あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

無意識の意識、意識の意識について。(自我その466)

2021-02-12 18:28:56 | 思想
無意識の意識とは深層心理の意識のことである。深層心理とは。無意識の思考である。深層心理は、何かを意識して、思考する。深層心理も、何かを意識しなければ、思考できないのである。意識することは思考する対象を絞ることであり、対象を絞らなければ思考できないのである。思考は、漠然とはできないのである。思考は、常に、何かを対象にして意識し、ある欲望の下で、ある志向性をもって、行われるのである。さて、人間は、深層心理が何かを意識していることも、深層心理が思考していることも、意識できない。人間は、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を意識することがあるのである。表層心理とは、自らを意識することであり、また、意識しての思考である。人間は、自らを意識すると、表層心理での思考が始まる。また、人間は、表層心理で、深層心理が思考して生み出した自我の欲望を意識し、深層心理が思考して生み出した感情の下で、深層心理が思考して生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するかを思考して、決定して、行動するということがある。さて、深層心理は、人間の無意識のうちに、何かを意識して、思考するが、そこには、必ず、自我、欲望、志向性が存在する。深層心理は、ある自我を主体に立てて、ある欲望を満たすように、ある志向性の下で、何かを意識して、思考する。さて、まず、自我であるが、自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。人間は、常に、構造体の中で、自我を持して、行動している。次に、欲望であるが、欲望とは、快楽を求める心情である。深層心理には四つの欲望が存在する。第一の欲望が自我を確保・存続・発展させたいという欲望であり、第二の欲望が自我が他者に認められたいという欲望であり、第三の欲望が自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望であり、第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。次に、志向性であるが、志向性とは、思考の方向性である。それぞれの欲望はそれぞれの志向性を有している。つまり、欲望と志向性は一体化しているのである。第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望は、自我の保身化(略して保身化)という志向性を有している。第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望は、自我の対他化(略して対他化)という志向性を有している。第三の欲望である自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望は、対象の対自化(略して対自化)という志向性を有している。第四の欲望である自我と他者の心の交流を図り共感したいという欲望は、自我と他者の共感化(略して共感化)という志向性を有している。さて、人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って行動しているが、自らが自我を動かしているわけではない。つまり、人間は、最初から、自ら意識して思考して、すなわち、表層心理で思考して行動しているわけではない。無意識のうちに思考して、すなわち、深層心理が思考して、人間(自我)を動かしているのである。「初めに深層心理ありき」である。深層心理が、自我を主体に立てて、欲望を満たすことによって、快楽を得るように、志向性の下で、何かを意識して、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間(自我)を動かしているのである。つまり、人間は、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望に動かされて、行動しているのである。深層心理は、四つの欲望のいずれかを満たすことで、自我が快楽を得るように、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間(自我)を動かしているのである。深層心理は、ひたすらその時その場で、四つの欲望のいずれかを満たして快楽を得ようと欲望して思考する。深層心理には、道徳観や社会規約は存在しない。深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求めることを目的にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。深層心理が生み出す感情の最も激しいのは怒りの感情であるが、怒りの感情それだけで生み出されることは無く、常に、相手を殴れなどの行動の指令を伴っている。人間は、侮辱などによって、自我が傷つけられると、深層心理が怒りの感情と相手を殴れなどの行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間(自我)に相手を殴ることを促すのである。しかし、深層心理には、超自我という志向性の作用もあり、ルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧しようとするのである。超自我は、深層心理に内在する、第一の欲望である、自我を確保・存続・発展させたいという欲望から発した、自我の保身化という志向性の作用である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我は、相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。その場合、自我の欲望に対する抑圧は、表層心理に移されるのである。つまり、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実的な利得を求める欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考し、抑圧しようとするのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を実行した結果、どのようなことが生じるかを、相手の気持ちや反応、周囲の人の気持ちや反応、道徳観、社会規約などから考慮し、自我が不利益を被らないように、思考するのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実的な利得を求める欲望に基づいて、相手を殴ったならば、後に、自我がどうなるかという、将来のことを考え、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手を殴ってしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。そして、人間は、表層心理で、再び、この状況から逃れるためにはどうしたら良いかと苦悩しながら思考するのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、深層心理が怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。しかし、誰かが自我が傷つけても、深層心理は、時には、傷心の感情から解放されるための怒りの感情と相手を攻撃せよという行動の指令という自我の欲望を生み出さず、うちに閉じこもってしまうことがある。それは、攻撃するには、相手が強大であり、攻撃すれば、いっそう。自我の状況が不利になるからである。そうして、傷心のままに、苦悩のままに、自我の内にこもるのである。それが、憂鬱という情態性である。そのような時、深層心理が、自らの心に、精神疾患をもたらすことがある。深層心理は、自らの心に、精神疾患をもたらすことによって、現実を見えないようにし、現実から逃れようとするのである。人間は、誰しも、表層心理で、自ら意識して、精神疾患に陥るのではない。また、人間は、誰しも、自らの意志で、精神疾患に陥ることはできない。すなわち、表層心理という意識や意志では、自らの心に、精神疾患を呼び寄せることはできないのである。また、人間は、理由なく、精神疾患に陥らない。深層心理が、自らの心に、精神疾患をもたらし、現実を見えないようにし、現実から逃れようとしたのである。さて、深層心理に内在している第一の欲望は、自我の保身化(略して保身化)という志向性で、自我を確保・存続・発展させたいという欲望で、快楽を得ようとするのであるが、この欲望が日常生活を成立させているのである。人間の日常生活は、ほとんど、無意識の行動によって成り立っている。それは、第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望、すなわち、自我の保身化の志向性にかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動しても何ら問題が無く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。人間が、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしているのは、自我を確保・存続・発展させたいという第一の欲望が満たされ、快楽を得ているからである。それが、人間が毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしている理由である。また、深層心理は、自我を確保・存続・発展するために、構造体を存続・発展させようとして、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。日本人や韓国人が、竹島という小さな無人島に執着しているのは、日本人や韓国人という自我に執着しているからである。高校生や会社員が、嫌々ながら高校や会社へ行くのは、生徒や会社員という自我を守りたいためである。次に、深層心理に内在している第二の欲望は、自我の対他化(略して対他化)という志向性で、自我が他者に認められたいという欲望で、快楽を得ようとするのであるが、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとする欲望である。自我の対他化の志向性で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の自我に対する思いを知ろうとするのである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理が、まず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとする。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の志向性によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の志向性によって起こるのである。高校生や会社員は、高校や会社という構造体で、高校生や会社員という自我を持っていて暮らしている。深層心理は、同級生・教師や同僚や上司という他者から、高校生や会社員という自我が好評価・高評価を得たいという欲望を持っている。しかし、連日、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことが重なった。そこで、深層心理は、傷心という感情とともに不登校・不出勤という行動の指令という自我の欲望を生み出した。これが、悪評価・低評価が傷心という感情の理由である。不登校・不出勤は、これ以上傷心したくない、自宅で心を癒やせという深層心理からの行動の指令である。その後、人間は、超自我というルーティーン通りの行動をさせようという志向性で、登校・出勤しようとするのである。超自我が功を奏さなければ、表層心理で、すなわち、理性で、現実的な欲望を求める志向性に基づいて、傷心という感情の下で、不登校・不出勤という行動の指令について意識して思考し、行動の指令を抑圧し、登校・出勤しようとするのである。超自我の志向性は、第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望から発している。深層心での思考は、現実的な利得を求める欲望から発している。しかし、深層心理が、第二の欲望である自我を他者に認めてもらいたいという欲望によって生み出した、傷心という感情が強過ぎる場合は、登校・出勤できないのである。そして、人間は、表層心理で、すなわち、理性で、不登校・不出勤を指示する深層心理を説得するために、登校・出勤する理由を探したり論理を展開しようとするのだが、それも上手く行かずに、苦悩に陥るのである。つまり、人間は、深層心理がもたらした傷心を、表層心理で解決できないために苦悩に陥るのである。そして、苦悩が強くなり、自らそれに堪えきれなくなり、加害者である同級生・教師や同僚や上司という他者を数年後襲撃したり、自殺したりするのである。つまり、同級生・教師や同僚や上司という他者の悪評価・低評価が苦悩の原因であり、襲撃や自殺は苦悩から脱出したいという欲望から起こるのである。また、男性が身だしなみを整えること、女性が化粧をすること、いずれも、自我が他者に認められたいという欲望を満足させるためにするのである。さて、人間の最初の構造体は、家族であり、最初の自我は、男児もしくは女児である。フロイトが提唱した精神分析の思想に、エディプス・コンプレクスがある。それは、家族という構造体で、男児という自我を持った者は、深層心理が、母親という他者に対して、男児という自我ではなく、男性という自我から、好評価・高評価を受けて快楽を得ようとして、近親相姦的な愛情というエディプスの欲望を抱き、敵対者として、父親を憎むようになるのだが、父親や社会がそれに反対し、家族という構造体から追放される虞があるので、超自我や表層心理の思考で、抑圧してしまう精神現象である。男児は、家族という構造体の中で、男児という自我を持ったから、深層心理がエディプスの欲望(母親に対する近親相姦的な愛情)という自我の欲望を生み出したのである。男児の深層心理が、エディプスの欲望を抱いたのは、一人の男性という自我を母親という他者から認めて欲しいという第二の欲望である自我を他者に認めてもらいたいという欲望から起こしたのである。しかし、超自我や表層心理の思考で、男性という自我を捨て男児という自我に戻ることによって、家族という構造体の中での男児の自我を守るために、エディプスの欲望を抑圧したのである。それは、深層心理の欲動の第一の欲望である、自我を確保・存続・発展させたいという欲望にもかない、超自我のルーティーンを守ろうとする欲望にも、表層心理の現実的利得を追求する欲望にもかなっているのである。次に、深層心理に内在している第三の欲望は、対象の対自化(略して対自化)という志向性で、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望で、快楽を得ようとするのである。