狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

沖縄タイムス読者の声

2011-01-10 18:43:04 | ★集団自決

 

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歴博の「集団自決」展示説明文は左翼勢力の圧力にも関わらず、必ずしも左翼勢力が意図するような「軍の命令や軍の強制」といった文言を明記させることはできなかった。

これまで左翼勢力の歴史歪曲により、集団自決については一般的に次のようなイメージが定着しているのは事実である。

集団自決⇒手りゅう弾⇒軍用品⇒軍の命令

歴博側が主張するように、軍の命令や強制で集団自決をしたという証拠や証拠は無い。  したがって歴博が「軍の命令(強制)」を明記しないのは当然であるの。 左翼勢力は「手りゅう弾=軍の命令」というイメージを基に記述変更を迫っているわけだから、元々無理な要求であることは明らかである。

何度もいうが集団自決で死亡した人たちは鋤、鍬、鎌等の農具で自決したのであり、手りゅう弾で自決した人はきわめて少数である。

渡嘉敷島集団自決の象徴的存在である金城重明兄弟は軍備品の手りゅう弾では無く、棍棒などで自決に手を貸している。

また座間味の集団自決でもほとんどが農具等や剃刀による自決であり、手りゅう弾で自決した人はたった一人の女教師であった。 それも、他人が投げた手りゅう弾の誤爆によるものだというから手りゅう弾使用による集団自決は例外的ということもできるくらいだ。

手りゅう弾で死んだ人のことを捉えて「軍の命令」だと強弁する手りゅう弾軍命説」は、いまでは、一部の左翼勢力以外に誰も問題にしない空論である。

読者の義挙人さんのお父さまも手りゅう弾を手にしていたが、自分の意思で捨てたの命拾いをされている。

何らかの方法で手りゅう弾を入手しても、自分の意思で捨てることのできるの状況ば軍命でもなければ強制でもない。 これは小学生でもわかる事実でである。

他県にある国立歴史民俗博物館にまで、抗議する沖縄県の市民団体は、どこまで、府っているのでしょうか、、、、?。

>>沖縄戦の犠牲者のなかには、戦闘ばかりでなく「集団自決」による)死者も含まれていた。<<

この事実で十分だと私は思いますが、、、
必ず、、「命令、強制、あるいは、関与、指示」を表現しろと言う、、、市民団体は、どこの、何様でしょうか?

「手りゅう弾の配布は「善意の関与」」です。

亡き父が、私が幼い時に、私にそのように言っていた記憶があります。善意の関与と言う表現ではなく、、「いざという時は、これで、、(死のう)」と、、。

しかし、父は、、手榴弾は、逃げる途中で捨てたと話しました。

この話が、私は事実だと、今でも思っています
。>(義挙人さん)

義挙人さんがご指摘のように一般の人が見る歴史博物館の展示には沖縄戦には集団自決があったことだけを伝えれば十分であり、命令、強制、あるいは関与等を書き加えることは蛇足以外の何物でもない。

同じような趣旨で高校教科書の沖縄戦の項目には「沖縄戦の犠牲者のなかには、戦闘ばかりでなく「集団自決」による死者も含まれていた」程度で必要かつ十分だと考える。

 

歴博の展示文変更で一番怒り狂ったのが、結果的には一番圧力をかけていた沖縄タイムスだったのは皮肉である。

その沖縄タイムスの読者欄に沖縄タイムスの「怒り」を諭すよう読者の投稿文が掲載された。

これまでの沖縄タイムスは、自分の論に異論を述べる投稿は、たいていはボツが相場であった。 だが、インターネットの普及が著しい昨今、沖縄タイムスもこのような投稿をボツにばかりしていたら、読者に見放されるのを肌で感じ始めたのだろう。

沖縄タイムス 2011年1月10日 オピニオン面

歴博の修正は沖縄側に配慮

金城英明さん=40歳 (那覇市)

国立歴史民族博物館の沖縄戦展示について、博物館は沖縄側の要求を考慮してパネル説明文の内容を一部修正したが、沖縄側は軍強制・関与が明記されていないとして反発している。 なぜ、そこまで軍強制・関与の明記にこだわるのか私にはわからない。  修正文を見ると、「日本軍により」軍民の一体化が進められ~」や「手りゅう弾の配布に示される軍人の指示~」などが盛り込まれており、この文脈から集団自決に軍が関与したことは十分うかがえると思う。 むしろ、沖縄川に配慮して専門家による再検討を行い内容を修正した博物館側の誠意にもっと敬意を表すべきではないか。 明記にこだわるのは集団自決に対して軍命があったということを明確にしたいという考えであろう。 だが、軍命についてはなかったという証言があることから、国の研究機関でもある博物館としてその両方を表現できるような内容にするのは、ごく当然のことであると思う。 一方的な視点と主張は逆に沖縄が孤立しないか心配である。(那覇市)

