【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

西洋の数学と日本の数学の対比

2008-03-02 00:35:45 | 自然科学/数学

村田全『日本の数学・西洋の数学(新書)』中央公論新社、1981年
  
 「数学とは何か」という哲学的問題を基底におきながら、江戸時代に独特の発展をとげた日本の数学である和算を、西洋数学の伝統と比較することが本書の課題です。

 この課題を検討するために、著者は円周の長さ、円の面積、球の体積の知識の確認から入っています。これらは古代から現代にいたるまで数学的研究の契機だったからであり、また和算の「円理」の成果が西洋数学と独立であり、いくつかの欠陥をもちながらこの領域で西洋数学と同水準に達していたからです。

 そのうえで著者は西洋数学の核心が数学理論の構築(通訳不能量の比という概念とその「図形」的表現)、『原論』に見られる論証体系にあること、これに対し和算はシナの数学の影響を受けながら一種の記号代数を考案し独自のレベルの高い数学を展開したものの数学理論、数理思想に類する要素をもたなかったことを明らかにしています、「・・・注目すべきことは、西洋近世の数学が、一方では信仰と理性の激しい相克、他方ではその調和を計る厳しい追及の中から、自然の摂理を探求する自然学の問題と相携えて生まれてきたことである。これは日本の思想史に生じなかったことであり、おそらくシナやインドにも見られなかったことである。私は、この点こそ、和算の伝統と西洋数学の伝統の間にある最も根底的な差だと考えている」(pp.162-163)。

 というわけで、関孝和がニュートン、ライプニッツと微分積分学の先後を争う水準にまであったというのは誤解で、「・・・和算家の業績に対応する事柄を微積分学の歴史の中で探せば、なおいくつかのことが見いだされるであろう。しかし、それはあくまで、体系化された西洋の微分積分学と、最後までその体系をなさなかった部分的知見との対応にすぎない。微分法、積分法を打って一丸とするような学問的体系の建設が、その輪郭を夢想することすら、和算の中で行われなかったことは、残念ながら動かしがたい事実であり、ニュートン以後の数理自然学の発展という業績に至ってはなおさらである」と(pp.213-214)書いています。

 しかし、著者は西洋数学と和算の単純な優位、差異の比較をしているわけではありません。数学の未来をみすえ、両者の正当な評価を内在的に行っているのです。[「日本の数学ー和算ーの独創性は、あくまでもその伝統の中での飛躍の大きさにもとめるべきであり、ひとがもしそれを誇りたいならば、そのありのままの姿でそうすべきである。しかし、私としては、いたずらに過去を誇るよりも、異文化の伝統からなお学ぶべきものを学びながら、過去の和算に負けないだけの文化的創造を試みることのほうが先決であろうと思う」(p.214)]、と言うわけです。