深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとするのである。さて、対象の対自化という志向性には、有の無化と無の有化という志向性がある。さらに、有の無化には二つの志向性がある。その一つは、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性で捉えている。)という一文で表現することができる。まず、他者という対象の対自化という志向性であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られるのある。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。さらに、わがままも、他者を対自化する志向性から起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の対自化という志向性であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化という志向性であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。また、知るは、占る・領ると同源であり、理解する、支配すると同意である。知ろうとすること、他者・物・現象を広く隅々まで自分のものにしようとすることなのである。つまり、知るは、ある志向性から、他者・物・現象を支配すること、すなわち、捉えることを意味しているのである。つまり、知るとは、ある志向性から、他者・物・現象に関わりを持って理解するという意味なのである。さて、ドイツの哲学者のカントは、「人間は物自体を捉えることはできない」と主張している。カントは、「私たちが直感する物は現象であって、私がそのように直感している物そのものではない。私たちが直感する物の間の関係は、私たちにそのように現れるとしても、物において存在している関係そのものではない。対象その物がどのような物であるか、また、それが私たちの感性のこれらの全ての受容性と切り離された場合にどのような状態であるかについては、私たちは全く知るところが無い。」と述べている。つまり、カントは、「人間が認識しているのは現象であって、現象の背後にある物自体ではない。物自体は認識できない。」と主張しているのである。確かに、カントの言うように、人間は、特定の志向性からでしか、物を意識できないから、物自体は認識できない。志向性が変われば、同じ物も、別様に見えてくる。しかし、人間は、意識して、志向性を変えることはできない。志向性に変化があったならば、変えたのではなく、変わったのである。なぜならば、人間は、意識して、表層心理で、志向性を変えることができず、深層心理が、人間の無意識のうちに、志向性を変えたのである。それでも、人間は、特定の志向性を持って、対象を意識して捉えるしかないのである。人間は、志向性を持たずに、対象を意識できず、対象を捉えることができないのである。志向性を否定すれば、人間そのものを否定することになる。もちろん、物自体を捉えた人は、カントを含めて、この世には、存在しないの。例えば、机という物体がある。一般的な志向性からは、それは、勉強をする道具である。しかし、ある志向性からは、それは、食事をするテーブルになる。しかし、ある志向性からは、それは、物を載せる台になる。ある志向性からは、それは、人が乗る台になる。ある志向性からは、それは、バリケードになる。ある志向性からは、それは、他者に投げつける武器になる。ある志向性からは、それは、自らを守る楯になる。ある志向性からは、それは、ベッドになる。ある志向性からは、それは、思い出の品になる。つまり、机の物自体は存在しないのである。人間は、日常生活においても、物という対象物、現象という対象事だけでなく、他者をも、ある志向性から捉え、知り、理解し、支配している。ハイデッガーは、「人間は、心にあることしか捉えることができない。見ようとしていることしか見ることはできない。」と言っている。つまり、人の心は、反応できる人、物、ことにしか反応しないのである。人間の心には、既に、視点・観点という方向性があるのである。この方向性を、志向性と呼ぶ。志向性とは、対象に向かう作用の中で、初めて、対象が一定の意味として立ち現れ把握される意識経験のあり方である。つまり、人間は、常に、既に、心の中の志向性のある対象物や対象事や他者しか経験できないのである。意外な対象物や対象事や他者に出会って驚くという反応も、既に心の中にある対象物や対象事や他者に対してのことなのである。この心の働きは、無意識のうちで行われている。この無意識の心の働きが深層心理である。深層心理の思考の働きで、人間は、対象物や対象事や他者を捉えるのである。そして、人間は、表層心理の働きで、自らがある情態性にあることを意識したり、自らが対象物や対象事や他者を捉えていることを意識したり、深層心理が生み出した感情の下で深層心理が生み出した行動を許諾するか拒否するかを意識したりして思考することがあるのである。さらに、対象の対自化という志向性が強まると、「人は自己の欲望を心象化する」のである。「人は自己の欲望を心象化する」には、二つの志向性がある。その一つは、無の有化という志向性であり、もう一つは有の無化という志向性である。無の有化という志向性とは、「人間は、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。」である。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親は親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。ストーカーは、相手の心から自分に対する愛情が消えたのを認めることが辛いから、相手の心に自分に対する愛情がまだ残っていると思い込み、その心を呼び覚ませようとして、付きまとうのである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとするのである。有の無化という志向性は、「人間は、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在していないように思い込む。」である。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。さて、対象の対自化の作用を徹底させたのが、ニーチェの「権力への意志」という思想である。確かに、人間は、誰しも、常に、対象の対自化を行っているから、「権力への意志」の保持者になる可能性があるが、それを貫くことは、難しいのである。なぜならば、ほとんどの人は、他者の視線にあうと、その人の視線を気にし、自我を対他化するからである。最後に、深層心理に内在している第四の欲望は、自我と他者の共感化(略して共感化)という志向性で、自我と他者の心の交流を図り共感したいという欲望で、快楽を得ようとするであるが、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとするのである。つまり、自我と他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うという対等の関係である。特に、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるという意味があるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるという理由があるのである。しかし、結婚して、夫婦になっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。離婚した人の中には、相手を激しく非難する人がいるが、それは、屈辱感を払いたいという欲望からである。表層心理で、抑圧しようとしても、屈辱感が強いから、相手を激しく非難してしまうのである。相手を激しく非難してしまう理由は、夫婦という構造体が破壊され、夫もしくは妻という自我を確保・存続・発展させたいという欲望が消滅するという、欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さ、そして、夫婦という共感化が失われるという欲動の第四の欲望が失われることの辛さもあるのである。「呉越同舟」は、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。第二次世界大戦で、連合国が団結し、枢軸国が団結して戦ったのは、共感化の現象である。しかし、連合国側が勝利すると、連合国側の一員であるアメリカとソ連の反目が始まったは、互いに相手国を対自化したためである。「呉越同舟」が破産すると、必ず、このようになるのである。さて、表層心理の働きには、二つある。一つは、人間は、表層心理で、自我に現実的な利得をもたらそうとして、深層心理が生み出した感情の下で深層心理が生み出した行動を許諾するか拒否するかを思考することがある。もう一つは、人間は、表層心理の働きで、自らがある情態性にあることを意識したり、自らが対象物や対象事や他者を捉えていることを意識したりして、自らの存在を意識するのである。人間は、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時、他者に見られている時に、自らの存在を意識する。人間は、他者の存在を感じた時、自らの存在を意識するのである。自らの存在を意識するとは、自我がどのような行動や思考をしているかという行動性を意識し、それと同時に、自我がどのような感情や心境という情態性の下にあるかということを意識することである。それでは、なぜ、人間は、他者の存在を感じた時、自らの存在を意識し、自我の行動性と情態性を意識するのか。それは、人間は、常に、他者や他人の存在に脅威を感じ、自我の存在に危うさを感じていて、他者や他人に対して警戒の念が生じたからである。さらに、人間は、無我夢中で行動していても、突然、自らの存在を意識し、自我の行動性と情態性を意識することがある。無我夢中の行動とは、無意識の行動である。人間は、そのように行動している時も、突然、自らの存在を意識し、自我の行動性と情態性を意識することがあるのである。それも、また、人間は、常に、他者や他人の存在に脅威を感じ、自我の存在に危うさを感じていて、突然、他者や他人に対して警戒の念が生じたからである。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持して行動しているが、人間は、表層心理で思考して、行動しているわけではない。表層心理とは、自らを意識することであり、自ら意識して思考することであり、自らの意志である。すなわち、人間は、表層心理で、自ら意識して思考して、自らの意志によって、行動していないのである。深層心理が思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間はそれに動かされて、行動しているのである。深層心理とは、人間の無意識のうちでの思考である。すなわち、人間は、無意識のうちに、深層心理が思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて、行動しているのである。人間は、自らの深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望に捕らわれて生きているのである。自我の欲望は、感情と行動の指令の合体したものであり、感情が行動の指令を実行させる推進力になり、人間の活動の原動力になっているのである。つまり、人間は、自らが意識して思考して生み出していない自我の欲望に動かされて生きているのである。それでも、人間が、自らに、自分の存在や自己の存在があると思い込んでいる。それは、人間は、自分の存在に執着し、自己の存在に憧れているからである。執着の念、憧憬の念が、実際には存在していないものを存在しているように思わせるのである。神の存在、来世の存在と同じ現象である。しかし、自らが表層心理で思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているから、やはり、自我の欲望は自らの欲望である。自らの欲望であるから、逃れることができないのである。人間は、生きている間、深層心理は感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かし続けるのである。もしも、人間が自我の欲望から逃れることができることがあったり、深層心理が自我の欲望を生み出すことがなくなるようなことが起これば、人間は生ける屍になるしかないのである。



なぜ、快楽が存在するのか。それは、幻覚ではないのか。(自我その465)

2021-02-09 16:55:02 | 思想
なぜ、快楽が存在するのか。それは、幻覚ではないのか。なぜ、快楽が存在するのか。それは、無ではないのか。なぜ、人間は快楽を求めるのか。それは、求めているのではなく、求めるように仕向けられているのではないか。確かに、快楽は存在する。幻覚ではない。感じることができるからである。だから、それは無ではない。そして、人間は、誰かに強いられているわけでもなく、何かにだまされているわけでもなく、自ら、快楽を求めているのであるから、仕向けられているわけではない。しかし、人間は、誰一人として、自らの快楽を他者に見せることはできない。人間は、誰一人として、意志では、快楽を生み出すことはできない。快楽は、何かをすることによって、生まれてくるのである。さらに、同じことをしても、常に、快楽が生まれてくるわけではない。だから、実験によっても、快楽の存在を証明できない。そして、快楽は、一瞬のうちに、消えていく。快楽が継続しているように見えるのは、快楽の余韻に浸っているだけなのである。しかし、その余韻も、必ず、消滅する時が来る。そして、人間は、再び、快楽を求めて、行動を起こすのである。また、快楽は、一瞬のうちに消えていくから、幻覚とも言え、無と言うこともできる。しかも、人間は、意識して、快楽を得るための行動を考え出して、それを実行しているわけではない。無意識に、快楽を得るための行動を考え出して、それを実行しているのである。人間の意識しての思考を表層心理と言う。人間の無意識の思考を深層心理と言う。すなわち、深層心理が、快楽を得るための行動を考え出し、人間は、それを実行しているのである。深層心理が、常に、快楽を得るための行動を考えているから、人間は、それに従って、常に、快楽を得るための行動ができるのである。しかし、ほとんどの人間は、深層心理の存在に気付かず、表層心理での思考しか知らないから、表層心理で、快楽を得るための行動を考え出し、それを実行していると思い込んでいるのである。もしも、人間の意識しての思考だけが、すなわち、表層心理での思考だけが人間の思考だと言えるならば、人間は、常に、立ち止まって、意識して、快楽を求めるような行動を考え出し、その後で、それを実行しなければならない。しかし、誰が、そのようなことしているだろうか。自らもしたことがなく、他者のそれを見たことがないのではなかろうか。