                                                          ☆

ネットの普及した現在、このようなバランスの取れた視点で新聞を読む読者が増えている。

特に最後の結語部分は、このように読み換えてほしい欲しいという読者代表の意見だと受け取ってほしい。

一方的な視点と主張は逆に沖縄が孤立しないか心配である。⇒一方的な視点と主張は逆に沖縄タイムスが孤立しないか心配である。

 

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沖縄の真実 (偽作捏造史観粉砕)
2011-01-10 20:06:07
元々、陸軍海上挺進戦隊には
手榴弾は通常装備になっておらず
昭和20年1月10日にルソン島北部リンガエン湾で米上陸部隊を迎え撃ち
撃沈撃破16~22隻という大戦果を記録した
第十二戦隊などは、陸軍の他部隊から融通してもらって
やっと出撃に間に合わせた程でした。
仮に自警団や基地隊に装備されていたとしても
住民の自決用に回すなどとは思いもよらぬ事でした。
戦争の話。 (義挙人)
2011-01-10 22:14:23
こんばんわ。
私のコメント採用ありがとうございます。

本件(歴博の「集団自決」)には、直接関係ないが、亡き父に関しもっと続きがあります。
ご迷惑だと思いますが、ご理解の上ご了承下さい。
上記のコメントは、南洋(サイパン)での出来事です。
父母から聞いた話を、そのまま記述します。

昭和何年かは、定かではないが、、、、
父は、大工をしながら、農業しておりました。
或る日、役場に勤めていた親戚の叔父さんが、父に、「そろそろ、この沖縄も、情勢が厳しくなってきている、、もしかすると、戦争に突入するかも知れない、、、今だったら、大丈夫だから、、夫婦でサイパンに出稼ぎに行ったらどうか?、、、」と進められて、サイパンに渡ったそうです。
結果的には、安全と思われていた、サイパンが一番、激戦地だったと後で聞きました。
現地で生れた、姉と兄(私の兄姉)を抱きながら、大変苦労して、非難したそうです。
日本軍のこともいろいろ話していました。
下っ端の兵隊は、「ンジャラー」(悪い性格、乱暴)でしたが、上の人(位の上)は、「とっても、上等で親切だった」と言っておりました。「田中中将」と名前まで、覚えていていました。
田中中将から、食べ物や、水も貰いましたと言っていました。
戦渦が激しくなると、逃げるのに精一杯で、母(現在96歳で元気です。)は右のコメカミに爆弾の破片を受け、今でも、傷が残っています。

田中中将のことは今でも、どうなつたかなぁ、、て、噂します。
              つづく。
続、戦争の話。 (義挙人)
2011-01-10 22:55:09
結局、サイパンで捕虜に採られ、終戦で沖縄に帰ってきました。
帰って来た、父は、戦争のことはあまり話はしなく、殆ど、母が話していました。
今、考えれば、そうです。
父の友達、同級生は、徴兵されて、ほとんど、戦争で亡くなり、自分ひとりが、戦争に行かずサイパンに渡り、戦渦を逃れて来たわけですから、、、、心に、、、思うものがあったのでしょう。
父は、昭和63年に73歳で亡くなりましたが、亡くなる前は、たしか、いつも、慰霊の日とか、終戦日には一人で、那覇に行っていました。
もしかしたら、護国神社に参拝、、、、?
それを、考えると、私は、、、自然と涙が、、出てきました。

自分の、口から、決して 戦争の話はしなかった父、狼魔人日記を拝見して自分も分かりました。今考えれば 徴兵を逃れるために、サイパンへ、、、、でも、そのおかげで、今の、私があります。

ですから、私が、戦争で亡くなりました英霊の皆さんに、感謝の気持ち、持たない訳がないでしょう。
Unknown (涼太)
2011-01-10 23:35:47
狼魔人様
義挙人様

