ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 中村啓信監修・訳注 「風土記」 上・下 (角川ソフィア文庫 2015年6月)

2017年08月16日 | 書評
常陸国・出雲国・播磨国・豊後国・肥前国風土記と逸文 第8回

2) 出雲国風土記(その1)



 出雲国だけは律令制下において、土着豪族による国造制度が遺り続け、中央から派遣された国司との二重統治性が敷かれるという、極めて特異な国であった。(中世における荘園制度と同じで、国司と地頭の関係である) なぜ出雲国造だけが存在したのかというと、やはり国譲り神話に語られるネジれた出雲の服従が基調にあるからだ。 古事記と日本書紀に語られる出雲国と大和政権との神話的な関係は大きく違っているが、出雲の大神オオムナジ(オオクニヌシ)はヤマトにとって律令制下において無視できない存在であった。出雲臣の祖神はアメノホヒとその子のタケヒナトリと言われる。古事記にはアメノホヒ子のタケヒラトリは5人の子を産み、出雲・ムザシ・上兎上・下兎上・イジム・遠江の国造と津島県直の祖となったと書かれている。出雲臣は出雲出身の豪族であるが、国つ神を祖とするのではなく天つ神の子孫であるという。アメノホヒはスサノヲとアマテラスの子の一人であったとされる。日本書紀も古事記も、出雲を支配したアメノホヒがオオクニヌシ(オオナムジ)に媚びて3年間天つ国に報告しなかった、つまり土着化してしまったとしている。アメノホヒがなぜ出雲臣の始祖になったのか。天つ国(ヤマト政権)から派遣された支配者を出雲臣が始祖とするのか。彼らはヤマトに服従した一族であるからだ。いやむしろヤマト政権をバックにして出雲国を統一したというべきかもしれない。そういう意味で出雲臣は最後まで天皇ヤマト政権に抗い続けた誇り高い一族だったのかもしれない。するとアメノホヒは最初から出雲臣の始祖ではなく、オオムナジ、ヤツカミズオミツノを始祖としたかもしれない。そこで日本書紀や古事記の国譲り神話と延喜式にある「出雲国造神賀詞」の服従誓詞を比較して検証しよう。「出雲国造神賀詞」の最大の狙いは、大国主神の口を通じて語られる4つの守り神(大神、葛城高鴨の神、伽夜流神、宇奈堤の神)を「皇孫の命の近き守神」としておいたことである。高天原のタカミムスビノミコトから命を受けて服従しない出雲の地に派遣された将軍アメノホヒとその子のタケヒナトリは大国主命を平定した。屈辱的な日本書紀の平定神話を経由せず、出雲国はヤマト政権のアメノホヒが作った国であるとした点がみそである。ヤマト政権が大国主の出雲を征服する構図が、意宇の出雲臣であるアメノホヒが出雲の国造りをする構図にすり替えられたのである。そこから出雲国の統一と国作りが始まるのである。国造の拠点は意宇郡にあった。つまり出雲の東端から西の豪族を併合していったというストーリーである。西部の豪族の拠点は、出雲大社が鎮座する出雲郡と神門郡がその中心であった。日本書紀につたられるミマキイリヒコ(崇仁天皇)60年の記事が出雲国の神宝をめぐる出雲豪族の内紛を伝えている。出雲の地には東の意宇を中心にした勢力と西の神門を中心にした勢力があり、意宇豪族はヤマト政権に取り入り、神門豪族は九州の筑紫と通じていたとされる。神門郡には巨大な四隅突出型墳丘墓に見られる豪族の勢力があったという考古学上の裏付けもある。その中心の杵築大社にはオオムナジが祀られている。東の意宇臣はヤマトの軍勢の力を借りて西の神門臣を滅ぼし、ヤマトの庇護を得て出雲を統一する。そしてヤマト政権から与えられたのは、「出雲臣」という氏姓と「国造」という統治権であった。