しかし、深層心理が、快楽を得るための行動を考え出し、人間は、それを実行して快楽を得ているとしても、また、快楽は一瞬の出来事だとしても、快楽を幻覚だとか無だとかと言って否定することはできない。なぜならば、快楽を否定することは、人間の存在を否定することだからである。人間の生きる目的は快楽を求めることなのである。だから、希望とは、深層心理が、快楽を得られる可能性のある行動が考えている、若しくは、深層心理が快楽を得る行動を考えることができる余裕ある状態にあるということなのである。逆に、絶望とは、深層心理が、快楽を得られる可能性のある行動を考え出せず、深層心理が快楽を得るような行動を考えるような余裕のある状態ではないということである。人間は、絶望に陥ると、その精神の重さに堪えられない人は、ある人は、大麻や覚醒剤や麻薬などに手を出すことによって、現実から逃げようとし、ある人は、深層心理が鬱病や統合症や離人症などの精神疾患に自らを罹患させて、現実から逃げようとし、ある人は、自殺という存在そのものを抹殺する手段によって、現実から逃げようとする。それほどまでに、快楽のない現実、快楽が考えられない現実は、人間に、重くのしかかってくるのである。しかし、人間は、快楽を捉えきれないのである。人間の知的能力には、先天的に、限界があるからである。しかし、人間は、自らが捉えきれないもの、すなわち、それ以上遡及できないものに動かされて生きているのである。聖書に「初めに言葉ありき」という言葉がある。この世は神の言葉によって作られたという意味である。人間の限界ある知的能力では、全知全能の神を捉えきれないのである。それ故に、この世には、捉えきれないものが存在するのである。また、聖書に「人はパンのみにて生くるものにあらず」ともある。人間は生きるという欲求を満たすだけでは満足できず、高尚な生き方を求めて生きていくという意味である。なぜ、高尚な生き方を求めるのか。聖書には、それが記されていない。聖書の「人はパンのみにて生くるものにあらず」という言葉は絶対真理であり、これ以上遡及してはいけないことなのである。まさしく、「初めに言葉ありき」である。聖書にとって、人間は生きるという満足できず、高尚な生き方を求めて生きていくということは、これ以上遡及できない絶対真理なのである。しかし、人間は生きるという欲求を満たすだけでは満足できず、高尚な生き方を求めて生きていくという主張は正しかったとしても、高尚な生き方を求めるのも快楽を得るためである。もちろん、聖書は、高尚な生き方を求めるのは快楽を得るためであるという主張を認めることはないだろう。キリスト教は、快楽は人間を堕落すると考えているからである。しかし、キリスト教に拘泥する必要は無い。確かに、「人はパンのみにて生くるものにあらず」という主張は正しい。人間は生きるという欲求を満たすだけでは満足できず、快楽を得るために行動するのである。それでは、人間は、何を基に快楽を得ているか。人間は、自我を基に、快楽を得ているのである。人間に、自我が存在しなければ、快楽は生まれないのである。だから、人間は、自我にこだわるのである。人間は、自我を主体に立てて、快楽を得ようとするのである。さて、自我とは何か。自我とは、構造体の中で、役割を担ったポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、国、県、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップルなど、大小さまざまなものがある。自我も、その構造体に所属して、さまざまなものがある。国という構造体では、国民という自我がある。県という構造体では、県民という自我がある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我がある。学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我がある。会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我がある。店という構造体では、店長・店員・来客などの自我がある。電車という構造体では、運転手・車掌・乗客などの自我がある。仲間という構造体では、友人という自我がある。カップルという構造体では恋人という自我がある。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って行動している。人間は、構造体に所属し、自我を持つことによって、自分の役割・役目を認識でき、それに沿って行動するのである。しかし、人間は、先天的に自我を有しているわけではない。人間は、カオスの状態で、動物として、生まれてくるのである。人間は、カオスの状態で生まれてきて、不安だから、コスモスの状態を求め、構造体に所属し、自我を持とうとするのである。人間は、精神が安定するには、安定した構造体に所属し、安定した自我を有していなければならないのである。人間は、安定した構造体に所属し、安定した自我を持つようになって、精神が安定し、快楽を求めて行動できるようになるのである。人間は、自我が不安定になれば、若しくは、所属している構造体が不安定になれば、深層心理が、絶望に陥り、快楽を得るような行動を考えるような余裕のある情態性を失い、快楽を得られる可能性のある行動を考え出せなくなるのである。さて、人間の最初の構造体は家族であり、最初の自我は息子・娘である。家族という構造体に所属し、息子・娘だという自我が得られて、深層心理は、初めて、安心感が得て、快楽を求めて、思考できるのである。自我の成立は、アイデンティティーの確立を意味するのである。幼児の深層心理は、家族や親戚や近所の人々から、息子・娘だと見なされていることを感じ取り、そこに安心感を得たので、自らも、家足という構造体という中での、息子・娘という自我を積極的に容認したのである。ここにおいて、幼児の深層心理は、家族という構造体中での息子・娘という自我を確立するとともに、家族という構造体の中での父・母・兄・姉・弟・妹・祖父・祖母などの自我を持った者と、家族という構造体外の親戚や近所の人々という他人を区別できるようになったのである。幼児が息子・娘という自我を持ったということは、動物を脱し、人間になったということ、つまり、人間界に入ったことを意味するのである。しかし、幼児が、家族という構造体の中で、息子・娘という自我を持ち、人間になった時から、母・父に対して性愛的な欲望(近親相姦的愛情)を抱き始めるのである。つまり、深層心理は、構造体の中で、自我が持ち、安定すると、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。幼児の深層心理は、家族という構造体の中で、息子・娘という自我の安定という快楽を得たから、次は、息子・娘という自我の発展のために、母・父に対して性愛的な快楽を求めて、自我の欲望を生み出すのである。それが、エディプスの欲望である。エディプスの欲望とは、最も自分に親しげに愛情を注いでくれる異性の親という他者に対する性愛的な欲望である。人間界に入るということ、つまり、人間になるということは、異性の他者に対して性愛的な欲望を抱けるということなのである。幼児が、人間になれば、すなわち、家族という構造体の中で、息子・娘であるという自我が成立すれば、深層心理が、異性の親である、母・父に対して性愛的な欲望(近親相姦的愛情)を抱き始めるのは当然なのである。これが、フロイトの言う、エディプスの欲望である。母・父に対する性愛的な欲望(近親相姦的愛情)、すなわち、エディプスの欲望をかなえることが、幼児期における人間の共通の欲望なのである。しかし、もちろん、この欲望は決してかなえられることは無く、幼児は、絶望することになる。それは、男児の母への性愛的な欲望(近親相姦的愛情)には父が大きな対立者として立ちふさがり、女児の父への性愛的な欲望(近親相姦的愛情)には母が大きな対立者として立ちふさがり、絶対的な裁き手としての社会(周囲の人々)もこの欲望を容認せず、父・母に味方するからである。そこで、男児・女児は、この家族という構造体の中で生きていくために、そして、社会(周囲の人々)の中で生き延びるために、自我の欲望を、深層心理(無意識の世界)の中に抑圧するのである。つまり、自我の安定のために、自我の欲望を抑圧するのである。これが、フロイトの言う、所謂、エディプス・コンプレクスである。つまり、人間になるということは、家族という構造体において、息子・娘という自我が成立し、アイデンティティーが確立された時から始まるが、それとともに、エディプスの欲望という自我の欲望が生じるのである。もちろん、それは、社会的には、かなえば悪事である欲望だから、他者や他人から反対され、自らも抑圧しようとするのである。しかし、幼児だから、このような、かなえば悪事となる自我の欲望を抱くのではない。人間は、死ぬまで、かなえば悪事となる自我の欲望を抱き続けるのである。なぜならば、人間は、死ぬまで、常に、何らかの構造体に属し、何らかの自我を持っているから、自我が安定すれば、自我の発展のために、さまざまな自我の欲望が、深層心理から湧いてくるからである。深層心理の快楽を求める欲望には、道徳観や社会規約が無く、自我の発展を目的としているから、深層心理が生み出した自我の欲望には、かなえば悪事となる欲望は、必ず、存在するのである。もちろん、男児・女児が性愛的な欲望(近親相姦的愛情)という自我の欲望を抑圧したのは、道徳観や社会規約からではなく、父・母、(周囲の人々)が容認せず、家族という構造体から追放される虞があるからである。しかし、幼児期以後も、母・父に対する性愛的な欲望(近親相姦的愛情)を抱く者は出現する。快楽を求める欲望は、飽くなき欲望なのである。しかし、その時は、深層心理の超自我が、若しくは、表層心理の現実的な利得を求める欲望が道徳観や社会規約を使って抑圧するのである。超自我とは、日常生活をルーティーンに、すなわち、昨日と同じように送ろうという欲望である。表層心理とは、人間の意識しての思考であり、現実的な利得を求める欲望の下で思考するのである。道徳観は、成長するに従い、周囲の大人から与えられ、また、社会規約は、自ら、社会(周囲の人々)の中で生き延びるために体得していくものである。道徳とは、人のふみ行うべき道であるが、社会の秩序を成り立たせるために、個人が守るべき規範とされているものである。社会は、取り締まるべきことを、道徳観で取り締まり、それで果たせないならば、法律などの社会規約で取り締まるのである。しかし、深層心理が生み出す自我の欲望の感情が強すぎると、人間は、深層心理の超自我や表層心理の現実的な利得を求める欲望の下での思考を乗り越えて、自我の欲望をかなえようとするのである。それが、時には、偉大なものを創造することもあるが、往々にして、犯罪に繋がるのである。芸能人が不倫すると、マスコミや大衆は非難する。しかし、不倫した芸能人は、安定した生活に満足できないのである。確かに、不倫した芸能人も、最初は、安定した生活を快楽として求める。しかし、生活が安定すると、次は、発展した生活を快楽として求めるのである。人間、誰しも、不倫が道徳に反した行為だとわかっている。しかし、深層心理の快楽を求めて、思考して、生み出した、自我の欲望の感情が強すぎると、深層心理の超自我や表層心理の現実的な利得を求める欲望の下での思考を乗り越えて、自我の欲望をかなえようとするのである。それほど、深層心理の快楽を求める欲望、すなわち、深層心理の快楽を求める欲望は強いのである。さて、人間は、日常生活において、絶望に陥っていなければ、深層心理が、常に、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて行動している。深層心理が自我を主体に立てて思考しているのであり、人間が、主体となって、思考しているのではないのである。自我とは、構造体という他者から与えられたものであるから、自我自身が主体的な思考ができず、もちろん、主体的に行動もできないのである。つまり、人間は、主体的な存在ではないのである。人間の行動は、主体的なものではなく、全て、深層心理が、自我を主体に立てて思考して生み出した自我の欲望の現れなのである。しかし、それでも、人間は、表層心理で、自ら意識して、思考することがある。その思考の結果が意志である。しかし、人間が、表層心理で、意識して、思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについて審議する時だけなのである。しかも、人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。人間の日常生活が、ルーティーンという、同じようなことを繰り返しているのは、無意識の行動だから可能なのである。人間の行動は、深層心理が思考して生み出した行動の指令のままの行動、すなわち、無意識の行動が、ほとんどなのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考していることを意味する。ラカンは、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。だから、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。深層心理は、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快楽を求めて、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。そして、深層心理が論理的に思考して生み出した自我の欲望が、人間の行動する原動力、すなわち、人間の生きる原動力になっているのである。つまり、人間は、自らが意識して思考して、すなわち、表層心理で思考して、行動していないのである。人間の表層心理で思考が理性である。人間は、理性性で行動しているのではなく、深層心理が快楽を思考して生み出した自我の欲望によって生きているのである。しかし、多くの人は、深層心理の存在を知らず、深層心理の思考の力を知らないから、自我の欲望の存在に気付くことがあると、自らが表層心理で意識して思考して生み出しているように誤解するのである。しかし、自らが表層心理で意識して思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているのであるから、やはり、自我の欲望は自らの欲望なのである。自我の欲望は、紛れもなく、自らの欲望だから、それから、逃れることができないばかりか、それに動かされて生きているのである。さて、深層心理は、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快楽を求めて、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望である。深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかを叶えれば、快楽が得られるので、欲動の四つの欲望に従って、思考するのである。深層心理に内在している欲動には、四つの欲望がある。欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望であるが、簡潔に言えば、自我という社会的な地位や社会的な位置を守りたいという欲望である。