貴重な話ありがとうございます。私がお世話になったオジーも老人会の旅行などで東京近辺に来る機会があったときは、真っ先に靖国神社に行かれていました。戦争の直接体験者の方々には私たちが理解できない心情があると思います。
金城会長と佐藤元総理のエピソードも、恥ずかしながら始めて知りました。
実際戦争体験者の方々の地道な活動が国を動かしたのだと思います。その様な方々の行動が、佐藤元総理に「沖縄の復帰なくして日本の戦後は無い。」「沖縄の苦労に報いるなら何でもやれ。」と言わしめたのだと思います。
左翼団体のように、いくら口で平和、平和と言ってもあまり説得力はありません。恩を仇で返すようなものです。

>>一方的な視点と主張は逆に沖縄タイムスが孤立しないか心配である。

同感ですね。中国などの留学生が、実際にアメリカ、日本などに留学し、自分たちが教えられた歴史観が嘘だったと分かりショックを受ける学生も多いそうです。沖縄の子供たちも本土の大学、会社に就職する子も多いと思います。
同じようなショックを受けるのでしょうか。


Unknown (竹島)
2011-01-10 23:39:14
「竹島奪還」デモ行進のご案内(大阪)

2月22日「竹島の日」を前に「竹島奪還」を声高に訴えたいと思います。
今さら言うまでも無く、『竹島』は日本固有の領土。そこを韓国が戦後のドサクサに紛れ上陸し、その後ド厚かましくも実効支配しています。数ヶ月前から生じている「尖閣の領有権問題」ともども、日本国として一歩も引くことのできない極めて重要な領土問題。ご参集をお願いいたします。

開 催 日  平成23年1月30日(日)  

集  会  午後3時30分~

デモ出発     4時00分~
       ※ 大阪国際女子マラソンのため、集会、出発が当初の予定より2時間遅れます。

集会会場  大阪市西区新町北公園(厚生年金会館前)  
        ※ 地下鉄四ツ橋駅北西へ5分

経 路  ~御堂筋~韓国領事館前~難波解散(午後5時頃終了;約2キロ)

主 催  竹島を奪還する会・関西(西秀士代表)
        実行事務局 M情報 担当;藤島(090-3621-1509)

後 援  打倒民主『桜組』 外国人参政権に反対する会・関西

来 賓  梶谷萬里子(県土・竹島を守る会事務局長;島根)

お願い 
①たいへん寒くなると思います。温かい格好で。  
②プラカードは主催者で準備いたします。
③上記計画は間接、直接的に一般市民の皆さんにに対して「竹島問題」の啓蒙を目的としています。 それにふさわしくない言動、服装はご遠慮ください。また、妨害行為等に対しては『一切無視』の姿勢で行います。
沖縄の東京オリンピック (alpha)
2011-01-11 00:36:33
本日のテーマとは直接の関係は有りませんが、某MLで素晴らしい記事がありましたので紹介します。

以下引用

>沖縄の東京オリンピック

これ見てない方は見てくださいね。
涙なくしては見れません。東京オリンピックが開催された年、
沖縄はまだアメリカ占領下にありました。
その当時の沖縄での国旗、国家一体への思いが語られています。

国旗の重み 沖縄の東京オリンピック

ニコニコ動画
http://www.nicovideo.jp/watch/sm12942897

youtube
http://www.youtube.com/watch?v=ACb3qUmX8-U&feature=related

引用終わり
義挙人さんの話 (ジェームス)
2011-01-11 01:26:36
大変興味深く拝見致しました。

どのような姿勢で臨むのか、
その誠実さがよく伝わってきます。

一方で、
沖縄タイムス・オピニオン面金城英明さんのご意見について。

沖縄が(日本の中で)孤立しやしないかと心配する、
また、
自分が(周囲の親戚・知人の中で)孤立しやしなかと心配する。

沖縄(または自分)の利害損得、打算でモノを考えるな!
事実と信ずるならば、孤立を恐れず主張しろ!
この手の問題について。

左翼イデオロギーは日本全国に蔓延し、
保守系の共通の敵として認識可能ですが、
もう一つ、
沖縄には左翼イデオロギーのその下に隠れているものが沖縄の戦後問題の中にある、
と私は思っております。

沖縄が他の地域と異なる点は、以下の通り。

ことの起こりは、
米軍ではなく、
日本軍を対象にした、
その理由は、
金銭援助が受けられるから。

捏造でも歪曲でも、
さもありそうな作り話、人の心を打つ巧妙な作り話でもなんでもしよう、
沖縄のみんなの為になることなら、嘘をついて、何が悪いのか!
嘘をつくのに気後れがする人は、
話のある部分だけ取り出し、聞く人の想像を誘導する。

