この寺も細川家ゆかりの寺である。大亀山宝厳院は臨済宗大本山天竜寺の塔頭寺院で寛正二年(1461)室町幕府の管領細川頼之公により天竜寺開山夢窓国師の第三世法孫聖仲永光禅師を開山に迎え創建された。獅子吼の庭園は室町時代に中国に二度渡った禅僧策彦周良禅師によって作庭された名園で嵐山を巧みに取り入れた借景式枯山水庭園である。「獅子吼」とは「仏が説法する」の意味。紅葉の名所として有名である。保津川沿いの小倉百人一首文学館の隣にある。
細川家は足利将軍家の連枝に繋がる奉行衆として、初め13代将軍足利義輝に仕え、その死後は15代将軍足利義昭の擁立に尽力するが、後に織田信長に従い丹後宮津11万石の大名となる。後に豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され、近世細川氏の祖となった。
細川ガラシア夫人は永禄6年(1563年)、明智光秀と妻煕子の間に三女として越前国で生まれる。天正6年(1578年)、15歳の時に父の主君織田信長のすすめによって細川藤孝の嫡男・細川忠興に嫁いだ。しかし天正10年(1582年)6月、父の光秀が織田信長を本能寺で討って(本能寺の変)自らも滅んだため、珠は「逆臣の娘」となる。忠興は珠を愛していたがために離縁する気になれず、天正12年(1584年)まで彼女を丹後の味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に隔離・幽閉する。正12年(1584年)3月、信長の死後に覇権を握った羽柴秀吉の取り成しもあって、忠興は珠を細川家の大坂屋敷に戻した。この年に興秋が生まれている。これらの人生の変転の中で、珠はカトリックの話を聞き、ガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵みの意)という洗礼名を受けた。関ヶ原の戦いが勃発する直前の慶長5年(1600年)7月16日、西軍の石田三成は人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶し、三成の大軍に囲まれガラシア夫人は家来に胸をつかせて自害した。墓は千利休愛用の灯篭を譲り受けそれを持って墓とした。