深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望であるが、簡潔に言えば、好かれたい・評価されたいという欲望である。深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望であるが、簡潔に言えば、自我の思い通りにしたいという欲望である。深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であるが、簡潔に言えば、理解し合いたい・愛し合いたい・仲良くしたいという欲望である。深層心理は、快楽を求めて、欲動の四つの欲望のいずれかが叶うように、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っているのは、深層心理が、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望、すなわち、自我の保身化の作用によって、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、表層心理で自我の欲望を意識することなく、自我の欲望のままに行動しているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、表層心理で意識して考えることがなく、無意識の行動だから可能なのである。また、人間は、表層心理での、現実的な利得を求める欲望に基づいて、意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想そのものである。しかし、人間の生活は、必ずしも、毎日が、平穏ではない。嫌なことがある。それでも、学校や職場へ行くのである。生徒という自我を持った人が高校という構造体で生徒指導係の教諭から服装を注意され、社員という自我を持った人が会社という構造体で上司から言葉遣いを注意されると、深層心理は、傷心と怒りの感情から反論しろという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を唆すのだが、深層心理の超自我がルーティーンを守るために、反論しろという行動の指令を抑圧しようとする。もしも、深層心理の超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、意識して、思考して、ルーティーンを守るために、自我の欲望を抑圧するのである。そして、明日も、また、学校や会社へ行くのである。ルーティーンの生活を続けるのである。フロイトは、自我の欲望の暴走を抑圧するために、深層心理に、道徳観に基づき社会規約を守ろうという超自我の欲望、所謂、良心がが存在すると言う。しかし、深層心理は瞬間的に思考するのだから、良心がそこで働いているとは考えられない。超自我は、ルーティーンの生活を守るために、道徳観や社会規約を利用しているように思われる。超自我の働きは、ルーティーンの生活を守ることであり、そのために、道徳観や社会規約を利用しているのである。もしも、超自我によって、深層心理が生み出した自我の欲望が抑圧できなかったならば、そこに、人間の表層心理での現実的な利得を求める欲望に基づいての思考が始まるのである。人間は、深層心理が思考して生み出した自我の欲望を受けて、表層心理で、現実的な利得を求める欲望に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、受け入れるか拒絶するかを思考することがあるのである。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快感原則を満足させるように、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動き出すのであるが、深層心理の思考の後、人間は、それを受けて、すぐに行動する場合と考えてから行動する場合がある。前者の場合、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、すなわち、表層心理で思考することなく、行動するのである。これは、一般に、無意識の行動と呼ばれている。深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、表層心理で思考することなく行動するから、無意識の行動と呼ばれているのである。むしろ、人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。ルーティーンという、同じようなことを繰り返す日常生活の行動は、無意識の行動である。だから、人間の行動において、深層心理が思考して行う行動、すなわち、無意識の行動が、断然、多いのである。それは、表層心理で意識して審議することなく、意志の下で行動するまでもない、当然の行動だからである。人間が、本質的に保守的なのは、ルーティンを維持すれば、表層心理で思考する必要が無く、安楽であり、もちろん、苦悩に陥ることもないからである。しかし、後者の場合、人間は、表層心理で、現実的な利得を求める欲望に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動するのである。人間の意識しての思考、すなわち、人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求める欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちであり、深層心理は、超自我によって、この自我の欲望を抑えようとするのだが、感情が強い場合、抑えきれないのである。超自我が過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を抑圧できない場合、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実的な利得を求める欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考するのである。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、意志によって、実際に、深層心理が出した行動の指令を抑圧できた場合は、表層心理で、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は自然に消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。強い傷心の感情が、時には、鬱病、稀には、自殺を引き起こすのである。強い怒りの感情が、時には、暴力などの犯罪、稀には、殺人を引き起こすのである。そして、それが国という構造体同士の争いになれば、戦争になるのである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だから、誰しも、愛国心を持っているのである。国という構造体にに所属しているからである。よく、愛国心の有無、強弱に関するアンケートがある。現在の日本人の愛国心についての状況を知りたいがためである。しかし、それは全く無意味である。誰でも愛国心は存在するからである。確かに、日本が嫌いだという人がいる。しかし、それは、自分の理想とする日本と現在の日本が違っていると思うからである。決して、愛国心を失ったわけではない。愛国心は、日本人だけでなく、全世界の人々に共有されている。なぜならば、全世界の人々が、いずれかの国に所属しているからである。愛国心とは、国という構造体に所属していれば、誰もが抱く心情なのである。それは、郷土という構造体に所属しているから愛郷心を、家族という構造体に所属しているから家族愛を、会社というという構造体に所属しているから愛社精神を、学校という構造体に所属しているから愛校心を、カップルという構造体に所属しているから恋愛感情を、仲間という構造体に所属しているから友情を、宗教団体という構造体に所属しているから信仰心を抱くのと同じである。さて、「俺は、誰よりも、日本を愛している。」と叫び、中国や韓国などに対して対抗心を燃やす人がいる。そして、自分の考えや行動に同調しない人を売国奴、非国民、反日だなどと言って非難する。売国奴とは敵国と通じて国を裏切るものをののしっていう語であり、非国民とは国民としての義務を守らない者であり、反日とは日本に反対することや日本や日本人に反感をもつことという意味である。つまり、売国奴、非国民、反日のいずれも、日本人ならば日本に対して愛国心を持っていることを知らず、自分の愛し方だけが正しいと思い込んでいる者が生み出した言葉なのである。また、憂国という言葉がある。憂国とは国家の現状や将来を憂え案ずることや国家の安危を心配することという意味である。そして、憂国の士という言葉さえ存在する。しかし、日本人ならば、誰しも、理想の日本の国家像があり、現在の日本がその国家像にそぐわないように思えれば、憂国の念を抱くのである。それ故に、憂国の念を抱く人を特に特別視し、憂国の士と呼ぶ必要はないのである。さらに、憂国は国家の現状や将来を憂え案ずることや国家の安危を心配することという意味であるが、現在の日本の国家の捉え方も、個人差があり、自らの捉え方は普遍化できないはずである。ところが、傲慢にも、憂国の士を自認する者は、自らが持っている理想の日本の国家像は誰にも通用するものだと思い込み、自分だけが日本の現状や将来を憂え案じていると思い込んでいる。そして、自らと異なった理想の日本の国家像を持っている者たちや自らと異なった日本の現状のとらえ方をしている者たちを、売国奴、非国民、反日などと言って非難するのである。もちろん、中国人や韓国人にも愛国心はある。特に、中国人や韓国人は、近代において、自国が日本に侵略された屈辱感がまだ過去のものとなっていないから、日本人に侵略・占領の過去を反省する心を失ったり、正当化するような態度が見えると、愛国心が燃え上がるのである。中国において、愛国無罪を叫んで、日本の企業を襲撃するような人たちもまた憂国の士である。もちろん、彼らは犯罪者である。さて、日本の憂国の士と自称する者と中国の憂国の士と自称する者、日本の憂国の士と自称する者と韓国の憂国の士と自称する者が一堂に会するとどうなるであろうか。互いに自分の言い分を言い、相手の主張を聞かないであろう。挙句の果てには、殴り合いが始まるか、最悪の場合、戦争に発展するだろう。このように、愛国心が高じると危機的な状況を招くのである。一般に言われているような、決して、過大に評価すべきものではないのである。なぜならば、国という構造体が存在する限り、国民という自我を有する者が存在し、そこには愛国心を必ず存在するからである。ただ、それだけのことなのである。しかし、愛国心を持てない国民は悲劇である。精神状態が不安定になるからである。それは、家に帰っても、家族の誰からも相手にされない父親と同じ気持ちである。自らが日本人であることにアイデンティティーを持っているから、理想の日本の国家像を描き、現在の日本を批判し、将来の日本を憂えるのである。それが、日本人としての自我のあり方である。しかし、それは、中国人、韓国人も同様である。そのことに気付かず、日本人としての自我を強く主張すれば、中国人、韓国人と対峙するしかないのである。ヘイトスピーチをして、中国国籍の人、韓国国籍の人、北朝鮮国籍の人を日本国内から追い出そうとする人たちは、極端に日本人としての自我に強い人たちである。大勢の人とヘイトスピーチをすることによって、日本人のアイデンティティーを確認し合っているのである。彼らは、自らの行為を愛国心の発露だとしているだろう。彼らは、自らの行為に反対する日本人を、売国奴、非国民、反日だと思っているだろう。彼らは日本を純粋に愛しているからこのような行為をするのだと思っているだろう。しかし、なぜ、日本を愛すのだろうか。その答えは一つしかない。自分が日本という国に所属しているからである。自分に日本人という自我を与えられているからである。日本という自我が与えられているから日本という構造体を愛するのである。自分に日本人という自我を保証してくれるものは日本という構造体だからである。それ故に、愛国心は国を愛しているように見えるが、真実は、国民という自我を通して自分を愛しているのである。それに気づかなければ、愛国無罪のような罪を犯すことになるのである。さて、「子供は正直である。」と言われる。この言葉の真意は、大人は嘘をつくことがあるから言ったことの全部を信用することはできないが、子供は嘘を言わないから言ったことの全部を信用できるということである。言うまでもなく、子供に対して好意的な言葉である。しかし、「子供は正直である。」からこそ、些細なことで喧嘩するのである。相手の気持ちを考えることなく、自分の権利を強く主張するから、簡単に喧嘩が始まるのである。子供は、お互いに、相手の気持ちを考えることなく、自分の権利を強く主張するから、喧嘩が絶えないのである。自分の権利だけを主張することは、自我の欲望に忠実であるということである。子供は、子供としての自我の欲望に忠実なのである。つまり、愛国心の発露も幼児の行為なのである。子供は正直だと言う。それと、同様に、愛国心の発露も正直な心情の吐露である。しかし、それは、後先を考えない、幼児の行為である。日本人の愛国主義者と中国の愛国主義者の争い、日本人の愛国主義者と韓国の愛国主義者の争いは、幼児の争いである。幼児の悪行は大人が止めることができる。しかし、日本、中国、韓国の最高指導者は、それを止めるどころか、むしろ、たきつけている。彼らもまた幼児的な思考をしているからである。それ故に、愛国心による争いは収まる気配は一向になく、むしろ拡大しているのである。為政者、国民、共々、愛国心から発する自我の欲望に従順である限り、収まらないのである。さて、いじめも、また、自我の欲望に忠実であることの悲劇、惨劇である。2019年7月3日、岐阜市の中学3年生の男子生徒が、マンションから転落死した。いじめを苦にしての自殺であった。彼は、自殺する前日、同級生三人以上から、トイレの便器に頭を入れられていたという。なぜ、彼は、他の生徒に助けを求めなかったのか。なぜ、彼は、教師に訴えなかったのか。なぜ、彼は、親に訴えなかったのか。それは、そうすることで、いじめっ子たちは罰せられるかも知れないが、自分は、仲間という構造体から追放され、学校という構造体やクラスという構造体に居場所を無くすからである。それを彼は最も恐れたのである。そこで、彼は自殺したのである。自殺すれば、いじめられる屈辱から解放され、いじめっ子たちは罰せられるからである。自殺すれば、仲間という構造体から追放され、学校という構造体やクラスという構造体に居場所が無くすという不安を味わわないで済むのである。それでは、なぜ、いじめっ子たちは、いじめをしたのか。それも、非人間的ないじめをしたのか。それは、いじめっ子たちの深層心理にとって、いじめは楽しいからである。小学生、中学生、高校生が、仲間という構造体で、一人の人をいじめるのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、連帯感という快楽が得られるからである。また、嫌いな人間や弱い人間をいじめると、人間は、快感を覚えるのである。