ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート ゲーデル著 林晋・八杉満利子訳・解説 「不完全性定理」 (岩波文庫2006年)

2016年08月24日 | 書評
数理論理学の金字塔 ヒルベルトの形式主義数学との論争史 第10回

5) 数学基礎論論争(1904-1931) (その2)

ラッセルはパラドックスを契機に、論理学による数学の基礎づけに邁進した。「クラス無し理論」などいくつかのパラドックス回避法を考えていたが、数学の基礎は必然的な歩みというより、試行錯誤的な経験がものをいう世界であった。1908年に最終的に「型理論」を発表した。その思考実験の結果が1913年の「プリンキピア」全3冊の刊行であった。そしてこの本がゲーデルの不完全性定理のターゲットになった。自然数の集合Nから始めて、べき集合を次々に作り、この範囲内だけで数学を構成するという。P(N)、PP(N)、PPP(N)に属する。a∈bという集合の帰属関係は、aが第n型でbが第n+1型の時しか認めない。これでパラドックは存続しえないと考え、言語に関するパラドックスも排除したとされた。ポアンカレとの論争を受けてラッセルは「循環論法の排除」をパラドックス対策の根本原理とした。この出来上がった論理は今日では「分岐的型理論」「可術的型理論」と呼ばれる。しかしラッセルの共同研究者のホワイトヘッドは、可述性が障害となり無限算術化理論にラッセルは新しい公理「還元公理」を導入した。この公理には非可述型が再導入されていた。ラッセルはデーデキントやフレーゲの「無限の公理」、「選択公理」を採用した。無限集合は論理だけからは作れないので公理として仮定したのである。選択公理はカントールの順序数ですべての集合を測ることができるという「ツェルメロの整列定理」の証明に必要だった。ラッセルはプリンシプルズで数学を論理のみに還元したかったのだが、実際は無限定理、還元公理、選択公理のような数学的公理や集合論的公理を導入せざるを得なかった。ゲーデルはこのことを「型理論は変装した集合論」だといった。つまり論理学ではなく制限付き集合論だったのである。1908年ツェルメロは集合論の公理系を発表した。現在の形式系数学では、ツェルメローフレンケル集合論や、ベルナイス-ゲーデル集合論が使われる。プリンキピアも現代の目から見ると形式系とは言い難いレベルである。数学基礎論におけるヒルベルト不在の期間に、ラッセルやツェルメロが行っていたのは、無限数学の安全装置に開発である。安全に使用できる範囲を検討する無限集合論の修正論である。パラドックスを契機にして数学における無限を根本的に問い直す動きである。反ヒルベルト計画の中心は、ブラウワー(1881-1966)でポアンカレ―の後継者を自任しこの流れを「直感主義」と呼び、ラッセルやヒルベルトらを「形式主義」と呼んだ。ブラウワーはカント哲学、ベルグソン哲学との関連性が指摘されるが、「排中律の否定」に最大の特徴がある。つまり「論理的原理の不確実性」と言った主観主義的思想(二一性)は、ゴルダンの有限回数の代数計算しか確実性はないとする主張に近い。数学のすべてがクロネカ―的な有限性に限定されることになり、非可述的集合を根底から作り上げることは不可能であり数学からは排除される。カントール集合論を「哲学的」と言って非難した現実主義者クロネカーにとって、神秘的なブラウワー直感主義は許容できなかったであろう。だがヒルベルトにとってブラウワーはクロネカーの亡霊に見えたのである。ブラウワーは点集合論的位相数学の研究で世界的に知られていて、カントール的・ヒルベルト的な位相幾何学で成果を上げた時点まではヒルベルトと太い紐帯で結ばれていたが、1918年より直感主義的集合論の論文を出版してヒルベルトに反旗を翻した。ブラウワーの数学の最大の欠点は定理の証明が複雑すぎて、展開が困難で生産性がなかったことである。ゴルダンやクロネカー、クンマーの数学にも共通する欠点であった。ヒルベルトのように最初は解の存在、次に計算方法と進めると簡単になるが、ブラウワーやゴルダンのアプローチではこれを一挙にやる必要がありより複雑なものにする。今日の計算可能性数学という分野では、定理がアルゴリズムで処理できるかを計算可能構造という数学のシステムとは別の性質として研究する。つまりヒルベルトの第2段を専門とする分野である。ヒルベルトの「一般有限性定理」は本質的に計算不能な問題も多くある。数学者は新手法が多産(多くの実りある結果を生む)であるときには、それを受け入れる。ブラウワーの数学の書き換えは非ユークリッド幾何学の多様な存在を示した点で評価はされるが、西洋合理主義の根本原理である排中律の否定や主観主義的二一性原理は数学を沈没させる以外のものを生まなかった。プリンピキアが出版された1914年にはヒルベルトのいるゲッチンゲン大学で新たな動きが始まった。ヒルベルトの学生ベーマン(1891-1970)がプリンピキアの研究を開始し、還元性公理の妥当性について1918年論文を書いた。ベーマンの決定問題とは、「任意に与えられた対象が、ある性質を満たすか否かを判定するアルゴリズムをつくること」である。

(つづく)