ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 野坂昭如著 「絶 筆」 (新潮社 2016年1月)

2016年04月03日 | 書評
焼跡闇市(無頼)派を自任する小説家・マルチタレントが、脳梗塞で倒れてから2015年に急逝するまでの12年間の日記 第2回

序(その2)

小説家の書いた日記というと、どうしても永井荷風著 「断腸亭日乗」(岩波文庫)を避けて通るわけにはゆかない。「断腸亭日乗」とは荷風が38歳の時から死の前日(1959年4月29日)まで書き綴った日記である。断腸亭は荷風の雅号、日乗は日記の事である。この岩波文庫本は、岩波版全集でおよそ3000ページにのぼる全文から磯田光一氏が摘録して約4分の1に縮小したものである。「断腸亭日乗」は1年を1卷として、和紙に墨書して綴じたらしいが1947年以降はノートへのペン書きとなったという。荷風は外遊時代にも日記をつけていたが、明治40年代は日本の文壇に迎えられて忙しくなったのだろうか日記をやめている。大正時代になり慶応大学教授を辞め、三田文学編集をやめてから、文壇を含め現代社会に対して隠遁的態度を取り始めた。大正5年雑誌「文明」を創刊して、荷風は花柳小説「腕くらべ」を発表して、文語調の文体意識が顕著になるにつれて荷風は日記への関心が強くなったといわれる。外遊時の日記を編集しなおして「西遊日誌抄」を「文明」にだしたのもこの現れである。日記の再開は1917年(大正6年9月16日)からである。弟との決別(荷風が妾を家に入れたことから)より、隠遁生活を決意したことと日記の再開が一致している。荷風は突如大久保の邸宅から出て、築地の陋屋へ移った。その時代は大正の米騒動が起って、不安な世の中へ移りつつあり、荷風のいらいらと不安げな様子が伺え、次第に世の中の動きに冷淡な隠遁生活にのめりこんでいった。1920年(大正9年)に麻布偏奇館へ転居する時代は、原敬首相襲撃事件、関東大震災へと動いてゆく。この関東大震災で社会の風俗の変化が著しくなり、荷風の日記は世相風俗を映し出す風俗史資料である。昭和の時代となり芥川龍之介の自殺にいささかの反応も示さなかった荷風の筆は、満州事変とともに軍国主義へ傾斜してゆく社会情勢には、事実を記録し批評を加える目は確かである。一時期当局の目を恐れて、日記を切り取り削除する箇所が見られたが、北村均庭の雑録に励まされて、記録者としての覚悟を決め、日記の復元をはかった。このような抹消、切り取り、さらに復元という行為は、日記を書くことが荷風にとっていかに真実で妥協のない営みであったかを物語っている。1937年の母の死においても、家族関係の克服はならなかったようで、ますます独居凄涼の自由と孤独不自由さを味わう生活にのめりこんでいった。荷風が見出した唯一の安息場のひとつに浅草公園6区があった。オペラ座の舞台と楽屋は荷風の心のオアシスになり、オペラ脚本「葛飾情話」などを書いて入り浸っていたが、1939年にはオペラ座も閉鎖されて行く場所を失った。日米開戦後の荷風は庶民と同じく空襲に追われて転転と逃げ惑う生活となった。それでも書き上げた「断腸亭日乗」は知人の手で安全な場所に隠し、毎日の日記原稿用紙を持っての逃避行であったという。私はこの永井荷風の日記である「断腸亭日乗」を10数前に読んで、好色老人のたわ言かと思った。今では永井荷風という小説家がいたことは教科書でしか知らないだろうし、その小説を読む人もめっきり少なくなった。なにせ「売春禁止法」ができ、赤線地帯が消えてすでに50年以上たつので、花柳界なぞ知らない人の方が多くなったからだ。江戸時代の三大花町として、江戸の吉原、京都の島原、長崎の丸山があり、遊郭に商人、文人墨客、庶民が集まり、管弦・遊楽の地であると同時に遊里文藝が栄えたという。花魁といえ教養がなければ武士・豪商・文人の遊興の相手が出来ないのであった。文人とは遊里文化人を指す。この江戸情緒は明治時代まで色濃く東京の下町に残っており、吉原、浅草、深川、向島、亀井戸、柳橋など神社のあるところ必ず花町があって、庶民の行楽の楽しみのひとつは「悪所」を散歩することであった。その江戸情緒の名残りも関東大震災で江戸が完全に破壊されたと同時に消滅した。永井荷風(1879-1959年)は明治11年文京区小石川に生まれ、父は文部省の高級官僚であった。したがって教育レベルも高く、明治の文豪達(生涯、森鴎外を師と仰いだ)の薫陶を受け、江戸文人文化の伝統をその精神としたのである。唯美主義としては谷崎潤一郎と共感するところがあり、無頼派としては太宰治と性格が似ている。好色文学・花柳文学としては江戸戯作文藝の正統的継承者ではないだろうか。 私はこの永井荷風の日記である「断腸亭日乗」を10年以上前に読んで、好色老人のたわ言かと思った。今では永井荷風という小説家がいたことは教科書でしか知らないだろうし、その小説を読む人もめっきり少なくなった。なにせ「売春禁止法」ができ、赤線地帯が消えてすでに50年以上たつので、花柳界なぞ知らない人の方が多くなったからだ。江戸時代の三大花町として、江戸の吉原、京都の島原、長崎の丸山があり、遊郭に商人、文人墨客、庶民が集まり、管弦・遊楽の地であると同時に遊里文藝が栄えたという。花魁といえ教養がなければ武士・豪商・文人の遊興の相手が出来ないのであった。文人とは遊里文化人を指す。この江戸情緒は明治時代まで色濃く東京の下町に残っており、吉原、浅草、深川、向島、亀井戸、柳橋など神社のあるところ必ず花町があって、庶民の行楽の楽しみのひとつは「悪所」を散歩することであった。その江戸情緒の名残りも関東大震災で江戸が完全に破壊されたと同時に消滅した。永井荷風(1879-1959年)は明治11年文京区小石川に生まれ、父は文部省の高級官僚であった。したがって教育レベルも高く、明治の文豪達(生涯、森鴎外を師と仰いだ)の薫陶を受け、江戸文人文化の伝統をその精神としたのである。唯美主義としては谷崎潤一郎と共感するところがあり、無頼派としては太宰治と性格が似ている。好色文学・花柳文学としては江戸戯作文藝の正統的継承者ではないだろうか。

(つづく)