なぜならば、人間にとって、嫌いな人間の嫌いな部分とは、自分自身も身に付ける可能性がある、忌避したい部分であるからである。だから、いじめっ子たちは、自らが持つかも知れない嫌いな部分や弱い部分を持っている同級生を仲間という構造体でじめることで、それを支配したと思えるから、快楽を覚えるのである。それでは、なぜ、いじめを見ていた周囲の中学生たち注意することも無く、教師に訴えることをしなかったのか。そうすれば、自分が、次に、いじめっ子たちのいじめのターゲットになる可能性があるからである。大人たちが現れ、いじめっ子たちを罰するということがわかった時に、安心して、いじめの事実を話すのである。しかし、いじめは、遠い存在ではない。毎日のように、芸人たちがいじめを行い、いじめにあっている。漫才で、ぼけ役が話すと、突っ込み役ははぼけ役の頭を殴って反論したり、否定したりする。それが、視聴者の笑いを誘う。売れている先輩芸人が、売れていない後輩芸人に、無理難題を押し付け、売れていない後輩芸人は、案の定、失敗し、困窮の表情を浮かべる。それが、視聴者の笑いを誘う。芸人たちは、罰ゲームと称され、熱湯湯に入れられたり、蟹に鼻を挟まれたり、火傷しそうな熱い物を食べさせられたり、吐くしかない辛い物を食べさせられたり、のどに通らない苦い物を飲まされたりする。それが、視聴者の笑いを誘う。つまり、いじめの番組を見て、視聴者は快楽を得ているのである、つまり、大衆も、また、芸人という弱い人間がいじめられているのを見ることに、快楽を覚えているのである。大衆も、また、自我の欲望に忠実なのである。そして、芸人が、いじめを甘んじて受けるのは、芸人という構造体や放送業界という構造体から追放されたくないからである。だから、人間世界において、いじめは無くなることがないのである。さて、ストーカーも、また、自我の欲望に忠実な人である。ストーカーは、恋人という自我の欲望に取り憑かれ、失恋を認めることができず、憎しみの感情に動かされ、理性(表層心理による判断)を失ったである。マスコミは、ストーカーを、精神異常者のように扱っているが、ストーカーは決して精神異常者ではない。ストーカーの行動は、他者(彼氏・彼女)が、カップルというい構造体から他の構造に所属することに脅威を覚え、それを妨害することから起こることである。それは、いじめという快楽を覚える行動ではなく、恋人いう自我を保つための必死の行動である。失恋した人は、誰しも、一時的にしろ相当の時間にしろ、ストーカー的な心情に陥る。誰しも、すぐには失恋を認めることができない。相手から別れを告げられた時、誰一人として、「これまで交際してくれてありがとう。」とは言えない。失恋を認めることは、あまりに苦しいからである。相手を恨むことがあっても、これまで交際してくれたことに対して礼など言う気には決してならない。失恋を認めること、相手の自分に対する愛が消滅したこと・二人の恋愛関係が瓦解したことを認めることはあまりに苦しい。それは、相手から、自分に対する愛が消滅したからと言われて、別れを告げられても、自分の心には、恋愛関係に執着し、相手への愛がまだ残っている。しかし、相手との恋愛関係にはもう戻れない。このまま恋愛関係に執着するということは、敗者の位置に居続けることになる。失恋したということは、敗者になり、プライドが傷付けられ、下位に落とされたということを意味するのである。ずたずたにされたプライドを癒し、心を立て直すには、自分で自分を上位に置くしか無い。そのために、失恋した人は、いろいろな方法を考え出す。第一の方法は、すぐには、自分を上位に置くことはできないので、相手を元カレ、元カノと呼び、友人のように扱うことで、失恋から友人関係へと軟着陸させ、もう、相手を恋愛対象者としてみなさないようにすることである。これは、相手との決定的な別離を避けることができるので、失恋という大きな痛手を被らないで済むのである。第二の方法は、相手を徹底的に憎悪し、軽蔑し、相手を人間以下に見なし、自分が上位に立つことで、ずたずたにされた自分のプライドを癒すのである。これは、女性が多く用いる方法である。第三の方法は、すぐに、別の人と、恋愛関係に入ることである。新しい恋人は、別れた人よりも、社会的な地位が高く、容貌が良い人である方が、より早く失恋の傷は癒やされる。しかし、失恋の傷が深く、失恋の傷を癒やす方法を考えることができない人も存在する。それは、相手に別れを告げられ、相手が自分に対する愛を失っても、相手を忘れること、相手を恋人として見なさないようにすることができない人である。そのような人の中で、相手につきまとう人が出てくる。それがストーカーと呼ばれる人である。ストーカーは、男性が圧倒的に多い。彼は、失恋を認めることがあまりに苦しく、相手を忘れる方法が考えることさえできず、相手から離れることができずに、いつまでも付きまとってしまうのである。中には、相手がどうしても自分の気持ちを受け入れてくれないので、あまりに苦しくなり、その苦悩から解放されようとして、相手を殺す人までいる。確かに、ストーカーの最大の被害者は、ストーカーに付きまとわれている人である。しかし、ストーカーも、また、深層心理が愛という自我の欲望に取り憑かれた被害者なのである。人間は、誰しも、失恋すると、ストーカーの感情に陥るが、多くの人は、何らかの方法を使って、相手を忘れること、相手を恋人として見なさないことに成功したから、ストーカーにならないだけなのである。カップルという恋愛関係の構造体は、恋人という自我があり、恋愛感情という愛があるから、相思相愛の時は、「あなたのためなら何でもできる。」と言いながら、相手が別れを告げると、相手のことが忘れられず、誰しも、ストーカー心情に陥り、時には、実際に、ストーカーになる人が現れるのである。それは、相思相愛で、カップルという恋愛関係の構造体を形成している時は、あまりに大きな快楽を得ていたから、カップルという恋愛関係の構造体が破壊された上に、相手が、別の人とカップルという恋愛関係の構造体を形成し、その人と快楽を得ること想像すると、嫉妬心で堪えられないからである。このように、一事が万事、人間は、快楽を求める欲望によって動かされているのである。しかも、人間は、表層心理で、意識して、快楽を得るための行動を考え出して、それを実行しているわけではない。深層心理が、人間の無意識に、快楽を得るための行動を考え出して、それを人間を実行させているのである。確かに、深層心理が、快楽を得るための行動を考え出し、人間は、それを実行して快楽を得ているとしても、快楽を否定することはできない。なぜならば、快楽を否定することは、人間の存在を否定することだからである。人間の生きる目的は、快楽を求め、得ることにあるのである。





哀しみの向こうに精神疾患がある。(自我その464)

2021-02-06 18:41:44 | 思想
人間は、誰しも、常に、心の中に、四つの欲望がある。四つの欲望とは、現在の構造体が存続してほしい・現在の自我を維持したいという第一の欲望、他者に認められたい・他者に好かれたいという第二の欲望、自分の意見を通したい・構造体を支配したい・この場を仕切りたいという第三の欲望、他者と心の交流を図りたい・他者と協力体制を築きたいという第四の欲望である。しかし、この四つの欲望は、自ら意識して、自ら意志して、持ったものではない。無意識のうちに、心の底から湧いて来て、働くのである。この、人間の無意識の心の働きを深層心理と言う。それに対して、人間の自らを意識しての心の働きを表層心理と言う。深層心理は、第一の欲望を保身化という形で機能化させ、第二の欲望を対他化という形で機能化させ、第三の欲望を対自化という形で機能化させ、第四の欲望を共感化という形で機能化させて思考している。構造体とは、国、家族、学校、会社、仲間、カップルなどの人間の組織・集合体である。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。国という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には校長・教師・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・部長・社員などの自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我がある。人間は、常に、構造体に所属して、自我を持って行動しているが、深層心理が、人間の無意識の状態で、四つの欲望の下で(四つの機能を働かせて)、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。フランスの心理学者のラカンは「無意識は言語によって構造化されている」と言う。「無意識」とは、深層心理のことである。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って、論理的に思考していることを意味する。深層心理は、四つの欲望の下で(四つの機能を働かせて)、言語を使って、論理的に思考し、感情と行動の指令を生み出すのである。感情は、一般に、喜怒哀楽で表現される。深層心理は、四つの欲望のうちのいずれかがかなえば快楽を得て、喜ぶ、楽しむという現状肯定の感情を生み出し、四つの欲望のうちのいずれかがかなわなければ、傷心し、怒るという現状改革のための感情、若しくは、哀しむという現状諦観の感情を生み出すのである。深層心理は、感情を生み出すとともに、自我に行動の指令を生み出し、現状を肯定するような行動、現状を改革するような行動、現状を諦観するような行動を取るように仕向けるのである。さて、人間の日常生活において、深層心理を、最も強く動かしている欲望は、他者に認められたい・他者に好かれたいという第二の欲望である。人間は、すなわち、深層心理は、自我が他者から好かれたり、愛されたり、評価されたり、認められたりして、好評価・高評価を受ければ、喜ぶや楽しむという満足感が得られるのである。深層心理は、自我に、喜びの感情とともに歓声を上げろなどの行動の指令、楽しいという感情とともに満面に笑みを浮かべよなどの行動の指令を生み出し、自我はそれに従うのである。しかし、自我が他者から、侮辱されたり無視されたりして、悪評価・低評価を受けると、深層心理(心)は傷付き、怒ったり哀しんだりするのである。深層心理は、自我が、他者から、侮辱や無視などの仕打ちを受けると、傷心し、怒るという現状改革のための感情、若しくは、哀しむという現状諦観の感情を生み出すのである。自我が、相手(その他者)によって、下位に落とされたからである。怒るという感情は、自我が相手より強い時、若しくは、自我と相手の力関係を図る考慮できないほど激しい感情がわき上がった時に起こる。深層心理は、相手によって下位に落とされた自我を復活させようとして、怒りの感情を生み出し、相手を侮辱しろや相手を殴れという行動の指令を出し、自我をして、相手を侮辱したり殴らせることによって、相手を下位に落とし、自我を上位に立たせようとするのである。怒りの感情はそれだけで生み出されることは無く、常に、相手を侮辱しろや相手を殴れなどの行動の指令を伴うのである。哀しむという感情は、自我が相手より強い時に起こる。深層心理は、相手によって下位に落とされた自我をこれ以上下位に落とされないようにして、哀しみの感情を生み出し、相手が強いのだから諦めろや涙を流せという行動の指令を出し、自我を癒やそうとするのである。しかし、深層心理が怒りの感情を生み出した場合、深層心理には、超自我という機能もあり、ルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧しようとする。超自我は、深層心理の現在の自我を維持したいという第一の欲望から発した、自我の保身化という機能である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我は、相手を侮辱しろや相手を殴れなどの行動の指令相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。その場合、自我の欲望に対する審議は、表層心理に移されるのである。人間は、深層心理が思考して生み出した怒りの感情と相手を侮辱しろや相手を殴れなどの行動の指令という自我の欲望を受けて、表層心理で、現実的な利得を求める欲望に基づいて、深層心理が生み出した怒りの感情の中で、深層心理が生み出した相手を侮辱しろや相手を殴れという行動の指令について、受け入れるか拒絶するかを思考するのである。人間の意識しての思考、すなわち、人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、その時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちであり、深層心理は、超自我によって、この自我の欲望を抑えようとするのだが、感情が強い場合、抑えきれない時があるのである。深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、後に自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、意志によって、実際に、深層心理が出した行動の指令を抑圧できた場合は、表層心理で、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した傷心や怒りの感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は自然に消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。強い怒りの感情が、時には、相手を殴るなどの暴力、稀には、殺人を引き起こすのである。また、深層心理が哀しみの感情を生み出した場合、相手によって下位に落とされた自我をこれ以上下位に落とされないようにして、相手が強いのだから諦めろや涙を流せという行動の指令を出し、自我を癒やそうとするのであるが、癒やしきれなかった時には、深層心理は、自らを精神疾患に陥らせることがある。一般に、精神疾患は、マイナス面しか知られていない。それらには、常に苦悩がつきまとうからである。だから、そこに陥りたくない。陥った場合には、できるだけ早く抜け出したい気持ちになるのは当然のことである。しかし、精神疾患とは、最も差し迫った問題を解決する苦悩から逃れるために、深層心理が選択した窮極の手段なのである。このような深層心理の働きを、フロイトは、防衛機制と呼んだ。しかし、深層心理は、人間を苦悩から逃れさせるために精神疾患に陥らせるが、精神疾患に陥った人間が、その後、それをどのように引きずっていくかまでは考えない。だから、精神疾患は、苦悩から逃れることには一定の効果を有するが、その後は、精神疾患それ自体が、その人を苦しめることになるのである。だから、精神疾患は、心の病といわれるのである。さて、精神疾患には、神経症と呼ばれるものと精神病と呼ばれるものが存在する。一般に、神経症は、心理的な要因と関連して起こる心身の機能障害と説明され、神経病は、重症の精神症状や行動障害を呈する精神障害の総称と説明されている。精神病の方が神経症より重篤の症状を示すという違いはあるが、方向性は同じである。しかし、一般にも、マイナス面しか捉えられていない。