ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

隠れキリシタンと天皇制 第1回

2015-09-27 | Weblog
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主な内容は、「戦後70年特集 戦勝記念日に沸くサハリン」、「ルビコン河を渡った日本」、編集長は行く「卑弥呼の墓を思う夏」など興味尽きない読み物と写真がいっぱい!
 例によってわたしも寄稿しました。タイトルは「隠れキリシタンと天皇制」。「Lapiz」本誌で全文が読めますが、このブログでは5回連載でお送りします。


<鬼無鬼島>

 堀田善衛の小説『鬼無鬼島』は「キブキジマ」と読むのだが、題名からしてケッタイである。昭和31年11月刊の「群像」に発表され、翌年に新潮社から単行本『鬼無鬼島』が刊行された。鬼無鬼島という島に鬼は住んではいない。しかしそれでも鬼の島であるという。猟奇的なこの小説は、横溝正史が描く閉鎖的な僻地の因習や土着宗教の秘儀を思わせる。堀田善衛らしからぬ作品であろう。

 鹿児島県の離島、甑島(こしきじま)片野浦のある小さな集落に、いまも隠れキリシタンがひっそりと暮らしているという。数十戸の集落だが、住民全員がカクレキリシタンである。というか、正確には数百年前まではキリシタンであったが、過酷な弾圧をおそれ、彼らはキリスト教を密封してしまった。十字架も聖画も聖書も讃美歌もカトリックの儀式も、すべてを消してしまった。そして残ったのは形骸化し誰もその意味を理解できなくなってしまった儀式と若干の役職のみである。彼らの信仰は「クロ宗」(くろしゅう)という。
 集落の住人は村外者を完全に拒む。取材にも一切応じない。「クロ宗」信者には集落内での出来事や仕来りを一切口外してはならないという鉄の掟がある。同じ島に住む他村民はこう語っている。「クロの宗徒から、一連の話を聞き出すことは、絶対に不可能だ。クロにしゃべれと言うたって、それは連中にとって死をかけることと同じだ」
 かつてクロ宗の秘密を探ろうとした男がいた。岡谷公二著『島』によると、クロ宗の秘密を探求するために地区の分校に三年間勤務したが、何もわからなかった。また何度も住人から、理由のない迫害すら受けたという。
 婚姻についても村外者との結婚を認めなかった。近親者同士ばかりの通婚を繰り返してきたが、さすがに現在ではよそ者との結婚を認めている。ただし条件が付く。絶対に村の秘密を配偶者にも話さないこと、そしてもうひとつの条件が、どこか他所に居を構えなければならない。クロ宗の集落での夫婦の生活は認められない。

 キリシタン遺物の一切ない同集落だが、例外としてただひとつだけ大切な物がある。この島に四百年ほど昔に、秘密の宗教をもたらした人物の聖なる墓とされる。地元では「天上墓」と呼ぶ。秘密の宗教は、「クロ宗」あるいは「クロ教」という。十字のクロスが語源とされる。
 墓の主には二説ある。ひとりは薩摩出身のヤジロウ。フランシスコ・ザビエルを鹿児島に案内した人物である。名の漢字表記は確定しないが、これまでの調査では弥次郎が正しいようだ。
 もう一説では、「島原・天草の乱」の残党ではないかとする。また異説として、ヤジロウが島原の乱後、甑島に逃れたという説もある。しかしヤジロウがザビエルとともに明のジャンクで鹿児島に着いたのは天文18年8月15日(1549)だった。聖母マリア被昇天の祝日にイエズス会(耶蘇会)のザビエル一行が、ジャンクで同伴の信者で通訳のヤジロウの郷土である鹿児島に着いた。日本へのカトリックの伝道はこの日に始まる。
 しかし島原・天草の農民とキリシタンの乱は、寛永14年(1637)から翌年の足かけ二年である。ヤジロウがザビエルとともに伝道をはじめたのは、そのおおよそ九十年も前である。ヤジロウは島原の反乱には当然だがかかわってはいない。

 島のキリシタンの教祖と考えられるヤジロウであるが、彼は薩摩の武士だったようだ。しかしある事件を起こし、鹿児島湾坊ノ津からポルトガル船でマラッカへ、そしてインドのゴアに逃亡した。同地でキリスト教に帰依し、イエズス会の学校も卒業した。イエズス会士のフランシスコ・ザビエルに、日本へのキリスト教布教の必要性と意義を説く。
 ザビエルとともに鹿児島に着いたヤジロウたちは、熱心に布教につとめる。薩摩藩主の島津貴久は当初は交易に利するキリシタン宗の伝道を認めていたが、翌年には仏教界からの排訴を受け、キリシタン禁制と追放令を出した。ザビエルは平戸に逃れ都を目指す。ヤジロウは薩摩に残って秘密裏に布教を行ったが、仏教僧からの迫害を受け下甑島に逃れた。梅北道夫著『ザビエルを連れてきた男』には「ヤジロウは改めて伝道を続けたが、さらに厳しくなった迫害から逃れるために、下甑島の片野浦に移り、クロ宗と改めて密教の集落を組織した」
 島民は官憲による探索を避けるために、三方を山に囲まれほかの地区の人たちを寄せつけない当地に、教祖ヤジロウを住まわせた。そして彼の墓がいまも現存する「天上墓」であると言われ続けている。


 ところで昭和21年、カトリック鹿児島教区長の司祭が、GHQの米兵とともに片野浦の集落にやって来た。そして「正統カトリックに復帰するように」と呼びかけた。村落のサカヤの大毛(だいもう)は彼らを真宗の寺に案内し、自分たちは浄土真宗本願寺派の門徒であると主張し、お引き取りを願った。米村竜治はこの集落の立派な寺、片野浦説教所を「住民の秘密を守る防砦でもある」と記している。
 昭和63年2月(1981)、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が来日した。その折、随伴した法王庁の使節団から片野浦のヤジロウ墓を訪問墓参したい旨の打診があった。法王庁でもヤジロウ墓のことは公然の秘密であった。だが片野浦の同村はにべもなく断った。彼らの秘匿性は徹底している。
<2015年9月27日 南浦邦仁>
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