これは、
左翼イデオロギーが問題、という話ではない。


徴兵該当の年齢時、海外へ出稼ぎに行けば、
免除される。
(これ沖縄で多かったようです)
戦闘協力者ではないのに、協力者。
(3歳でも協力者)

抜け駆けは、イデオロギーの問題ではない。
心の問題。姿勢の問題。
これは、
戦後も続いて今も続いたまま。
これ、拡散して、
日本全国抜け駆けOKということになれば、
国家は存続不能で、
安全も金銭援助も享受することはできなくなる。

左翼イデオロギーは、
自己正当化・目くらまし・金の引き出し
道具として利用しているだけ。

問題は、
心の姿勢。
オカシイことをオカシイと思わず、
何が悪いのか、と開き直る、
その心が問題。
ちょっとした誤認が NO1 (安仁屋正昭)
2011-01-11 22:48:16
ジェームス様
援護法の一般県民への適応に関する誤解が少々あるようですので、説明させて頂きます。
援護法の申請は、沖縄県側のみの捏造で可能だったとしても、その後の現認調査が通らなければ、適応となりません。
3歳の子供までが、軍属となった事、確かに腑に落ちないことと思います。
3歳の子供が軍属であったと申請すれば、これを軍が証明してくれなければなりません。
ですから、遺族と琉球政府の援護課だけでは、この申請が通らないようになっておりました。
通ったという事は、厚生省・法務省と旧日本軍がこれに協力したということになります。
3歳未満の子供まで軍属扱いになった理由は次のような経緯が事例としてありました。
山部隊(第24師団師団長雨宮巽中将)が5月4日の総攻撃に参加するためには、部隊を一日で南部から上陸してから首里北部戦線に転進しなければなりませんでした。
その時、後方参謀杉森少佐及び作戦参謀長苗代正治少佐は、当区の区長に相談し、区長の命により14歳から65歳男女までの男女に砲弾等の運搬の協力を要請しました。
しかし、当時ほとんどの男子は、防衛召集されており、女子供と老人が大半であったようです。
ある婦人は、一人の子供の手を引き、一人を背負い、砲弾を頭に乗せ、この移動に協力しました。
移動中米軍の攻撃にあいましたが、子供の手を引き、砲弾を頭に乗せていたため、伏せることも出来ず、背負っていた3歳の子供もろ共敵弾が貫通し、亡くなりました。
この事を杉森・苗代両参謀が雨宮司令に報告。
司令が婦人の協力ぶりに感謝された事が記録に残されております。
この事例がきっかけとなり「親子戦闘協力者について」という特措法が定められることとなりました。
ちょっとした誤認が NO2 (安仁屋正昭)
2011-01-11 22:53:08
援護法が沖縄に施行された昭和28年には、主だった土地は、米軍に占有されており、もともと肥沃ではなかった農地は沖縄戦で荒果ててしまいました。また、沖縄戦では県民の2割が戦死した為、一家の働き手を失った家庭が多く、総じて県民を救済する術が無かった為、援護法の適応に県をあげて(実は国をあげて)当たったということになります。
 軍人・軍属以外の戦死者の救済に、食糧の提供・壕の提供・戦闘協力等としたようですが、60年の安保闘争に敗れた全学連は、62年に沖縄を日本革命の拠点とする事を宣言。左翼による新しい歴史観を作り出して行きました。
 沖縄返還が決定した69年以降はより一層、日本軍に憎しみを植え付ける沖縄戦史を作りあげるため彼らは、かつて援護法を適応させる為に理由づけられた食糧の提供・壕の提供・戦闘協力等を食糧の強奪・壕の追い出し・軍命、強制に変えて行きました。
 給付を受けている遺族が、否定できないことを知ってのことですから、この狡猾ぶりには、底知れない卑劣さを感じます。
 沖縄発のメデイアの情報は、気を付けて判断下さい。左翼運動家らが望んでいることは、沖縄と本土を分断することです。
Unknown (涼太)
2011-01-11 23:52:19
安仁屋正昭様

的確なご指摘ありがとうございます。
でも、一方では北方領土の郵便教員や軍需工場への爆撃で無くなった女学生のように、国に殉じながら戦後何の補償もない方々がいることは沖縄県民もご理解ください。
軍人の名誉を守ろうと、すさまじい同調圧力の中、証言された照屋昇雄さん、宮平秀幸さん、金城武徳さんはじめ立派なな沖縄県民がいたことは、私たち本土に住んでいる人間は忘れません。どうか沖縄の皆様にはその方たちが疎外されないよう守ってください。お願いいたします。
それにしても、赤松さん、梅澤さんの善意を台無しにした、沖縄の馬鹿左翼の罪はは万死に値しますね。普段はウチナンテューのアイデンティティーを大事にしようとか言いながら、この人たちから感じるのは、自己主張のみで心底から沖縄を愛しているとは思えませんね。

