ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 中村啓信監修・訳注 「風土記」 上・下 (角川ソフィア文庫 2015年6月)

2017年08月12日 | 書評
常陸国・出雲国・播磨国・豊後国・肥前国風土記と逸文 第4回

1) 常陸国風土記(その1)

 内容に入る前に、常陸国風土記の記事分量について他と比較しておこう。一番長い風土記は出雲国風土記でこの文庫本の訓読み文の分量で105頁ほどである。2番目は播磨国風土記、3番目が常陸国風土記、4番目が肥前国風土記、5番目は豊後国風土記である。一番長い出雲国風土記の分量を10とすると、播磨国風土記が7、常陸国風土記が4、肥前国風土記が2、豊後国風土記が1という比率である。出雲国風土記は「解」というよりは、「日本書紀」に相当する「出雲書紀」に近い意図を持たされているのでこのように長くなったのであろう。播磨国風土記は官僚文の「解」というより、物語性が濃厚で小説を読ますように書かれている。そういう意味では常陸国風土記はいかにも「解」で、分量も中庸を得ており、内容が簡素で面白味の少ないことは否めない。肥前国風土記と豊後国風土記は写本の省略と脱落が多くて、全体像がつかめないだけでなくぶつ切れで読む気がしない。本論の常陸国風土記に入ろう。常陸国はほぼ現在の茨城県に相当し、「常陸国司、解す。古老の相伝ふる旧聞を申す事。」と始まる冒頭は、令の規定通りである。常陸国風土記は、解の形式としての結びでの提出年月日、作製責任者の国司の名を欠いている。また最後の多珂郡記事の末尾に「以下略す」と終っていることから、これは当然原本ではなく、写本で省略本であることが分かる。原本がいつ失われたかはもちろん不明であるが、平安時代の(904年)の矢田部公望の「日本紀私記」にある「新太郎記事」が現存風土記の逸文にあり、その逸文を原文に戻す試みがなされた。常陸国風土記の「古老曰」の文は集録9郡のうち新治、筑波、行方、鹿島、久慈、多珂の7郡で同型であるが、新太郎郡と那賀郡で異同がある。最も異同が際立つのが那賀郡であると言われる。現存の常陸国風土記にあって、全く省略がない箇所は総記と行方郡のみであるが、失われたのか省略されたのか、丸ごと存在しない郡は白壁(真壁)郡と河内郡である。本書にある白壁郡の記事は再建されたものである。その根拠は新治から笠間に行く道は白壁を通るからである。郡より50里で笠間に着くのは白壁起算と考えられる。また「等」を「ホ」という崩し字を使う箇所が数か所みられる。早く写本するの略字で、解としての中央への報告書では使わない文字である。従って現存風土記は平安時代初期~中期に写本されたものと考えられる。そのころに風土記の原本は失われたとされる。原文の再建が目的の原文批判(テキストクリティク)と呼ぶ手法で逸文を原文に反映させる再建が試みられた。単なる断片である逸文のため、本文再建には使えないが、確実に原文の一部であったと判定しうるものもある。それには天皇の呼称が決め手になる。特に「倭武天皇」ということばが常陸風土記で一番活躍する。「倭武天皇」は「古事記」や「日本書紀」には絶対に認められない呼称である。常陸風土記の特徴である、「古老曰」の本文の伝承と共存して、「俗云」の土地の伝承があるころが、常陸風土記の内容を豊かにし質を高めることに役立っている。全体として8世紀初頭の解文が今日の重要な古典であることは明白である。以下訓読文に従って、総記と十郡の内容を要約する。なお日本紀は時間軸(歴代天皇の時代)の縦軸で書かれているとすれば、風土記は支配した平面の広がりである横軸で書かれている。常陸風土記の時代の行政単位は郡里制で、国ー郡ー里ー村の順で記述され、その地の位置、名の由緒、産物、肥沃度などが書かれている。先頭の大項目は総記、郡とし、里、村、馬駅の順にずらしてゆく。

(つづく)