律令制の整備によってここはヤマトの支配する国、出雲国となった。出雲国風土記が出雲臣の広嶋を責任者として編まれたことを考えると、出雲臣の本拠地である意宇群の伝承が大きく取り扱われるのは当然のなりゆきである。それを象徴するのが「国引き詞章」である。この詞章は漢文ではなく、音仮名(万葉かな)を多用し、語りとしての性格が濃厚である。国引き譚の初めと終わりは意宇という地名の由来を語る地名起源譚になっている。ヤツカミズオミゾノという巨神が4回の国引きによって島根半島全域を意宇の社に西から東へ移動させたという話である。意宇(淤宇)の地を支配する意宇一族の支配の根拠を語る神話である。神話の物語は単純な話であるが、この詞章の特異性は、叙事詩とも呼べる韻律性をもって構成されていることであろう。古事記的世界では出雲地方は日本海文化圏を語るうえでなくてはならない存在であったと考えたのであろう。古事記の出雲神話の舞台の多くは日本海沿岸である。大陸との関係を語るうえでむしろ重要なルートであった。古来日本海には朝鮮との関係が深いというより文化的に同一であった筑紫地方の国家群、隠岐島伝いに渡来人がやって来て文化圏を作った出雲国家群、日本海沿岸伝いに高志国(越前、越中、越後)国家群の発展を抜きには語れなかったというべきであろう。古事記で語られるヲロチ退治神話では高志のヲロチと呼ばれる。古事記にあるヤチホコが高志のヌナガワヒメを求婚にでかける長大な歌謡「神語り」は、奴奈川流域が日本唯一の硬玉翡翠の産地であり、その交易を求めた征服譚であった。またタケミナカタが洲羽(諏訪)に逃げる国譲り神話は、出雲、高志、諏訪の深いつながり(大国主の支配地)が見て取れる。出雲国風土記にはオホナモチ(オホナムジ)による「越の八口」平定に関わる地名起源譚がある。出雲にとって越国は平定の対象であった。母理の郷譚では平定後は出雲国を除いてヤマトに譲るという。ここで出雲国は譲らないと言っている点が重要である。また八口はヤマタノヲロチのことで有り、野蛮地の代名詞であった。出雲が主権的な王権を持った国であるという可能性は最近の考古学発見で確証されてきた。出雲文化圏の特徴は、
①四隅突出型墳丘墓、
②素環頭鉄刀、
③巨木建築物(縄文後期遺跡、出雲大社巨大神殿)、
④翡翠など海人系文化圏(海神安曇)である。
古事記に見られるカムムスヒ神はいつも出雲の神々に深くかかわっている。二柱のムスヒの神は一方がヤマト天皇家の神として、一方が出雲の始祖神として対照的に存在する。出雲風土記には御祖神魂命(カムムスヒ神)は一度しか出てこないが、御祖神魂命の御子は地名起源譚として島根半島を取り囲むようにして語られる。①加賀の郷ー支佐加比売、②生馬の郷ー八尋鉾長依日子命、③法吉の郷ー宇武加比売、④加賀の神埼ー枳佐加比売、⑤楯縫ー天の御鳥命、⑥漆治の郷ー天津枳佐可美高日命(志都治)、⑦宇賀の郷ー綾門日女命、⑧朝山の郷ー真玉着玉邑日女命という具合に御子が配置されいる。出雲の県主をはじめとした豪族の系譜に母系的な性格が濃厚に存在していたことを示している。「土着の女首長の存在」はシャーマンという特殊な存在ではなく、邪馬台国「ヒミコ」に出雲系母系社会を関係づけることが可能である。カムムスヒ神が海の彼方、スサノヲが根の堅洲の国というような水平的な世界を想像させる。ヤマト王権の本源が山にあるとならば、出雲王権は日本海である。出雲風土記は古事記の出雲神話を語らない。古事記の出雲神話は、服従の証としてのカムムスヒ神の天への引き上げと消滅は決して認めない。古事記は出雲の繁栄と服従という物語であるが、出雲風土記は島根半島の各地に生き続ける母系の郷を置く。

(つづく)