ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 坂井榮太郎著 「ドイツ史十講」 岩波新書(2003年)

2015年03月19日 | 書評
小邦君主乱立で統一と議会政治が遅れた学問の国ドイツ 第4回

第3講 「カール大帝と中世後期のドイツ」 (13世紀中頃ー15世紀)

 中世後期のドイツとヨーロッパを見てゆこう。それまで地中海沿岸がヨーロッパ世界の中心であったが、中世後期にはヨーロッパ世界の重心は大陸の中央に移り、バルト海から大陸そして地中海への縦の線が開通したというべきであろうか。(それが近世になるとさらに西へ移動し大西洋沿岸に移るのである) これは名実ともにローマ的世界の崩壊で新しい時代に移ったことを示している。そしてイタリア南部のアラゴン王国は分裂し、14世紀初頭(1308年)教皇庁がローマからフランス南部のアヴィニョンに移転(教皇のバビロン捕囚)して以来イタリアに重心も北に移動した。ヴィスコンティのミラノが突出した。フランス王国がルイ9世(1226-70)、フィリップ4世(1285-1314)のときに国内統一を果たしキリスト教世界第1の神権的世俗権力たる地位を得た。バビロンの捕囚は言葉通り「捕囚」ではなく、世俗権力に皇帝がすり寄った結果である。英仏は百年戦争(1339-1453)を戦った後はそれぞれ地域的なまとまりをもった「地域主権国家」のようなものの形成に向かう。神聖ローマ帝国は大空位時代に地方的国家権力を固めてしまった諸侯にとって強大な国王=皇帝は好ましくなかった。この12-14世紀に神聖ローマ帝国はさらに東へ張り出した。ドイツ人の東方植民エルベ川から東へ植民活動を行い、スラブ人居住地域に進出した。ハンガリー、ボヘミヤ、ポーランドの王たちが農業技術を持ったドイツ人の植民を歓迎した。バルト海沿岸にはドイツ騎士団国家を建設し、後年プロイセン王国に編入される。バルト海沿岸都市に「ハンザ同盟」という連帯と相互援助の商業都市を築いたギルドの中世都市は市民の自治体組織であった。こうしてドイツ人の活動の場が東へ広がった。それもヨーロッパの拡大であった。北へ東へとドイツ圏が広がった。ボヘミヤ王国は現在のチェコのような小さい国ではなく、国王オタカル2世(1253-78)のとき、オーストリアから南はアドリア海にいたる広大な領土をもち神聖ローマ帝国皇帝の選挙侯であった。大空位時代が終わり、1273年ハプスブルグ家のルードルフが高手になると、これに異議を唱えて戦争となった。1278年マルスフェルトの戦いでオタカルは戦死し、オーストリアをハプスブルグ家に奪われた。これがハプスブルグ家の興隆の第1歩となった。ボヘミア王国はオタカルの後、フランスから帰ったカ-ル4世(1316-78)が1347年ボヘミア王とドイツ国王=皇帝になった。ドイツ国王は自動的にローマ皇帝とみなされていた。そしてボヘミア領邦会議に合わせて一連の勅書をだし、ボヘミヤ国王・選挙王として全領邦の一体化を進めた。皇帝の都プラハの建設を大々的に進めプラハ大学を創設した。金印勅書の発布者として1356年国王=皇帝選挙の手続きと7人の選挙侯を定めて特権を授与した。多数決選挙法など最初の全ドイツ的憲法と思われる。カール4世は1356年ドイツ・ブルグント・イタリアの3王国国王と神聖ローマ帝国皇帝の戴冠式を果たした最後の皇帝となった。この時代の政治は基本的には有力諸侯の権利を認めつつ、その諸侯の合意を得て誠意を行う、「等族=身分制」政治システムである。同等の身分の有力貴族と家臣団がパートナーとなって、租税賦課の協議交渉を行う。フランスの三部会やイギリスの2院制議会と並んで、ドイツでも12世紀の宮廷会議が14世紀には「帝国議会」として体裁を整えつつあった。神聖ローマ帝国は国王と選挙侯会議を2本の柱とsる選挙帝政といえる。カール帝はボヘミヤ王国の家紋権力拡大策に専念しオーストリア・ハンガリ―の両雄まで視野に入れた。皇帝の世襲も行いルクセンブルグ朝を築いたが、4代で終焉し家紋権力の皇帝政策は次のハプスブルグ家に移るのである。1438年ハプスブルグ家のアルブレヒトが帝位についた時から皇帝位独占が始まる。戦争によらない結婚政策によってフリードリッヒ3世(1440-93)、マクシミリアン1世(1493-1519)、カール5世(1519-56) らは領土を広げ、ブルゴーニュ公国、ネーデルランド諸州、スペイン、ボヘミヤ・ハンガリー王国を手に入れてしまうのである。マクシミリアン1世はイタリア諸都市と同盟してイタリア戦争を戦うのであるが、国際関係の出発点として近世の始まりと位置付けられる。戦費調達のため1495年「帝国改革」が行われ、以降の帝国の枠組みが形成される。帝国議会は選挙侯部会と、一般の聖俗諸侯部会、都市部会からなる等族身分制議会となった。帝国最高法院、皇帝の帝国宮内法院などの設立が行われた。

(つづく)