ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

文藝散歩 森鴎外著 「渋江抽斎」 中公文庫

2011年02月12日 | 書評
伝記文学の傑作 森鴎外晩年の淡々とした筆はこび 第2回

 森鴎外著 「渋江抽斎」は「三十七年如一瞬 学医伝業薄才伸 栄枯窮達任天命 安楽換銭不患貧、これは渋江抽斎の述志の詩である。」ではじまる。森鴎外の晩年の作品として「渋江抽斎」、「井沢蘭軒」、「北条霞亭」の作品はいずれも江戸時代のあまり有名でもない学者の伝記である。内容も政治的事件は背景に隠れ、退屈といってもいいような日常的人生の事蹟である。本書「渋江抽斎」は大正5年(1916年)、日刊新聞に連載され年頭から始まって5月には完結したという。毎日1扁づつ連載されて119扁からなる。挿画は羽石光志氏による。聞き取りや資料調べは済んでいたとしても、気楽な読みきり物ではない新聞小説であるので、毎日の執筆はどうしたのであろうか。それにしても本書にはリズムがある。かなりの程度までは偶然の筆の勢いという物が支配しているし、気が乗ればバランスを欠いてでも広がってゆく楽しさが伺える。本書末尾の長唄師匠勝久(抽斎4女陸のこと)の話がそうである。最後になって急に盛り上がりを見せる、伝記というより小説の運びである。執筆当時は鴎外は50代半ばで、軍医としての長いお勤めもようやく終わりに近づき、いわば停年をまじかに控えた一種の開放感が働いていたのかもしれない。渋江抽斎の「述志の詩」はあるいは鴎外の気持ちに近いものがあるのではないか。抽斎を敬愛するあまり、鴎外はこの漢詩(七言絶句 韻:十一真)をわざわざ書道家・洋画家の中村不折氏(その書道美術館は鶯谷の正岡子規旧居前にある)に書いてもらって居間にかけていたという。
(つづく)

読書ノート 宇野重規著 「'私'時代のデモクラシー」 岩波新書

2011年02月12日 | 書評
個人主義の時代に、私たちの問題を話し合うデモクラシー 第8回

2) 新しい個人主義 (1)
平等化は他者との関係で個人主義の問題と連動し、その葛藤が社会や政治のダイナミズムを生み出すというのがトクヴィルの論点であった。しかし現代が近代のいわば折り返し点を過ぎた「後期近代」において、個人主義はかっての輝きを失ってどうしても否定的な意味合いで語られることが多くなった。個人であることはすなわち脆弱であること、無力であることという意味である。その象徴的な事件が2008年6月秋葉原で起きた。派遣労働に端的に現れた格差社会がもたらした悲劇であるが、何か個人のあまりにも壊れやすさを露呈した事件であった。社会的事件を犯罪者の心理に還元する見方を「社会問題の心理学化」という。このことは斉藤環著「心理学化する社会」(河出文庫)にも詳しく書かれている。本来社会的な問題として公共的に対策しなければならない事柄を。もっぱら個人の処理すべき課題として受容され、個人的な負担を強いるという結果になっている。この社会的なものの個人化をフランスの政治学者ロザンヴァロンは「連帯の新たなる哲学ー福祉国家論再考」において、集団・階層から個人の状況や人生へ持ってゆく変化を「社会学の崩壊」と呼んでいる。集団的な社会行動に出ることもなく個人の問題として沈着させれば、政府支配層は随分気が楽でしょう。「ニート」など現代において排除された個人は社会の機能不全によって登場した存在であるといえる。不安定で脆弱な階層はプロレタリアートを形成できずに「プレカリアート」となる。このリスク社会をドイツの社会学者ベックは「リスク社会ー新しい近代への道」において「社会的不平等の個人化」と呼ぶ。近代化の成果である福祉国家を前提としながら、リスクの個人化が生じている。近代学校システムや雇用保険など社会保障制度が戦後著しく発展したが、いまや福祉国家は機能不全に陥り、約束された生活のエリート選抜制度となった一流大学入学試験は「個人化された針の穴」を通す難関を突破することが条件となった。しかも裕福な階層の子弟が断然有利な環境にある。否定的な意味での個人主義とはこういうことである。
(つづく)

読書ノート モンテスキュー著 「ローマ人盛衰原因論」 岩波文庫

2011年02月12日 | 書評
共和制から帝政への移行が滅亡の原因 第11回 最終回

帝政ローマから東ローマ帝国の滅亡 (2)

2) ディオクレティアヌス(AD284-305)は4つの軍団ごとに、二人の皇帝と二人の副皇帝を立てた。コンスタンチヌス大帝(AD293-306)とガレリウス(AD293-311)は帝国を二分して、東西ローマ帝国に分裂した。コンスタンチヌス大帝は帝都を東のコンスタンチノポリスに移し、ウオレンティアヌス帝(AD364- 375)は東ローマ帝国(AD364)を建立した。東ローマ帝国はこの後千年ほど形だけでも存立したが、ウオレンス帝(AD364-378)が建立した西ローマ帝国は蛮族に侵食されて間もなく滅亡した。フン族に圧迫されたゴート族がドナウ川付近へ侵入したためである。侵入する多民族と金で妥協を図ったローマ帝国は次第に富をなくしていった。軍隊は次第に負担路なり、蛮族と雇い兵を契約した。ローマ人は根っから軍事的規律を失った。AD434 年フン族の王アッティラが大いに帝国内に侵入し、東ローマ帝国のテオドシウス2世(AD448 -450)はフン族に貢物を納めて助けを乞うた。アッティラが死ぬとすべての蛮族は分裂したが、ローマ自体も極めて弱体化した。ノルマン人がフランスを侵し定住した。海軍力が全くなく商業の富の蓄積が無い西ローマ帝国の滅亡は早かった。東ローマ帝国ではユスティ二アヌス帝(AD527-565)はアフリカ、イタリアの再征服を企て、補助軍としてフン族軍を利用した。ゴート族はイタリア、ガリア、スペインに定住し、ヴァンダル族は北アフリカに大帝国を築いた。ペルシャ人は4度にわたる侵入で東ローマ帝国に痛手を負わせた。7世紀マホメットが開いたアラブイスラム帝国の征服事業が始まった。
(完)

筑波子 月次絶句 「春 雪」

2011年02月12日 | 漢詩・自由詩
村樹疎疎郊路長     村樹疎疎として 郊路長く

麦丘野水引春光     麦丘野水 春光を引く

急寒昨夜雪埋屋     急寒昨夜 雪は屋を埋め
 
緩暖今朝風漏香     緩暖たる今朝 風は香を漏す


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(韻:七陽 七言絶句仄起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)