ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 柴田三千雄著 「フランス史10講」 岩波新書

2015年03月03日 | 書評
絶対王政・革命・共和政・帝政と揺れ続けた欧州の中のフランス 第2回

第1講 「フランス」のはじまり (紀元前ー10世紀) (フランク王国と神聖ローマ帝国) (その1)

 現在「フランス」と呼ばれる地に、初めから「フランス」がいたわけではない。多くの部族が割拠している地であった。「ガリア」と言われた地を文明化していったのがローマ帝国であった。カエサルはガリアの部族の激しい抵抗を排して属州にして、ローマ型都市を築いた。この間にケルト文明(欧州中央とイングランドに分布したケルト人は必ずしもガリア人と一致するわけではないが)とローマ文明とが融合し、部族の統一も進み始めた。この時代を「ガロ・ローマ時代」という。AD395年ローマ帝国が東西に分割支配となって、西ローマ帝国はゲルマン人の侵入に抗しきれなかった。ゲルマン人の侵入とは、中央アジアの遊牧民フン族がウクライナに侵入し、ゲルマン人の東ゴート族が西へ大規模な民族移動を始めたことをさす。ゲルマン人の侵入はローマ帝国内への入植となったり、ローマ帝国防衛の同盟軍として駐屯することを許される形を取っていたが、476年西ローマ帝国は滅亡して、ガリア地域は「ゲルマン人部族国家群」の時代になった。ローマ文化を継承する「ローマ・ゲルマン国家」の時代が数世紀続いた。5世紀後半の欧州中央には「ブルグント王国」が今のフランス南部とイタリアを支配し、東には「東ゴート王国」が、西のイベリア半島(今のスペイン)には「西ゴート王国」が、バルト海沿岸(いまの北フランスとオランダ、ドイツ)には「フランク王国」が存在した。6世紀中頃東ローマ帝国のユスチアヌス1世が東ゴート王国とブルグント王国を倒し、地中海沿岸のローマ帝国支配を(一時的であるが)復活した。結論的にはフランク王国のピピン3世(751-768)がガリアの統一に成功し、カール大帝(768-814)の時に隆盛を迎える。その理由としては、ガロ・ローマ時代には少数民族であったゲルマン人部族は次第に領地支配権力へ変わり、フランク王国のクロヴィスが496年にカトリックに改宗したことで、西ローマ教会と結びつき権威と正統性をもって征服を進めたことである。分割相続を原則とするゲルマン族の習慣によって、この「メロヴィング王朝」は次第に勢力を失ったが、732年イスラム教徒との「トゥール・ポワティエの戦い」で勝利したピピン3世が「カロリング王朝」を開いた。カール大帝は遠征を繰り返しフランク王国の支配を広げほぼガリア全域を統一した。そして800年ローマ教皇より「ローマ皇帝」の帝冠を受けた。これには東ローマ帝国に対抗するローマ教皇が強力な後ろ盾(財政、俗権)を求めたことと、俗権側が「塗油」の儀式によって王政の権威づけと正統性の確保を狙ったことである。9世紀には地中海世界は、東がビザンチン帝国(東ローマ帝国)、中央が「フランク王国」、西に「イスラム勢力圏」という3極により、「ヨーロッパ地域世界」が成立したことを示している。ビザンチン帝国とイスラム国は政権と教権が一致しているのに対して、フランク王国は教会の宗教的権威と王の世俗的権威がそれぞれ自立して共生関係にあることが特徴であった。フランク王国「カロリング朝」は広大な領域を支配したといっても統治機構が極めてぜい弱で、「伯」は独立傾向を強めた。その結果843年にヴェルダン条約を結び、東フランク、ロタール、西フランクの3国に分裂した。中央のロタールを長男が相続し皇帝の称号を継いだ。地理的には現在のフランス、ドイツ、イタリアの3国の原型となった。フランク王国は相続の度に再分割を巡って戦争がおき、しだいに衰弱していった。そこへ民族大移動の最後の嵐がやってきた。一つは西からイスラム教徒の地中海沿岸への侵攻であり、2つは9世紀末から10世紀後半にかけてのアジア系マジャール人の中部ヨーロッパへの侵入であった。西フランク王国にとって最大の被害は、スカンジナビアにすむゲルマン系のヴァイキングの襲来であった。911年バイキングのノルマン人に対してキリスト教への改宗と防衛を条件として定住を認めた。これが後世、イギリスを征服するノルマンディ公領の始まりである。西フランク王国の「伯」は地方権力を握り、武力抗争を経て自立し領邦権力に成長した。11世紀には公国(領邦君主領)としてブルゴーニュ公をはじめ15公国を数えた。王権の衰退は著しくなり、世襲制を廃止して選挙制に代った。987年ロベール家のカペー王(987-996)が王権を復活し「カペー王朝」を開いた。これがフランスの王朝の原型となった。東では同じころマジャール人排撃に功があったオットー1世(936-973)が962年「神聖ローマ帝国」を開き今のドイツの原型を作った。

(つづく)