ブログ 「ごまめの歯軋り」

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朝青龍処分 日本相撲協会の人権侵害 

2007年08月02日 | 時事問題
asahi.com 2007年08月01日18時58分
朝青龍、2場所出場停止の処分 日本相撲協会
大相撲の横綱朝青龍(26)=本名ドルゴルスレン・ダグワドルジ、モンゴル出身、高砂部屋=がけがを理由に3日からの夏巡業の休場届を出しながら、モンゴルでサッカーをしていた問題で、日本相撲協会は1日、臨時理事会を開き、朝青龍に対し、(1)9月の秋場所(東京・国技館)と11月の九州場所(福岡国際センター)の出場停止(2)4カ月30%の減俸(3)九州場所千秋楽まで特別な事情がない限り、部屋、病院、自宅以外は出歩くことを禁止――の処分を下した。横綱が出場停止になるのは初めて。

自宅謹慎?個人の行動の自由を制約できるのか
 横綱朝青龍の処分が決まった。1)2場所(九州場所まで年内の場所)出場停止 2)給料4ヶ月減俸 3)自宅謹慎 ということだが、1)、2)については納得できるが、3)の病院、自宅、部屋以外への移動禁止とは恐れ入った。これでは身柄拘束と同じで、相撲協会にそんな法的権利があったのか。裁判で争うべき問題であろう。日本国憲法22条は「何人も居住・移転の自由を有する」を定めています。何処で住むことも、何処へ移動することも旅行することもこれを禁止することは出来ない。日本相撲協会はミヤンマー軍事政権のアウンサンスーチンさんの自宅軟禁と同じ蛮行をやっていることになる。学校のガラスを壊した生徒に1ヶ月の登校禁止処分は出来るが自宅から出るなという事は間違っても出来ない。そこを朝青龍に顧問弁護士がいるなら当然処分停止要求を裁判所に起こし、勝訴することは火を見るより明らかだ。
 もともと地方巡業は相撲取りにとって実入りが少なく、所謂無料のファンサービスのボランティア活動見たいなものだった。昔からなんだかんだと理由をつけてサボる力士が多かったと聞く。朝青龍ほどの高給取りが無料奉仕を馬鹿馬鹿しく思ったのであろう。腰の疲労骨折というのは真っ赤な嘘。医者は要求通りの診断書を書くことは、政治家の困った時の入院と同じ。

五十嵐敬喜・小川明雄著  「公共事業をどうするか」 第3回/全5回

2007年08月02日 | 書評
前章:「破綻する公共事業」、「公共事業が止まらないわけ」 後編

 ここで公共事業の定義を「主として税金や起債による資金、それに財政投融資などの公金を使って行われる単独または複合的な事業」としておこう。その原点は1950年の「国土総合開発法」である。1962年度から一全総(1970年まで)、1971年から二全総(1985年まで)、1985年より三全総(1987年まで)、1988年から四全総(2000年まで)となっている。理論的には全総があって公共事業が発生するのだが、現実は公共事業のために全総が作られるという面もある。「道路整備緊急措置法」が5カ年計画を定める。緊急というはずが11次までつづき永久法のように機能し、しかも事業計画は「閣議決定」で決定され、予算書が国会へ回される仕組みである。従って計画段階で官僚以外にだれも内容を吟味することはない。第11次の事業量は76兆円(一年の国家予算規模)に膨張した。道路事業の根拠は「道路法」が憲法となって、計画は「国土総合開発法」、「道路整備緊急措置法」により、道路財源関係法では特定財源として「揮発油税法」、「自動車重量税法」などが確保され、道路を無限に作り続ける財政的保障になっている。組織法として「日本道路公団法」などがあり、公団理事長が石原国土交通省大臣から辞めろといわれてもこの法を楯にとって抵抗したことは有名である。道路を含めた公共事業の総額は一年当たり48兆円にのぼるとされる。(1996年の一般会計予算が75兆円である)その財源には、租税、赤字国債、地方債、補助金、財政投融資が当てられる。更にこれらの金を特別会計(特定の歳入をもって特定の歳出にあて、一般会計と区別して経理する)とい財布に入れるのである。特定財源が3/4を占め、一般財源は1/4に過ぎない。この財布は国民の目に晒されない(一般会計しか出てこない)のである。公共事業は決定から予算まですべて闇の世界(官僚の裁量にまかされた)にある。1996年段階で特別会計は38で、公共事業の特別会計は11会計であった。さらに1996年の道路予算14.4兆円の内訳は、特別会計の国費は23%、地方債が56%、財政投融資が19%である。特別会計といっても道路全予算の1/4以下にすぎず、道路公団はそれ以外に莫大な金を借りているのである。