確かに、神経症であろうと精神病であろうと、精神疾患に陥ると、恐怖感、不安感に苛まれたり、苛立ちを覚えたり、絶望感に囚われたり、幻聴が聞こえたり、幻覚を見たり、自信が失われたり、生きがいが感じられなくなったり、楽しみも喜びが感じられなくなったり、憂鬱や悲しみしか感じられなくなったりする。しかし、このマイナスの現象は、副作用である。主作用は、当面している現在の苦悩から自らの精神を解放させることにある。深層心理が、苦悩から自らの精神を解放させるために、精神疾患に陥らせるのである。深層心理とは、我々の意志が及ばない、我々に意識されない、我々の奥底にある心理であるから、深層心理の存在も動きも働きを気付いていないのである。我々が感じ取ることができるのは、深層心理がもたらした精神疾患の苦痛だけである。だから、深く悩み過ぎたために精神疾患になったと思い込んでしまうのである。確かに、深い苦悩という原因、精神疾患という結果は正しいが、そのプロセスに存在する、深層心理の働きが理解されていないのである。だから、苦悩から苦悩へという点だけしか見られていないのである。ちなみに、深層心理が存在すれば、当然のごとく、表層心理が存在する。表層心理とは、我々が、ボールを投げよう、ボールを蹴ろう、椅子に座ろう、椅子から立ち上がろうなどの意志、頭痛や腹痛や味覚や触覚などの意識に上った思いや感じを言う。つまり、表層心理とは、意志、意識された思い、感じを意味するのである。一般の人は、深層心理の存在を知らず、表層心理のみを自分の心理や感情だと思い込んでいる。もちろん、表層心理と深層心理との区別は無い。そのような視点からは、当然のごとく、深層心理の動き・働きは考えられないから、精神疾患の現象の真実を捉えることはできない。誰しも、自らの意志によって、精神疾患に陥ったのではない。もしも、自らの意志によって陥ったのならば、自らの意志によって精神疾患から脱却できるはずである。しかし、それは不可能である。精神疾患は、表層心理の範疇に属していないからである。深層心理が、自らの精神を精神疾患に陥らせることによって、当面している問題の解決の苦悩から自らの精神を解放し、当面の問題から逃れようとするのである。深層心理は、自らの心理を精神疾患に陥らせることによって、我々をして現実を正視させないようにして(我々から現実を遠ざけて)、その苦悩から解放させようとするのである。しかし、精神疾患も、また、苦悩の状態である。つまり、深層心理がもたらした精神疾患は、当面している問題の苦悩とは異なった、新しい、別の苦悩を持ち込んで来るのである。しかし、我々は、深層心理の動きに気づかず、表層的に、単純に、当面している問題の苦悩のために精神疾患になってしまったと思い込んでいるのである。しかし、真実は、深層心理が、言わば、毒を以て毒を制そう(Aという毒を使ってBという毒を制圧しよう)としたのである。言うまでもなく、この場合、Aという毒に当たるものが当面している問題を解決しようという苦悩であり、Bという毒に当たるものが精神疾患である。さて、適応障害という精神疾患が存在する。適応障害とは、職場や学校、そして家庭などの生活環境に不適応を生じ、不安や抑うつなどの症状を招くケースを指している。例えば、四十代の男性会社員は、課長に昇進したものの、業務量が倍増し、夕方になると、疲労、倦怠、憂鬱感を覚えるようになりました。業務にも些細なミスを生じるようになったので、部長に相談して、一旦降格させてもらったところ、まもなく症状は回復した。彼は、適応障害に罹患していたのである。彼は、課長とは一般会社員とは異なった業務をこなさなければいけないという価値観を持っていた。そこで、自分が課長になると大きなプレッシャーを感じたのである。恐らく、彼も、その苦しみから逃れようとして、自己正当化のために、色々なことを考え、やってみたはずである。人間は、誰しも、苦悩に陥ると、その苦悩から逃れるために、色々なことを考え、色々なことを行って、自己正当化に励むものである。なぜならば、苦悩とは、自己正当化が失敗したり、自己正当化の道筋が見えなかったりした時に訪れ、自己正当化が成功したり、自己正当化の道筋が見えてきたりした時に、消えていくものだからである。ウィトゲンシュタインが、「問題の解法が見つからなくても、その問題がどうでもよくなった時、苦悩は消える。」と言っているのは、その謂いである。彼も、「誰でも失敗はあるのだ。」などと自己暗示をかけたり、酒を飲んだり、カラオケに行ったりなどしたはずである。しかし、課長の職務というプレッシャーの苦悩から逃れることはできなかった。そこで、彼の深層心理は、自らの精神を適応障害に陥らせることによって、課長の業務から離れさせようとした(忘れさせようとした)のである。確かに、疲労、倦怠、憂鬱感を覚えさせることによって、課長の業務から離れさせよう(忘れさせよう)とすることには効果はあったかもしれないが、それが、仕事への集中力を欠かせ、些細なミスを生じさせた。ちなみに、彼は、会社以外でも、疲労、倦怠、憂鬱感の苦痛を覚えていたはずである。適応障害に限らず、精神疾患は、発症した構造体(この場合は、会社)だけでなく、他の構造体(この場合は、会社以外の場所、家庭、通勤電車、店など)にも、それが維持されるものだからである。その後、彼は、部長に相談して、課長から一般社員に一旦降格させてもらったところ、まもなく、適応障害の症状が消えていったとある。それは、自己否定の状態から解放され、自己正当化ができるようになったからである。課長の職務という自己否定の状態から解放されたので、適応障害が必要なくなり、そのために、適応障害の症状が消えたのである。この場合、苦悩とは、課長として、部下や上司に認められる仕事ができるかどうかの不安感から来ている。その不安感がもたらす苦悩からどうしても逃れることできなかったので、深層心理が、自らの精神に、適応障害(疲労、倦怠、憂鬱感を覚えるという症状)という精神疾患(の状態)をもたらしたのである。確かに、適応障害に陥ることによって、先の苦悩は薄まっていく。しかし、その苦悩は課長としての仕事に対するものであるから、苦悩が薄まるということは課長という仕事に対する集中力も薄まっていくということに直接的に繋がる。それが、業務に差し障りを生じさせることになる。それが些細なミスの発現である。そして、仕事が原因で適応障害に陥ったのだが、適応障害の状態は社内だけにとどまらず、社外においても維持される。それが、精神疾患の特徴である。つまり、帰宅しても、コンビニに入っても、電車の中でも、歩いていても、疲労、倦怠、憂鬱感の苦痛を覚えるのである。さて、確かに、彼は、課長から降格されることによって、課長というプレッシャーから解放され、適応障害の症状が消滅し、良い結果になった。しかし、これは、非常に稀なケースである。一般に、このような単純な方法では、精神疾患は寛解しない。確かに、誰しも、課長に昇格したことが精神疾患を呼び寄せたのであるから、課長から降格させ、一般社員に戻せば、精神疾患から解放されるだろうと判断しがちである。もしも、表層心理が適応障害をもたらしたのであるならば、課長から降格させれば精神疾患から解放されるだろう。しかし、適応障害をもたらしたのは、深層心理である。彼の深層心理は、彼に対して、課長というプレッシャーから解放させるために、適応障害にして、課長になったという現実を見せないようにしたのである。適応障害の症状である疲労、倦怠、憂鬱感の苦痛をして、課長になったという現実を正視させないようにしたのである。言わば、深層心理は、適応障害にして、現実逃避をするように仕向けたのである。ちなみに、精神疾患には様々なものであるが、現実逃避することによって、当面している問題の苦悩から精神を解放させるという目的においては一致している。現実逃避の仕方が様々あり、それが精神疾患の様々な形なのである。適応障害以外に、解離性障害、離人症、うつ病、統合失調症などの精神疾患がある。解離性障害は、一般に、自己の同一性、記憶・感覚などの正常な統合が失われる心因性の障害、心的外傷(トラウマ)に対する一種の防衛機制と説明されている。まさに、深層心理が、自らの精神を、自己の同一性、記憶・感覚などの正常な統合を失った状態にさせ、心的外傷(トラウマ)という当面している問題の苦悩から解放させようとしているのである。離人症は、一般に、自己・他人・外部世界の具体的な存在感・生命感が失われ、対象は完全に知覚しながらも、それらと自己との有機的なつながりを実感しえない精神状態。人格感喪失。有情感喪失と説明されている。これも、また、深層心理が、自らの精神から、自己・他人・外部世界の具体的な存在感・生命感が失わせ、それらと自己との有機的なつながりを実感しえない状態にして、当面している問題の苦悩から解放させようとしているのである。うつ病は、一般に、鬱状態を主とする精神状態、気分が沈んで何ごとにも意欲を失い、思考力・判断力が抑圧される。抑鬱賞と説明されている。これも、また、深層心理が、自らの精神を、気分を沈ませ、何ごとにも意欲を失わせ、思考力・判断力が抑圧された状態にして、当面している問題の苦悩から解放させようとしているのである。統合失調症は、一般に、妄想や幻覚などの症状を呈し、人格の自律性が障害され周囲との自然な交流ができなくなる内因性精神病と説明されている。これも、また、深層心理が、自らの精神を、妄想や幻覚などを浮かばせ、人格の自律性を失わせ、周囲との自然な交流ができなくなる状態にして、当面している問題の苦悩から解放させようとしているのである。さて、人間誰しも、精神疾患に陥ると、すぐに寛解するようなことはなく、日常生活全ての場面において、その状態が続く。なぜならば、精神疾患をもたらしたのは、深層心理だからである。だから、この会社員も、社内の出来事が原因で適応障害になったのだが、社外でも、適応障害の状態にある。また、この会社員は、適応障害であるから、社内の出来事ばかりでなく社外の出来事に対しても、つまり、全ての出来事に対して正視できない状態にある。それ故に、この会社員が、降格になっても、すぐに、それを認識し、受け入れて、適応障害が治癒したとは考えられない。もしも、降格後、すぐに寛解したのならば、この会社員は、適応障害でなかったか、非常に軽い適応障害であったと考えられる。しかし、適応障害になったからと言って、全く現実が見えないわけではないから、周囲の人がプレッシャーを掛けず、温かく見守れば、この会社員は、降格という現実を徐々に理解し、徐々に適応障害が寛解していくということは十分に考えられる。しかし、ここで考えなくていけないことは、降格が裏目になる可能性があることである。この会社員が適応障害になったのは、自分が課長としての仕事を上手くこなせるかどうかの不安からである。つまり、上司や同僚や後輩などの他者の視線・評価が原因なのである。ちなみに、適応障害だけでなく、全ての精神疾患は、他者の視線・評価が原因である。そして、誰しも、常に、他者の視線・評価を気にして生きている。この人間のあり方が、他者に認められたい・他者に好かれたいという深層心理の第二の欲望から来ているのである。だから、誰しも、精神疾患に陥る可能性があるのである。この会社員は、降格ということになれば、上司や同僚や後輩などの他者から低く評価されることになり、上司や同僚や後輩などの他者の視線がいっそう気になり、適応障害がいっそう深化する可能性がある。つまり、降格は、適応障害の寛解に繋がる可能性もあるのだが、適応障害の深化に繋がる可能性もあるのである。降格されて、一般社員となり、プレッシャーを感じず、気楽に仕事ができるようになれば、適応障害の寛解に繋がる。しかし、降格されて、いっそう劣等感が覚え、いっそう周囲の視線・評価が気になるようになれば、適応障害がいっそう深化する。どちらになるか、わからない。それ故に、このような危険な賭けをせず、課長という地位に残して、仕事を軽減するのが一般的である。だから、この会社員には、降格が成功したからと言って、簡単に、他の人にもそれを推し進めるべきではない。裏目になる可能性が大きいからである。その人と面談したり、家族や会社の人などの周囲の人の話を聞いたりなどして、その人の性格の動向・傾向を見極めて、対策を練らなければならないのである。次に、人間が精神疾患になる過程を、日常生活の場面から捉え、説明して行きたい。そこには、三つの要素が存在である。その三つの要素とは、自我の認知の失敗、過敏な反応、自己正当化の失敗である。日常生活において、人間は、いついかなる時でも、自我を認めてもらいたいという思いが存在する。そして、自我が他者からどのように思われているか気にしながら生きているのである。人間は、自我を離れて生きることはできない。自我を持たない人間は人間ではない。一動物にしかすぎない。人間は、自我を持ってこそ、人間社会で認められ、人間社会で暮らしていけるのである。人間は、誰しも、常に、他者から、自我を認めてもらいたいと思って、行動しているのである。自我は、身分、社会的地位、社会的な階級、職業的地位、社会的な位置を意味している。人間は、同一の構造体では同一の自我しか持てず、別の構造体に移動すれば、別の自我を持つことになる。つまり、同一人物でも、構造体ごとに、異なった自我が与えられるのである。例えば、ある男性は、家庭という構造体では父、電車という構造体に乗れば乗客、会社という構造体に行けば部長、コンビニエンスストアという構造体に入れば客という自我を持つのである。ある女性は、家庭という構造体では長女、道路という構造体に歩けば通行人、高校という構造体に行けば高校生、カップルという構造体では恋人という自我を持つのである。どの構造体でも、人間は、誰しも、常に、他者から、自我を認めてもらいたいと思って、行動しているのである。人間は、常に、自我に最大の価値観を置いて行動しているのである。人間は、常に、他者から褒められ、他者から認知されて生きていれば、満ち足りた気持ちで時を過ごすことができるのである。だから、親は我が子を、教師は生徒を褒めて延ばすことが大切なのである。ところが、他者から無視されたり、他者から低く評価されたり、他者から貶されたりする時がある。それが、自我の認知の失敗の時である。そんな時、誰しも、心が傷つく。自信を喪失し、自己嫌悪に陥り、これまでの自我が否定されただけでなくこれからの自我も無いような気がする。しかし、一般に、周囲の人の励まし、飲酒、カラオケ、音楽鑑賞、ケーキを食べることなどによって、次第に、心が癒されていき、自己正当化が為され、立ち直っていく。ところが、深層心理が過敏に反応したために、色々な手段を講じても、時間が経過しても、傷心の状態が続き、自己正当化が為されない人がいる。つまり、自己正当化の失敗である。その自己正当化に失敗したことの保障が、深層心理がもたらした精神疾患である。深層心理は、自らの精神を、当面している問題の苦悩から解放させるために、精神疾患という状態に自らを持って行くのである。だから、人間は、表層心理で、意識して、他者に対する言葉や態度や行動を行きすぎないように心掛け、逆に、他者からの言葉や態度や行動に対して一喜一憂しないように心掛け、現在の状況を冷静に見るようにしなければならないのである。確かに、表層心理で、現在の状況を冷静に見るために、他者に対する言葉や態度や行動を行きすぎないように心掛け、他者からの言葉や態度や行動に対して一喜一憂しないように心掛ける姿勢は、一朝一夕では、身に付かないが、それを継続すれば、深層心理の思考に影響を与え、最終的には、深層心理の思考に定着するのである。



