ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 権左武志著 「ヘーゲルとその時代」 岩波新書

2014年12月25日 | 書評
フランス革命とドイツ統一を前にしたドイツ観念論の完成者 第13回

3) プロイセン国家と「歴史哲学講義」 (その3)

 中世のゲルマン世界では封建制度と教会の世俗支配が結託し隷従への原理に陥った。ゲルマン世界の近代第1期はまず宗教改革による主体的自由の獲得が始まった。カトリックの教権制は破壊され教会の権威は転覆されて聖書による良心の決定が中心となった。教会財産は没収され中世的価値は否定され、勤勉・家族・理性という近代低価値が現れた。やがて家族・市民社会・国家という「倫理的現実の体系」へと発展したいった。近代第2期では主権国家の形成を自由の概念でを実現する国制上の問題とすると、ヘーゲルは最終的には世襲君主による決定がもっとも「人間的自由」の観点から正当化されると主張する。この辺は時代的な制約なのか、私にはヘーゲルの結論は全く理解できない。専制国家による後追い近代化は日本の明治政府でも見られたが、支配の効率性という観点からヘーゲルが考えたのか、それとも民主政を嫌った貴族政論だったのだろうか。日本では宗教戦争はなかったが、プロイセンではプロテスタンの宗教闘争は激烈であった。ルターは農民戦争で農民を裏切ったといわれる。世俗化の成果を軍事力で守り、プロテスタン教会の政治的独立性を保障したプロイセンの歴史的意義をヘーゲルは承認している。近代第3期では啓蒙による自由意志の原理発見と、革命によるその実現が論じられた。デカルトの懐疑精神を通じて自由な思考という啓蒙の原理が現れ、ルソーとカントの「意志の自由と平等という自然権」が発見された近代自然法思想がフランス革命前夜に当たるとみなされている。フランス革命とは自由意志の原理を古い体系に実践的に適用して、自然権に基づく憲法を制定する試みとして、近代自然法の思想の実現として理解される。ヘーゲルは「今や初めて人間は、思想が精神的現実を支配すべきだと認識するに至った」という。宗教改革ー啓蒙思想ーフランス革命の3者が密接に関連する精神史上の出来事として解説されるのである。フランス革命において主権国家による教会財産の没収という世俗化の事業を、自由の原理の実現としてヘーゲルは歓迎していたのである。ヘーゲルは自由の理念というカテゴリーを使って歴史を統一的に把握することができる能力を持ったがゆえに、自由の理念が「歴史における理性」と考えたのである。ヘーゲルは精神の自由という歴史を超えた価値が歴史の発展を方向付けるという近代自然法思想の継承者であり、カントの啓蒙の続行者であった。ベートーヴェンの音楽のように自由が鳴り響く空間にいたのである。しかしヘーゲルもまたレイシ主義から免れることはできなかったようだ。国民はその精神の発展に対応した憲法を持つとし、現在を絶対化し強者が主導する大勢に順応せざるを得なかった。強者とは皇帝や貴族のことで、偉大な皇帝を活動に駆り立て世界精神が自分の目的を実現する手段にしようとした。これを「理性の狡知」という。ナポレオンを理想化したのもその一環である。ここからニーチェの超越者思想が生まれ、ナチスの到来を導くとしたら、余計に危険な思想であろう。もし皇帝や貴族が偉大でなく凡庸いや暗愚、そして狂気だったら、国民は悲劇ではないか。ヘーゲルの哲学はすでに1820年半ばには大きな学派を形成し、1827年から「学術批評年報」という機関誌を出すほどになった。1829年にはヘーゲルはベルリン大学総長に就任したが、1831年ペストに感染して死亡した。

(つづく)