防衛省の田中聡沖縄防衛局長が「(女性を)犯すときに『これから犯しますよ』と言うか」という趣旨の発言をしたとして更迭される事態になった。

しかし、この報道を見ていてわたしはこわいと思った。なぜなら、この発言は「報道陣との酒席での、報道を前提としない非公式発言」と報じられている。つまり、マスメディア関係者しかいない密室での発言である。このような難しい状況での発言について、テレビのニュースなどでも「本当にその発言はあったのか」「あったとして、その正確な表現は何だったのか」「前後のやりとりはどういうものだったのか」「誘導はなかったか」というような検証がまったく抜け落ちている。

それどころか「こういう発言があったということなんですが、どう思われますか」「許せませんね」という街頭インタビューを行なっている。「もし○○が本当だったら許せない」という先取り批判メソッドは、リテラシーの観点からいっても決して行なうべきではないと確信する。

もちろん、基地移転の準備段階となるステップの時期を明言しない理由を述べるのに、わざわざ「犯すときに「これから犯しますよ」と言いますか」というような言葉遣いをするのは適切ではない。それは当然の前提だ。だが、それが事実であると確定するまえに批判するのは先走りである。

そういえば先日も「記者への非公式発言」を理由に辞めた後に「そんなことは言ってなかった」と報じられた大臣がいたはずだ。

「もし○○が本当だったら許せない」という発言をわたしは「先取り批判メソッド」と読んでいる。これは極めて卑怯かつリテラシー不足の発言である。理由は以下のとおり。

「○○」が本当なのかどうかをまず検証する、という「立ち止まり」がない。まずは善悪判断を保留して、その前提となる事実を確認すべきなのに、事実検証の努力を怠っている。
「もし○○が本当だったら」という仮定形にすることで、「○○が本当だとは断定していない」という言い逃れを可能にしたいという心理が背景にある。自分の発言に責任を取ろうとしていない。
「もし○○が本当だったら許せない」と発言することで、「許せない」と言われた人に対する強い批判となっているし、聞いた人は「あの人はそういう〈許せない行為・発言〉をした(かもしれない)人なんだ」という悪印象を持つ。
つまり、悪印象だけを強烈に伝える表現であるのに、発言者自身は「断定はしていない」と言い逃れできる。すなわち、「卑怯」な方法で一人の人間を貶めている。
伝言ゲームの過程の中で、「もし○○が本当だったら許せない」は確実に「○○と言った(とされる)△△さんは許せない」に変形する。その「とされる」が脱落するのも時間の問題である。
その結果、実は○○が間違っていた場合に「そんなことは言っていない」と主張すると「とぼけるな」「しらばっくれるな」「嘘つき」という批判が重なる場合もある。
また、「○○が事実なのかどうかをまず検証すべきであり、それが未検証の段階で批判するのは先走りすぎだ」という意見を述べると、往々にして「△△さん擁護」と誤解されがちである。もしくは意図的に「まず検証という態度」を「擁護」だと決めつけてみせて、検証への流れそのものを封じようとする例さえもある。

これは、震災時のデマの話も同じである。目の前に流れてきた情報を、事実かどうかの検証もせずに「本当だったら大変だ」とばかりにツイッターで拡散したりすると、結局はデマ拡散に荷担したことになってしまう、というのはつい数か月まえにわたしたちが経験し、教訓としたばかりのはずではなかったか。

震災後のデマ80件を分類整理して見えてきたパニック時の社会心理[絵文録ことのは]2011/04/08

まず立ち止まる。善悪評価を「積極的に保留」して、まず事実かどうかを検証する。そして事実だと判断できるだけの材料が揃った時点で、自分自身の責任で自分の意見として批判すればいい。それがリテラシーある態度である。