怒りとは、人間が自我に取り憑かれた状態にあることである。(自我その463)

2021-02-04 17:46:39 | 思想
人間は、誰しも、自ら意識して思考し、自らの意志で行動していると思っている。人間の意識しての思考を表層心理と言う。人間の表層心理での思考の結果が意志である。すなわち、人間は、誰しも、表層心理で、自ら意識して思考し、自らの意志で行動していると思っている。しかし、人間は、表層心理で、自ら意識して思考する前に、無意識のうちに思考しているのである。人間の無意識のうちの思考を深層心理と言う。深層心理は、一般に、無意識と言われている。すなわち、深層心理が、人間の無意識のうちの思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、この自我の欲望に動かされて行動しているのである。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、構造体に所属して、自我を持って行動しているのである。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。だから、人間には、自分そのものは存在しないのである。自分とは、自らを他者や他人と区別して指している自我のあり方に過ぎないのである。他者とは、同じ構造体の中での自我以外の人々である。人間は、他者を、同じ構造体の中での、他者の自我としてみている。他人とは、構造体外の人々である。人間は、他人を、その人が所属している構造体の中での自我としてみている。自らが、自らの自我のあり方にこだわり、他者や他人と自らを区別しているあり方が自分なのである。だから、人間には、おのおのの構造体における自我としての行動は存在するが、自分そのものの行動は存在しないのである。また、人間は、自己としても存在することもない。自己として存在するとは、自由に行動でき、主体的に思考しているということである。しかし、人間は、自我として存在し、自我は、構造体という他者の集団・組織から与えられるから、人間は、自由になれず、主体的に自らの行動を思考することはできないのである。他者の思惑を気にしないで思考し、行動すれば、その構造体から追放される虞があるからである。さて、深層心理が、人間の無意識のうちの思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、この自我の欲望に動かされて行動しているのであるから、人間が行動する時には、必ず、感情が後押ししているのである。人間にとって、感情の伴わない行動は存在しないのである。また、感情も、単独では、存在しないのである。常に、行動の指令という行動への衝迫を伴っているのである。また、深層心理が、人間の無意識のうちの思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのであるから、人間は、表層心理で、自ら意識して思考して、自らの意志で、感情を生み出すことも、変更することも、消滅させることができないのである。つまり、人間は、自らの意志では、感情をコントロールできないのである。さて、感情は、心境と同じく、情態性に含まれ、心の状態を表している。深層心理は、常に、ある心境やある感情の下にある。もちろん、深層心理の心境や感情は、人間の心境であり感情である。深層心理は、心が空白の状態で思考して、自我の欲望を生み出しているわけではなく、心境や感情に動かされているのである。心境は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する心の状態である。感情は、喜怒哀楽悪などの、突発的に生まれる心の状態である。人間は、心境や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間は、得意の心境や感情の状態の時には、深層心理は、現在の状態を維持させようと思考させて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。人間が、不得意の心境や感情の状態の時には、深層心理は、現在の状態から脱却させようと思考させて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。つまり、深層心理は、自らの現在の心境や感情を基点にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。だから、オーストリア生まれの哲学者のウィトゲンシュタインは、「苦しんでいる人間は、苦しいという心境や感情が消滅すれば、苦しみの原因が何であるかわからなくても構わないのである。苦しいという心境や感情が消滅すれば、問題が解決されようがされまいが構わないのである。」と言うのである。人間にとって、現在の心境や感情が絶対的なものであり、特に、苦しんでいる人間は、苦しいという心境や感情から逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。なぜならば、深層心理にとって、苦しみの心境や感情から抜け出すことが最大の目標であるからである。つまり、深層心理にとって、何よりも、自らの心境や感情という情態性が大切なのである。それは、常に、心境や感情という情態性が深層心理を覆っているからである。深層心理が、常に、心境や感情という情態性が覆われているからこそ、人間は自分を意識する時は、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時、他者の視線にあったり他者の視線を感じた時などに、何かをしている自分や何かの状態にある自分を意識するのである。そして、同時に、自分の心を覆っている心境や感情にも気付くのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心を覆っているのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。つまり、人間は、論理的に、自分やいろいろな物やことの存在が証明できるから、自分や物やことが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、存在を前提にして活動しているのである。特に、人間は、心境や感情によって、直接、自分の存在を感じ取っているのである。それは、無意識の確信である。つまり、深層心理の確信である。だから、深層心理は自我の欲望を生み出すことができるのである。人間が、表層心理で、自分や物やことの存在を疑う以前に、深層心理は既にこれらの存在を確信して、思考しているのである。そして、心境は、深層心理が自らの心境に飽きた時に、変化する。だから、誰しも、意識して、心境を変えることはできないのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時にも、心境は、変化する。感情は、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだす時、行動の指令とともに生み出される。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。人間は、表層心理で、意識して、嫌な心境や感情を変えることができないから、気分転換をして、心境や感情を変えようとするのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境や感情の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができず、何かをすることによって、心境や感情を変えるのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境や感情の転換を行う時には、直接に、心境や感情に働き掛けることができず、何かをすることによって、心境や感情を変えるのである。人間は、表層心理で、意識して、思考して、心境や感情を変えるための行動を考え出し、それを実行することによって、心境や感情を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境や感情を変えようとするのである。さて、人間の最も強い感情は怒りである。怒りの感情は、突然、意味も無く、理由もなく、心に湧き上がってくることは無い。それは、決まって、傷心から始まるのである。怒りは、復讐の感情である。怒りは、自分の心を傷つけた相手に対する復讐の感情である。怒りは、自分の心を傷つけた相手の立場を下位に落とし、相手の心を傷つけることによって、自らの立場を上位に立たせようとすることである。だから、人間は、怒ると、徹底的に自分の心を傷つけた相手の弱点を突こうとするのである。そこには、見境は無い。自分の心を傷つけた相手の心を深く傷つけられるのならば、何でも構わないのである。自分の心を傷つけた相手の心が最も早く最も深く傷付く方法を考え出し、そこを徹底的に攻めようとするのである。相手の心が最も傷付く言葉で侮辱したり、腕力の劣った相手ならば暴力に訴えようとするのである。怒りはその時の傷心から逃れるためのものであるから、相手が気にしていることを突いて侮辱するのである。女性に対して、「ブス」、「デブ」などと侮辱し、男性に対して、「能なし」、「ちび」などと侮辱するのである。もちろん、後に、人間は、怒りによって自ら発した言葉や暴力によって、相手に深くうらまれたり、周囲から顰蹙を買うことによって、自らの立場を危うくすることが多い。しかし、その時は、怒りに駆られて、そのことまで思いを馳せる余裕が無いのである。なぜならば、そのような言葉を発することによって、相手を一言で討ち倒そうとすることだけを考えているからである。また、怒りはその時の傷心から逃れるためのものであるから、相手が腕力が無かったり手が出せない立場ならば平手打ちを食わせたり蹴ったりするのである。暴力で、一撃で相手を打ち倒そうとするのである。それでは、人間は、どのようなことで、心が傷付くのか。それは、注意されたり、侮辱されたり、殴られたり、陰口を叩かれたりすることなどである。それでは、なぜ、人間は、そのようなことで、心が傷付くのか。それは、自分の立場が下位に落とされたからである。つまり、プライドが傷付けられたからである。換言すれば、人間は、他者に認められようと生きているのである。それが、認められるどころか、貶され、プライドがずたずたにされたから、心が傷付き、その傷心から立ち上がろうとして、怒るのである。怒りは、心が傷付いたから、その代償を相手に求め、相手の心をずたずたにして、自分の心を癒やそうとするのである。言わば、相手によって自分の立場が下位に落とされたから、自分が相手の立場を下位に落とし、自らの立場を上位に立たせようとするのである。人間は、常に、深層心理で、自我が他者から認められるように生きているから、自分の心を傷つけた相手に対して、怒り、復讐を考えるのである。人間は、常に、自我が他者から認められるように生きているから、自分の立場を下位に落とした相手に対して、怒り、復讐し、相手の立場を下位に落とし、自らの立場を上位に立たせようと考えるのである。人間が、社会的な動物であるということは、常に、構造体の中で、自我が他者から認められるように生きているということである。人間は、一人でいても、常に、構造体に所属しているから、常に、他者との関わりがある。自我は、他者との関わりの中で、役目を担わされ、行動するのである。だから、人間は、常に、他者の自我に対する扱い、他者の自我にたいする視線が気になるのである。そのため、他者の自我に対する扱いや視線によって、喜んだり、悲しんだり、心が傷付いたり、怒ったりなど、一喜一憂しているのである。しかし、人間は、自ら意識して思考して、喜び、悲しみ、傷心、怒りなどの感情も復讐などという行動も考え出していない。人間は、無意識のうちに、心の奥底で、深層心理が、思考して、喜び、悲しみ、傷心、怒りなどの感情と復讐などという行動の指令という自我の欲望生み出すのである。つまり、人間は、傷心すると、往々にして、深層心理が思考して、怒りの感情と復讐の行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。人間の行動は、深層心理の思考から始まるのである。人間は、日々の生活において、いついかなる時でも、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って行動している。その自我、すなわち、自分を動かすものは、深層心理である。人間は、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、快感原則によって、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それによって行動するのである。快感原則とは、スイスで活躍したフロイトの用語であり、快楽を求める欲望である。ひたすら、その時その場での、瞬間的な快楽を求め不快を避けたいという深層心理の欲望である。そこには、道徳観や法律厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその時その場での瞬間的な快楽を求め、不快を避けることを目的・目標にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。もちろん、傷心も不快感に属している。深層心理は、自我が下位に落とされた傷心という不快感の一種から脱却するために、怒りの感情と復讐の行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を復讐に走らせることによって、自我を下位に落とした相手を下位に落とし、自我が上位に立つことによって、満足感という快楽を得ようとするのである。さて、深層心理は、常に、四つの欲望を持ち、それに応じた作用を行っている。第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。自我の保身化という作用をする。これが、人間の基本的な欲望である。なぜならば、人間が人間たる所以は、人間は、常に、構造体に所属して、自我を持って行動しているということだからである。第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。自我の対他化の作用をする。人間は、日々、この欲望を最も強く持って生きている。だから、この欲望が裏切られた時、深層心理は、自我の心を傷つけた相手に対して、怒りの感情と復讐の行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象を支配したいという欲望である。対象の対自化の作用をする。第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。自我と他者の共感化という作用をする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、この四つの欲望に基づいて、快楽を求め不快を避けようとして、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動きだすのである。