? すったもんだがあった。ウィロビーは記している。「一時はかなりもめたものである。それというのは、陸軍と海軍がそれぞれの場所を主張したからだ。だが、いわば陸軍側のマッカーサーが譲歩した結果、米第三艦隊の旗艦「ミズーリ」艦上に決まったのである。もちろんマッカーサーは、ミズーリ州出身のトルーマン大統領のことを念頭に入れていたのである。事実トルーマンはこれを聞いて喜んだ」
 宝島社はあえて、大戦終結のこの日にあわせて大広告を打ったのであろう。

 日をあわせることはよくある。東条英樹が戦犯として処刑されたのは1948年12月23日。この日は当時の皇太子の誕生日である。現在では天皇誕生日として祝祭日である。猪瀬直樹氏はつぎのように記しておられる。
 「僕の疑問は、東条英樹の処刑日と新天皇誕生日が重複しているのが奇しき因縁なのか、それともあえて設定されたものなのか、ということにある。/連合軍最高司令官だったマッカーサーは、天皇制と軍国主義が永遠に結びつかないことを念じ、二つの日をあえて重ねたのではないか。そういう深謀遠慮があったのではないか。/もし“陰謀”だとしたら、四十一年も後で、第一回目の新天皇誕生日にはじめて効果を発揮する時限爆弾を仕掛けておいたマッカーサーは、たいへんな長期的ヴィジョンの持ち主ということになってしまう。もっとも今日の日本人は、東条処刑の記憶を喪っているから、仕掛けの効果は薄らいでしまったけれど。」
 マッカーサーは次期天皇の誕生祝祭日を迎えるごとに「敗戦と戦犯処刑を思い出せ!」という、日本国民に向けたメッセージをひそかに埋め込んだのであろう。わたしはそう思う。

 1944年11月7日、東京巣鴨刑務所でひとりの外国人スパイが処刑された。リヒアルト・ゾルゲである。彼は人生の最後の瞬間にこう叫んだ。「共産党万歳! 赤軍万歳! ソ連邦万歳!」
 この日、11月7日はロシア革命記念日である。死刑執行日をあえてこの日に決めたのであろう。革命記念日を祝うひとは、つねに処刑の日であったことを思い出すのである。

 ざっとみてきた各日、9月2日、12月23日、11月7日。いずれも日合わせが行われたのでしょう。宝島社の9月2日は、その効果を発揮したであろうか?

『GHQ知られざる諜報戦―新版・ウィロビー回顧録』C.A.ウィロビー著 山川出版社 2011
『ダグラス・マッカーサー~アジアの歴史を変えた男~』福川粛著 メディアファクトリー 1993 所収「マッカーサーの刻印」猪瀬直樹
<2011年11月13日 嵐TPPの最中に記す>

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