Unknown (涼太)
2011-01-12 00:08:20

済みません。
郵便教員→郵便職員です。
コメントに関する、意見ありがとうございます。 (義挙人)
2011-01-12 09:14:55
おはようございます。
今朝も、早くから、ネットを拝見していたら、、、、、、下記のブログ発見した。

「田中徳祐『我ら降伏せず―サイパン玉砕戦の狂気と真実』 (立風書房、1983年) 」

本件は、サイパンでの米軍の 老人、子供、婦女子への蛮行の記録が書かれています。

私は、一瞬、目の前が、、真っ青になりました。 母が言っていた「田中中将???」てな事はないと思いますが、、、。

どなたか、この本か、田中徳祐氏に関してご存知の方が居れば、お知らせ下さい。
Unknown (alpha)
2011-01-12 14:02:45
義挙人様

サイパン戦記をざっと見ましたが、「田中中将」は登場しません。

田中徳祐氏は、自身も上記の著作を出しておられますし、大場栄氏の「タッポーチョ」にも、田中少尉として登場します。

当時の階級については昇任がありますので、時として混乱があるかと思います。

お母さんが言っておられた田中中将とは、田中(徳祐)中尉の聞き間違い、記憶違いの可能性があるのではないでしょうか?
(alpha) 様へ (義挙人)
2011-01-12 18:08:04
(alpha) 様

ありがとうございます。

何分、母は今年で 97歳になりますので、記憶もあやふやな所もあると思います。

昨夜、母に改めて聞いたら今度は、ヤマモトゲンスイ(元帥?)と言う名前で、当時、50~60歳位で、立派な方でした。と言っております。
(母は耳は遠くなっていますが、まだまだ、大丈夫だと思いますが、、)

「我々は、いずれ死ぬ、あんた達は、逃げるだけ逃げなさい」と言われたそうです。
その方は、その後 戦死したと、仲間の兵隊さんから聞いたそうです。

ヤマモトゲンスイと言う方は、サイパン戦記に出てきますでしょうか。
すみません、連 (義挙人)
2011-01-12 18:20:47
(alpha) 様へ

母の話の時期は、、、長男(私の兄)が昭和19年4月生まれですので。
ヤマモトゲンスイが、、、 
「坊や、可愛いね、、、何ヶ月ですか」と頭をなでながら、母に聞かれたそうです、、、母は「三ヶ月になりました。」と答えたそうです。ですから、昭和19年7月ごろのサイパンでの出来事です。

そこまで、記憶が残って話すから、信頼できるかも、、、。
ヤマモトゲンスイ (alpha)
2011-01-12 18:37:15
義挙人様

ヤマモトゲンスイと聞けば私が思い浮かべるのはこの方しかおりません。


山本 五十六(やまもと いそろく、1884年(明治17年)4月4日 - 1943年(昭和18年)4月18日)は、新潟県出身の大日本帝国海軍の軍人。26、27代連合艦隊司令長官。位階勲等は元帥海軍大将・正三位・大勲位・功一級。ソロモン戦線で米軍の攻撃によって戦死するまで太平洋戦争(大東亜戦争)前半の日本海軍の攻勢作戦、中でも真珠湾攻撃とミッドウェー海戦での総指揮に当たったことから海外でも太平洋戦争の日本を代表する提督として広く知られる。


昭和18年の没時に59歳です、海軍元帥で威厳もありますのでのでお母さんの記憶とも一致するかと思います。

サイパンでお母さん達に山本元帥がお話をされたかは判りかねますが、兵隊さん或いは将校から常々「我々は、いずれ死ぬ、あんた達は、逃げるだけ逃げなさい」と言われており、その根拠として「ヤマモトゲンスイがそう言っておられる。」とされたのではないでしょうか?