 公共事業には国が行う直轄事業、自治体に補助金を与えて行う補助事業、自治体が単独で行う単独事業がある。公共事業関係費の事業内訳は1980年以来変化はないが、道路事業が28%、下水道が18%、治水治山が17%、住宅が12.7%、農業農村整備が13%、港湾・漁港・空港が7.6%である。公共工事は天下りと官製談合入札がセットになって腐敗を生んでいる。国の補助金が全事業費を出してくれるわけではなく、足りない部分は県市町村が負担する。これを受益者負担というが押し付け負担ということも出来る。地方自治体はこの押し付けを拒否することが困難で、それが地自治体の膨大な財政負担になっている。これまで日本は不況になると膨大な補正予算を組んで公共事業の前倒し景気対策を実施してきた。バブル不況対策に1990年以来その総額は70兆円を越している。それが赤字国債によっているため日本国家の財政破綻の直接原因となった。先進国では公共事業中心の景気対策を取っているところはもう見当たらない。ケインズ理論に頼るのは日本だけというわけだ。


水上文学 2:禅僧伝 一休 沢庵 良寛より 水上勉著 「良寛」 中公文庫

2007年08月02日 | 書評
水上勉著 「良寛」 中公文庫(1986年9月) 前編 出家まで

 私が水上勉氏の「良寛」を読んだのはずいぶん昔である。本棚から茶色に変色した埃だらけ文庫本を取り出した。この本は禅宗の高僧伝ではない。良寛に関する本としては柳田聖山訳蔵雲著「良寛道人遺稿」や瀬戸内寂聴「手毬」を読んだ。「良寛道人遺稿」は243編の漢詩文を集めた。本書水上勉著「良寛」にもここから多くの漢詩文が引用されている。瀬戸内寂聴「手毬」は良寛最晩年に出遭った女性(良寛の和歌文藝の崇拝者)との交情を貞心尼の側からみた良寛像である。貞心尼の「蓮の露」から多くの和歌が引用され、瀬戸内寂聴氏は女性として細やかな感情を吐露された美しい文章になっている。本書は大きくは、前半に18歳で出家し岡山園通寺での12年間の修行と放浪の旅に出た良寛を描き、後半には38歳以降故郷に帰った良寛の交遊と文藝活動が中心に描かれている。良寛は74歳で逝去するので故郷にいたのは合計54年間になる。

 水上氏は良寛の伝記を谷川戸敏朗編著「良寛伝記・年譜」から取られている。雲著「良寛道人遺稿」によると、良寛は真蹟「草堂集」、「法華讃」を著したが、明治に入って村山半牧編「良寛歌集」が編まれた。勿論貞心尼の「蓮の露」も第一級の資料である。水上氏の良寛を思う気持ちは「優しくて、厳しい仏教者としての実践行をつまれ、漢詩や和歌にその思想を託し、日夜文藝の道を歩まれた足元に寄り添うてみたい」という趣旨で本書を執筆された。もちろん筋としては仏教者の実践行が先であるが、晩年は乞食として文藝者の生き方が仏教につながるような境地に行き着いている。官寺としての禅宗界の腐敗堕落振ぶりは、一休や鈴木正三にかかると、寺院は求道者の住居ではなく、名聞私利に執着する偽僧の巣ということになる。この権力への追従振りは一人臨済宗のみならず曹洞宗においてもさらに著しかったようだ。永平寺と総持寺両本山の争いや差別的宗教政策は「曹洞法語全集」に明らかで道元の趣旨から離れた寺院経営が行われ、良寛も草堂集のなかで宗門批判の漢詩は激しい内容である。一休は生涯他人や寺院の批判罵倒に終始しているが、良寛は寺院ばかりでなく自分にも矢を向けた眼を持っていたようである。

 良寛は1758年に越後出雲崎の名主「橘屋」山本以南の次男として生まれた。正確なことは何もわからないが1831年1月6日に越後三島郡島崎の能登屋こと木村家で死去したことだけは確かであるという。栄蔵(良寛)が生まれた当時、田沼意次の経済政策の失敗から白川城主松平定信の寛永の改革の時代であった。そのときの狂歌「白川の清き流れにすみかねてもとの田沼の汚れぞ恋しき」がある。越後では尊皇心厚く竹内式部の「宝暦事件」、山県大弐の「明和の大獄」がおきた。良寛8歳のとき名主の競争に敗れ橘屋が没落に一途をたどることになった。栄蔵10歳で大森子陽の塾ににゆき、15歳で元服、18歳で栄蔵は落ちぶれた名主見習いになったが、突然稼業を捨て出家し禅寺「光照寺」へ入った。出家の動機は不明。。