中国最初の皇帝による中華帝国の統一事業と挫折 第1回
序
古代中国では周の滅亡後長い数世紀の間、中原の覇を争った春秋戦国時代を経て、始皇帝(前259年ー前210年 在位前247年ー前210年)は中国史上最初の皇帝となった。司馬遷が編纂した「史記」に50年の帝王の生涯をたどることができる。始皇帝すなわち秦王政は、趙の邯鄲で生まれ、13歳で秦王に即位し、39歳で天下を統一し皇帝となった。12年間秦帝国を支配し数々の事蹟を残して不意に病死し、彼が残した帝国も3年後に瓦解した。わずか15年御の短命な統一帝国にもかかわらず、歴史上の意義はたとえようもなく偉大で、その帝国の完成は劉邦(武帝)の漢帝国に受け継がれたといえる。2000年以上の間中国大陸の興亡は始皇帝の図式の上で進行したといえる。中華帝国の皇帝支配の根源を創出したのが始皇帝である。東洋的絶対的支配者の原型を作ったのである。司馬遷(前145年―前86年)の史記は、皇帝となるべき存在として始皇帝像を描いている。史記は始皇帝の死後100年以上たってからの記述であり、始皇帝の実像とは言い切れない。司馬遷は前漢の武帝(在位前141年ー前87年)と始皇帝を中華帝国の皇帝として同じ視線で見ている節がある。それは武帝が始皇帝を意識して、辺境の征服戦争、長城の建設、泰山での封禅という国家祭祀、巡行など始皇帝の事業を再現しているからである。史記の記述から距離を置いて始皇帝の実像に迫るには、他の考古資料と文字資料(伝承ではなく)によるしかない。1974年始皇帝陵の東の地点で「兵馬俑坑」が発見され、翌年1975年1155枚の始皇帝時代の竹簡(睡虎地秦簡)が発見された。2002年秦時代の3万8000枚の簡とく(里耶秦簡)が発見され、2007年嶽麓秦簡や2010年に北大秦簡、北大簡簡らが出版され文字資料をして利用できるようになった。この中から史記の記述とは違う「趙生書」では、始皇帝の幼少期の名前を「趙生」とする竹簡文書があり、史記では「趙政」となっているほか、始皇帝崩御後の後継者会議で胡亥を選んだという史記とは違う内容になっている。さらに趙生書では始皇帝を秦王と呼んでいるなど、史記との再検討が必要となった。始皇帝は伝承では暴君となっているが、焚書坑儒で儒者を生き埋めにしたこと、万里の長城建設で人民を苦しめたことがその理由である。しかし戦国の分裂時代を終焉させ統一国家を築いたことや、帝国の集権制行政組織である「郡県制」という政治体制の確立、文字・度量衡の統一などは有能な君主と言えるのではないかという。ここで著者鶴間氏のプロフィールを紹介する。鶴間氏の略歴は、1950年生まれ、1974年 東京教育大学文学部史学科東洋史学専攻卒業、 1980年 東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学 、1981年 茨城大学教養部講師、 1982年 同助教授、 1985年4月~86年1月 中国社会科学院歴史研究所外国人研究員、 1994年~96年 茨城大学教養部教授、 1996年 学習院大学文学部教授である。鶴間氏の研究テーマ・分野は、中国古代帝国(秦漢帝国)の形成と地域、秦始皇帝と兵馬俑の研究、 東アジア海文明の歴史と環境であるという。主な著書には、1996年 『秦漢帝国へのアプローチ』 山川出版社、 2001年 『始皇帝の地下帝国』 講談社、 『秦の始皇帝ー伝説と史実のはざま』 吉川弘文館 、2004年 『始皇帝陵と兵馬俑』 講談社学術文庫、『ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国』 講談社 、2013年 『秦帝国の形成と地域』汲古書院 などがある。なお本書においては古代の伝説や予言の書、祭祀のやり方と古代王朝の風習、星座と予兆、不吉な彗星の記録など古代風俗と風習、信仰のことにかなり頁を割いている。今ではそんなことを信じる者はいないので、又それで歴史が変わったとも思えないので、私はそのような記述は無視しうると思う。新書という限られた紙面で、その代わりに兵馬俑坑の内容とか、当時の経済、政治思想などに力を注いだ方が本書が面白くかつ深くなったのではないかと残念である。
