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今どきそば屋に入って「半ソバ」を注文したらきっとけげんな顔をされるだろう。
「半ソバ」は死語になりつつあるが、それでも学生街にあるひっそりとしたそば屋のメニューには今でも生きているという。
我が家の近くに「学園通り」と称する大通りがある。
その通り沿いには小学校が2校、中学校、高校が各一校ある。
四つも学校が在れば学園通りと呼ばれても不思議ではない。
タクシーの運転手にも「港川・学園通り」で通用するらしい。
しかし、学園通りのイメージにそぐわない店がこの通り沿にやたらと目に付く。
居酒屋が何故か多い。 暇に任せて数えてみたら十数軒もあった。
この街も姿を変えコンビニと居酒屋の街に変り果てるのか。
ところで、この界隈に私のお気に入りのソバ屋がある。
日本蕎麦も好物だがこの店はウチナースバ(沖縄ソバ)の店だ。
メニューに、普通のソバやソーキソバの他に「学生ソバ」と言うのがある。
値段が安く設定されている割には量が多く、近所の学生がよく食べに来ているようだ。
冗談に,私も元学生だから学生ソバが欲しいと言ってみたら、老いた女店主は「ごめんなさいネー、学生ソバは奨学金の補助をうけているのよー」と訳の分からん返事が返ってきた。
突然記憶の回路が遠い昔の噂話を検索した。
ソバにまつわる似たような話を思い出したのだ。
未だ沖縄が米軍占領下の頃、学生たちは何時も腹をすかし、やせこけているのが若さの象徴だった。
飽食の時代が来るなんれ夢想だにしない欠食の時代だった。
ビリーズ・ブートキャンプ・ダイエットに大金をはたく若者が溢れる時代を誰が想像しただろう。
回想の糸を手繰ると、その頃ソバにまつわる心温まる話があった事の想い出にたどり着いた。
現在、首里城がある首里高台には戦火で破壊された城跡があった。
首里城は未だ再建されておらず、そこには琉球大学が建っていた。
その頃沖縄ではアメリカドルが使われていた。
大学近くに年老いた母と娘の二人で経営する大衆食堂があった。
食堂とはいってもお客が注文するのは殆どがソバだけ。
ソバは20セントだったが、他に「半ソバ」10セントがあった。
「半ソバ」とは小腹がすいた時、ソバでは量が多すぎるという客の為のおやつ代わりのメニューである。
食堂は小腹どころか空きっ腹の学生たちで大繁盛で、母も娘もいつもてんてこ舞いだった。
学生たちは何時も半ソバを注文して、食べ終わると何故か必ず半ソバのお代わりをするのが常だった。
学生たちの間には「耳寄りな話」が噂となって流れていた。
「あの食堂のオバーはどうやらモウロクしているらしい。 計算がわからんみたいだ」。
でもソバを作るのはお婆さんだが、お金のやり取りは娘がやっていた。
娘は半ソバのお代わり分も含めて20セントをちゃんと受け取っていた。
ソバにはそれぞれ三枚肉と蒲鉾が2枚ずつ具として乗っていた。
次のような話が次から次へと学生の間に伝わっていった。
「あそこの半ソバ2杯は普通ソバの1倍半か2杯分近くある」。
「おまけに半ソバにも普通ソバと同じ大きさの三枚肉と蒲鉾が同じ量入っている」。
「普通のソバ1杯食べるより、半ソバをお代わりして食べた方が肉も蒲鉾もソバも多く食べられるんだ」。
「それをあのオバーは気が付いていない」。
「損をしているのに、2度手間で忙しいばかりで気の毒だ」。
「でも金は無いし、背に腹は替えられない。 知らぬが仏だ知らん顔しよう」。
しかし、貧乏学生以外の客はごく普通に普通ソバを注文し食堂は相変わらず大忙しだった。
空きっ腹の学生達には、何故大人たちが半ソバのメリットに気がつかないのか、考える心の余裕はなかった。
*
時が流れ30年後のある日の事。
今では大会社の社長になったあの貧乏学生の1人が、あの街のあの食堂を訪ねた。
お婆さんは既に亡くなっていたが年老いた娘が食堂の後を継いでソバ屋をやっていた。 大衆食堂はソバ処と看板は変わっていた。
時はドルから円の時代に変わっていた。
半ソバはメニューから消えて、ソバー500円、ソバ(大)600円に替わっていた。
元貧乏学生は今では店主となった娘に懐かしそうに話し掛けた。