多少の推察を交えることになりますが、ある意味当時の背景を考えれば理解できるかと思います。
Unknown (alpha)
2011-01-12 19:02:46
義挙人様

山本元帥では戦死時期との関係で齟齬が生じますね。

考えられるのはお母さんと話をされた方はそれなりの年配の軍人ではあったが山本元帥その人ではなく、「山本元帥が○○と言っておられた。」と引用されていたのかもしれませんね。

もう一つの可能性は実際に「ヤマモトゲンスイ」若しくは類似の名前の兵隊さんが居た可能性がありますね。
訂正 (安仁屋正昭)
2011-01-12 23:05:14
>南部から上陸してから首里北部戦線に転進しなければなりませんでした
↓訂正
南部から首里北部戦線に転進しなければなりませんでした

コピペしたため、「上陸してから」を除くことを忘れてしまいました。
涼太様 (安)
2011-01-12 23:29:37
大田昌秀氏等アナーキーは、沖縄県人でもなければ、日本人でもありません。
出来る事ならセイバイしたいところです。

>、国に殉じながら戦後何の補償もない方々がいることは沖縄県民もご理解ください。

沖縄県民が恩知らずにならないように、我々が果さねばならないことがあることを承知致しております。
安仁屋さん (ジェームス)
2011-01-13 00:22:56
色々なこと、意見を述べたいところですが、
一点だけ。
沖縄戦に関して。

外間守善さん、彼は確か第24師団の一等兵か二等兵だったと思いますが。
その著書に、
守備地の喜屋武半島から首里北部の最前線への移動の話が載っております。

高級参謀の八原博通の手記には、南部配置の1師団・1混成旅団の北部転進の経緯が書かれております。

移動する時には、
移動は夜間、米軍の砲撃を避けることが目的で目的地の壕まで一晩で、移動する。
機関銃の弾のように砲弾を日本軍の最前線に集中して打ち込んでいるのですから、
身を隠す壕に辿り着くことができなければ、部隊は戦わずして全滅。

私たちが当時の戦場の状況を想像すれば、理解できます。

移動日は部隊によって異なっていたと思いますが、4月25日前後が多かったのではないでしょうか。

5月4日の総攻撃と、南部配置の師団・旅団の首里北部戦線移動は、直接関係はありません。
第62師団が米軍の集中砲火を受けて日に日に消耗が大きくなり、持ちこたえられず、突破されるのは時間の問題、南部からの上陸の可能性は低い、の2つをもとにした八原の判断によるもの。
(八原参謀の出版手記が根拠になります。)

沖縄戦について、沢山の間違った話がまかり通っておりますから、
何が事実で何が作り話であるのかを、
仕分ける必要があります。

>山部隊(第24師団師団長雨宮巽中将)が5月4日の総攻撃に参加するためには、部隊を一日で南部から上陸してから首里北部戦線に転進しなければなりませんでした。<

おかしなことが話の前提にされてしまっているな、と私は上のことから感じてしまうのです。
他にもアレッ?と思うことがありますが、一点だけ。
(alpha) 様へ (義挙人)
2011-01-13 12:16:16
(alpha) 様
ご丁寧な返答ありがとうございます。

名前に関しては、私も ヤマモトゲンスイと言われたときには、まさかと思いながら、「山元元帥?」て何度も聞き返しました、、、、別の山元と言う方かなと思いました。

(alpha) 様が、言われるとおり
>>類似の名前の兵隊さんが居た<< か、
>>「山本元帥が○○と言っておられた。」<< の可能性があります。

私も、引き続き、調べてみます。ありがとうございます。
ジェームス様 (安仁屋正昭)
2011-01-13 22:38:36
1974年12月25日発行 那覇市史 資料編 第2巻中の6
島尻郡旧真和志村戦争記
戦争末期の民間人の惨状  宮里一夫 編
193頁 繁多川住民が島尻に下る時には軍が交換用の壕や食糧を準備してくれたことだが、これは例外だった。
壕を交換、食糧もくれ、トラック3台を出してくれた
207頁 新田宗政の証言 5月1日、将校が繁多川住民の壕にきて「君等の壕と我々重砲隊の小城の壕と交換しよう」といい、さらに「我々は君らの食糧を使うから、君らは我々が小城に残した食料を使え」といった。・・その際友軍はトラック三台をだしてくれ、年寄りと子供はそれに乗り、歩ける人はあるいた。東風平村の小城に区民は全員移動した。

田村洋三著「沖縄の島守」の中に証言者としてたびたび登場する知念堅亀氏に一昨年の夏に会い、当時の話を伺いましたが、5月1日に軍が転進してきたことを上記の証言者と同様に語っておられました。この壕は現在繁田川図書館のある所です。

総攻撃の為に転進して来たものと思われます。

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