ひでんかの”雅でない”日々

庶民の"ひでんか"の日々はちっとも雅じゃないけれど、いろんな人達と楽しい毎日を過ごしています

葬送という儀式

2008-05-14 22:57:00 | ひでんかの「日々の徒然」

「人が亡くなったらお葬式をする」
それは、ごく普通の”当たり前”のことだと思っていました。
でも、その”当たり前”のことをするのは、とても大変なことでした。

人間の一生のうちに、必ず一度しかない出来事は、「生」と「死」です。
「生まれる」こと事態は、場所は選びません。「出生届」も紙を一枚役所に提出すれば、それでOK。「専門家」の手を借りなくても、その人の人生をスタートすることができます。
(乱暴な話をしてしまえば、母親が独力でも生むことはできます)

ところが「死んだ時」は、そうはいきません。
死ぬこと自体は場所を選びませんが、そこから先は人の手を借りなくては、その人の人生を閉じることは出来ないのです。

一番の問題は「肉体」を「骨」にしなければならないということで、その場合は必ず「火葬場」で焼かなくてはならないと法律で定められています。
でも、この「火葬場」。
「亡くなったので焼いてください」と行っても、
「了解しました。それでは○月○日の何時から...」とはいきません。
「火葬場」と私達の間には、必ず「葬儀屋」さんという方が介在しなければならなくなっています。
(「しなければならない」のは法律で定められているわけでは無いと思うのですが、そういうのって後から「なぜ?」とは思っても、亡くなったその場では考えられません)

今回、友人の葬送に際して、そのあたりのことで、いろいろと勉強しました。

    病院→葬儀屋→葬祭場・火葬場

普段の生活ではほとんど接点が無い世界ですが、そこには歴然とした、その業界(?)独自のルールが存在していました。
(業界の事情もなかなか複雑?)

今回、単に「死ぬ」ということも、容易なことでは無いのだと実感しました。
(そんなことを言っても、当人にとっては、「死んだ」ということは絶対的な事実であって、それ以上でも、それ以下でも無いのですけれど.....)

いろいろ障害もありますが、なんとかして、穏やかに暖かく、送りたいと思います。

コメント
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