「あの頃はオバーに随分世話になりました。年寄りと娘がやっているのを良い事に随分損をさせたような気がします」
「ああ、半ソバの事ですか」
「そうですが・・・、オバーは気が付いていたのですか」
「勿論、ちゃんと全部判っていましたヨ」
「『お金のない学生さんがひもじい思いしている。 仕方が無いさー』そう母は何時も言っていました」
「でも他のお客さんは気がつかなかったのですか」
「他のお客さんも皆事情を判っていましたヨ。 でも半ソバをお代わりする人は誰もいなかったですヨ」
元貧乏学生は恥ずかしさで赤面した。
あの頃、みんな判っていて知らん顔をしていてくれたのだ。
自分たちだけが利口のつもりで、計算に弱い店主を出し抜いていたつもりが、何と言う事だ。
他の客は皆「半ソバお代わり」の秘密を承知していたのだ。
今では忘れてしまった人情の温かさに胸が熱くなってきた。
*
そのソバ屋のメニューに翌日から「学生ソバ 250円」が加わった。
あのオバーの半ソバと同じ出血大サービスのお徳用メニューが顔を見せていたのだ。
注文は学生に限るとの但し書きが付いていた。
皆がこれを注文すると困るとのこと。
お客さんの人情も時代が変えてしまっていた。
半ソバは死語になっていたが、時をを越えて学生ソバと言う名前で蘇っていた。
その後、[学生ソバ]が奨学金で支えられていると言う奇妙な噂が流れたが、誰もその真偽を確かめる事は出来無かった。
*
「学生ソバ四つ!」
弾けるような学生の声で半世紀前の半ソバの幻から一瞬にして我に返った。
近くの高校の女学生集団が部活の休憩に乱入したもようだ。
食べ終えたソバの丼には食べ残しの三枚肉の皮が一つ寂しげだった。
ここは浦添、学園通り界隈。 半ソバの首里とはかなり離れている。
あれは幻だったのか。
それとも、オバーの半ソバの心は時空を越えて学園街に学生ソバとして受け継がれているのだろうか。
出掛けに丼の三枚肉の皮を口に放り込みガムのように噛みながら店を後にした。
ランニングしながら声を掛け合う学生の一団がソバ屋に向かって来るところだった。
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古きよき時代のお話に思わず目頭が熱くなりました。
コンビニでは、このようなやりとりはないですね。
私も幼少のころに、兄と二人で、25セントもって
「そば小」10セント也を食べ、おつりを駄菓子屋
で・・。懐かしく思い出されます。
まだ沖縄が左翼に侵食される前のことですよね。
>思わず目頭が熱くなりました。
そう言っていただけると、お世辞でも嬉しくなります。
>私も幼少のころに、兄と二人で、25セントもって
沖縄の憂鬱さんもドル時代の記憶のある世代でしたか。
昭和が懐かしい時代になり、「アメリカ世」も遠くなりましたね。
そう、そう「沖縄タイムスと琉球新報の写真」、リンクさせてもらいました。
>「『お金のない学生さんがひもじい思いしている。 仕方が無いさー』そう母は何時も言っていました」
>「でも他のお客さんは気がつかなかったのですか」
>「他のお客さんも皆事情を判っていましたヨ。 でも半ソバをお代わりする人は誰もいなかったですヨ」
おばあさんとお店に来るお客さん、若気の学生さんの風景が思い浮かび、心があたたまり涙が止まりません。年をとって涙もろくなったせいではないと思います。
沖縄にも、こんなお店と、そこに通う人たちが沢山いたのですね。そして、いまでも残っている...。
今日は良いことがありそうな機がしてきました。良いお話を、ありがとうございました。
気に入っていただいて大変嬉しいです。
>おばあさんとお店に来るお客さん、若気の学生さんの風景が思い浮かび、心があたたまり涙が止まりません。
最近、妙な連中に利用されて「沖縄のおばーはウソつき」といった印象が流布して残念ですが、
実際はそうではありません。
やさしくて逞しいおばーは今でもたくさんいますよ。
>年をとって涙もろくなったせいではないと思います。
年齢に関係なく感動したら涙を流す人間っていいですよね。
いくつになっても怒る時は怒り、
感動したら涙を流したいです。