(つづく)
序
古代中国では周の滅亡後長い数世紀の間、中原の覇を争った春秋戦国時代を経て、始皇帝(前259年ー前210年 在位前247年ー前210年)は中国史上最初の皇帝となった。司馬遷が編纂した「史記」に50年の帝王の生涯をたどることができる。始皇帝すなわち秦王政は、趙の邯鄲で生まれ、13歳で秦王に即位し、39歳で天下を統一し皇帝となった。12年間秦帝国を支配し数々の事蹟を残して不意に病死し、彼が残した帝国も3年後に瓦解した。わずか15年御の短命な統一帝国にもかかわらず、歴史上の意義はたとえようもなく偉大で、その帝国の完成は劉邦(武帝)の漢帝国に受け継がれたといえる。2000年以上の間中国大陸の興亡は始皇帝の図式の上で進行したといえる。中華帝国の皇帝支配の根源を創出したのが始皇帝である。東洋的絶対的支配者の原型を作ったのである。司馬遷(前145年―前86年)の史記は、皇帝となるべき存在として始皇帝像を描いている。史記は始皇帝の死後100年以上たってからの記述であり、始皇帝の実像とは言い切れない。司馬遷は前漢の武帝(在位前141年ー前87年)と始皇帝を中華帝国の皇帝として同じ視線で見ている節がある。それは武帝が始皇帝を意識して、辺境の征服戦争、長城の建設、泰山での封禅という国家祭祀、巡行など始皇帝の事業を再現しているからである。史記の記述から距離を置いて始皇帝の実像に迫るには、他の考古資料と文字資料(伝承ではなく)によるしかない。1974年始皇帝陵の東の地点で「兵馬俑坑」が発見され、翌年1975年1155枚の始皇帝時代の竹簡(睡虎地秦簡)が発見された。2002年秦時代の3万8000枚の簡とく(里耶秦簡)が発見され、2007年嶽麓秦簡や2010年に北大秦簡、北大簡簡らが出版され文字資料をして利用できるようになった。この中から史記の記述とは違う「趙生書」では、始皇帝の幼少期の名前を「趙生」とする竹簡文書があり、史記では「趙政」となっているほか、始皇帝崩御後の後継者会議で胡亥を選んだという史記とは違う内容になっている。さらに趙生書では始皇帝を秦王と呼んでいるなど、史記との再検討が必要となった。始皇帝は伝承では暴君となっているが、焚書坑儒で儒者を生き埋めにしたこと、万里の長城建設で人民を苦しめたことがその理由である。しかし戦国の分裂時代を終焉させ統一国家を築いたことや、帝国の集権制行政組織である「郡県制」という政治体制の確立、文字・度量衡の統一などは有能な君主と言えるのではないかという。ここで著者鶴間氏のプロフィールを紹介する。鶴間氏の略歴は、1950年生まれ、1974年 東京教育大学文学部史学科東洋史学専攻卒業、 1980年 東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学 、1981年 茨城大学教養部講師、 1982年 同助教授、 1985年4月~86年1月 中国社会科学院歴史研究所外国人研究員、 1994年~96年 茨城大学教養部教授、 1996年 学習院大学文学部教授である。鶴間氏の研究テーマ・分野は、中国古代帝国(秦漢帝国)の形成と地域、秦始皇帝と兵馬俑の研究、 東アジア海文明の歴史と環境であるという。主な著書には、1996年 『秦漢帝国へのアプローチ』 山川出版社、 2001年 『始皇帝の地下帝国』 講談社、 『秦の始皇帝ー伝説と史実のはざま』 吉川弘文館 、2004年 『始皇帝陵と兵馬俑』 講談社学術文庫、『ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国』 講談社 、2013年 『秦帝国の形成と地域』汲古書院 などがある。なお本書においては古代の伝説や予言の書、祭祀のやり方と古代王朝の風習、星座と予兆、不吉な彗星の記録など古代風俗と風習、信仰のことにかなり頁を割いている。今ではそんなことを信じる者はいないので、又それで歴史が変わったとも思えないので、私はそのような記述は無視しうると思う。新書という限られた紙面で、その代わりに兵馬俑坑の内容とか、当時の経済、政治思想などに力を注いだ方が本書が面白くかつ深くなったのではないかと残念である。
(つづく)