さて、ほとんどの人の日常生活は、毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動によって成り立っているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、深層心理が、第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望、すなわち、自我の保身化の作用によって、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、表層心理で思考すること無く、自我の欲望のままに行動しているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、表層心理で意識して考えることがなく、無意識の行動だから可能なのである。それは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないことを意味しているのである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。しかし、詳細に見れば、人間の生活は、誰一人として、確かに、毎日が、平穏ではない。何かしら、些細な問題が起こる。たとえば、会社という構造体で、上司から叱責を受けると、深層心理は、傷心から怒りの感情と反論しろという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を唆す。しかし、超自我がルーティーンを守るために自我の欲望を抑圧する。超自我とは、深層心理の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望から発した、自我の保身化の作用そのものである。超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、意識して、思考して、将来のことを考え、自我の欲望を抑圧するのである。そして、深層心理の超自我の作用と同じように、ルーティーンの生活を続けさせようとするのである。フロイトは、自我の欲望の暴走を抑圧するために、深層心理に、道徳観に基づき社会規約を守ろうという超自我の欲望、所謂、良心がが存在すると言う。しかし、深層心理は瞬間的に思考するのだから、良心がそこで働いていると考えられない。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。裁判官が安倍前首相に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして安倍前首相に迎合したのは、身分保証という自我の確保・存続のためばかりでなく、立身出世という自我の発展のためである。学校でいじめ自殺事件があると、校長は校長という自我を守るために事件を隠蔽し、いじめっ子の親は親という自我を守るために自殺の原因をいじめられっ子とその家庭に求めるのである。自殺した子は、仲間という構造体から追放されたくなく、友人という自我を失いたくないから、自殺寸前までいじめの事実を隠し続けるのである。次に、深層心理の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望、すなわち、自我の対他化の作用であるが、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。人間は、他者に会ったり、他者が近くに存在したりすると、自我の対他化の視点で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。深層心理が、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとするのである。ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)と言う。この言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。その典型が、怒りという感情と復讐という行動の指令という自我の欲望である。人間は、常に、深層心理は、自我が他者から認められるように生きているから、自分の立場を下位に落とした相手に対して、怒りの感情と復讐の行動の指令という自我の欲望を生み出し、相手の立場を下位に落とし、自らの立場を上位に立たせるように、自我を唆すのである。しかし、深層心理の超自我のルーティーンを守ろうという思考と表層心理での現実原則の思考が、復讐を抑圧するのである。しかし、怒りの感情が強過ぎると、深層心理の超自我と表層心理での思考が功を奏さず、復讐に走ってしまうのである。そうして、自我に悲劇、相手に惨劇をもたらすのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫(妻)や恋人という自我を失うのが辛いので、深層心理がこの辛い気持ちにさせた相手に怒りの感情と相手に付きまとえという嫌がらせという復讐の行動の指令という自我の欲望を生み出したからである。もちろん、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した自我を失うことの辛い感情が強いので、超自我や表層心理での思考でストーカー行為を抑圧しようとしてもできずに、深層心理が生み出したストーカー行為をしろという行動の指令には逆らえないのである。そして、相手に無視されたり邪険に扱われたりすると、相手に暴力を振るい、相手を困らせ、相手の自我を下位に落として、一挙に辛さから逃れようとするのである。さらに、ストーカー行為は、深層心理の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望が破れたことが原因であるとも言えるのである。人間は、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うためであり、超自我や表層心理の思考で、ストーカー行為を抑圧しようとしても、屈辱感が強く、怒りの感情は強過ぎたからである。カップルという構造体が破壊され、恋人という自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さがあるのである。さて、人間は、深層心理が思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した後、それを受けて、すぐに行動する場合、超自我で抑圧する場合、表層心理で考えてから行動する場合があるが、表層心理で考えてから行動する場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動することになる。これがが、理性の思考による行動、すなわち、意志の行動である。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、実際に、深層心理が出した行動の指令のままに行動しない場合、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならない。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。心に安らぎは訪れない状態が苦悩である。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。犯罪の多くはこの時に起こるのである。だから、人間の思考の主体は、意識しての思考、すなわち、表層心理での思考では無く、無意識の思考、すなわち深層心理の思考なのである。さて、人間は、誰しも、心が深く傷付き、怒りの感情が高まると、切れ、いきなり、激しく相手に毒づいたり、相手に殴り掛かったりすることがある。切れやすい人は、繰り返し、そのような乱暴を働く。多くの人は、乱暴を働く人は心が強い人だと誤解している。そうではなく、乱暴な人は、すなわち、切れやすい人は、心が弱く、深層心理が敏感なために、自我が傷付きやすく、傷付いた自我の心を早く回復させるために、深層心理が乱暴を働くように行動の指令を出し、本人が、それに従ったのである。しかし、切れやすい性格は、先天的なものであり、本人の意志ではどうすることもできないのである。一生変わることはないのである。なぜならば、性格は深層心理の思考の傾向であり、人間は表層心理の意志ではどうすることもできないからである。だから、人間は、自らの意志で性格を変えることができないのである。もしも、性格が変わったように見える人がいたならば、その人は、生活環境が変わったために深層心理が敏感に反応することが少なくなったからか。感情が高まっても切れる前に行動をして切れる行動をすることを回避する方法を編み出したか、人間の精神活動の仕組みを知り深層心理の生み出す行動の指令のままに行動しなくなったからである。深層心理が敏感であることは、意志によって変えることができないから、人間関係や生活環境が変えて、深層心理が敏感に反応することが少なくするか、深層心理が敏感に反応して感情が高まっても、切れる前に回避する行動を前もって考えておくか、人間の精神活動の仕組みを知り、深層心理の生み出す行動の指令を冷静に対応するように自らを仕向けるしか無いのである。芥川龍之介は「この世は地獄より地獄的である」と言った。サルトルは「地獄とは他者のことである」と言った。なぜ、人間は、生きている間に地獄の苦しみを味わわなければいけないのか。それは、人間は、他者の評価を得なければ、喜びを得られないからである。人間は、他者の評価の虜なのである。人間は、生きている限り、それが続くのである。吉本隆明は「人間の不幸は、わがままに生まれてきながら、他者に妥協し協調しなければ生きていけないことにある。」と言った。わがままとは、自我の欲望のままに行動することである、しかし、自我の欲望を通せば、たいていの場合、周囲の者から顰蹙を買い、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことになる。そこで、人間は、自我の欲望を抑圧し、他者に妥協・協調することになる。確かに、そのようにすれば、周囲になじみ、悪評価・低評価を受けることは無い。しかし、心から楽しめないのである。人間は、心から楽しむことがほとんど無いままにないままに、一生を終えることになるのである。それほど、他者の自我に対する評価が、人の気持ちを左右するのである。特に、深層心理の敏感な人は、他者の自我に対する評価によって、心が大きく揺れるのである。他者から好評価・高評価を受けると、ある人はは有頂天になり、ある人は歓声を上げ、ある人は威張り出す。他者から悪評価・低評価を受けると、ある人は気持ちが大きく沈み込み、ある人は相手に対して激しい憎悪の感情を抱き、ある人は恥ずかしくて居たたまれない感情になり、ある人は自殺を考えるほど気持ちが重くなるのである。しかし、自分の深層心理が敏感であることが嫌いであったとしても、自分の意志では、どうすることもできない。人間は、先天的に、深層心理の感度、つまり、敏感、鈍感が決まっているからである。そして、それが性格に繋がっているのである。だから、人間は、先天的に、性格も決まっているのである。さらに、自分の意志で自分の深層心理を変えることはできないから、性格は、一生、変わらないのである。さて、深層心理の敏感な人には、怒りっぽい、心が傷付きやすい、いつまでもくよくよしている、いつまでも根に持っている、復讐心が強い、嫉妬深い、よく笑いよく泣くなど、感情の起伏の激しさが外面に現れる特徴がある。なぜならば、深層心理の敏感な人は、他者からの評価に、心が大きく動くから、必然的に、自我の欲望も強くなる。その強い欲望のために、表層心理で抑圧できたとしても、深層心理は、いつまでもくよくよしていたり、いつまでも根に持っていたり、復讐する機会を狙っていたり、強く嫉妬するなどの思いが長く持続したりするのである。傷害事件を起こしやすいのもストーカーになりやすいのも深層心理の敏感な人の特徴である。それも、また、深層心理が生み出した自我の欲望が強いからである。しかし、芸術家に、深層心理の敏感な人が多い。それは、深層心理の敏感な人は、心が激しく動揺し、心のバランスを失い、そのバランスを取り戻そうとして、芸術に表現しようとするのである。つまり、芸術に、心の傷を表現することで、昇華するのである。しかし、傷害事件を起こす人の多くもは、深層心理の敏感な人である。激しく心が傷付けられ、心のバランスが失われたので、バランスを取り戻そうとして、自分の心を傷付けた人の心を傷付けようとして、相手に暴力を振るったのである。ストーカーになる人は、失恋によって激しく心が傷付けられ、心のバランスが失われたので、バランスを取り戻そうとして、相手につきまとって、相手に新しい恋人を作らせないようにして、失恋の事実を認めないようにしたり、自分の心を傷付けた相手の心を傷付けて、失われた心のバランスを取り戻そうとして、相手に嫌がらせをしたり、相手に暴力を振るったり、殺したりするのである。精神疾患に陥りやすいのも、深層心理の敏感な人の特徴である。それは、他者から悪評価・低評価を受け続け、それに伴い、心も激しく動揺し続け、バランスを失い続け、深層心理がそれに堪えられなくなり、自らを、精神疾患にすることによって、現実から逃れようとするのである。確かに、精神疾患に陥れば、他者からの悪評価・低評価から逃れることはできるが、日常生活全体に大きな支障が出るのである。さて、このように、人の深層心理の感度、人の性格は、生まれつきのもので、一生、変わることはない。自分の性格を知ることによって、自分の深層心理の感度を知ることが大切である。深層心理の敏感な人は、心が傷付けられ、心のバランスを失いそうな場所には近寄らないことが大切である。また、深層心理の敏感な人は、他者から悪評価・低評価を受け続けている環境にいるならば、即刻、環境を換えることである。確かに、人間は、ある程度は、逆境に堪えることができるが、深層心理の敏感な人の感情の揺れは、揺さぶり続けられたならば、精神疾患に陥らなければ堪えられないほど、高まるからである。日本全体で、これまで、「克己」、「根性」、「大和魂」、「逃げるのは卑怯者のすることである」、「逃げるのは恥ずべき行為だ」などの言葉で、我慢して、そばに居続け、今までと同じことを繰り返すことを強要してきた。それは、政治権力者、資本家、教師などの上に立つ者が、大衆、労働者、生徒を、自らの意図の下に支配したいという、他者を対自化しようという意図の下で行ってきたのである。しかし、それが隠蔽され、それらが美徳として誤って解釈されてきたからである。「君子危うきに近寄らず」であり、環境を換えること、逃げることは、決して、卑怯者のすることでも恥ずべき行為でもない。最も良いのは、深層心理の仕組みを知り、他者の評価に囚われないようにすることである。「たかが他者の評価ではないか」、「自我も他者と同じように人生というゲームをしているのだ」と考えるべきなのである。


人間は、誰しも、嫉妬心を抱くことがあり、自らの嫉妬心に向き合わなければならない。(自我その462)

2021-02-02 14:07:45 | 思想
人間は、自我の動物である。すなわち、人間は、自我に執着し、自我を主体にして生きている動物である。だから、他者が成功を収め、賞賛されているのを見ると、うらやましく思い、嫉妬心を抱くのである。自らもその成功を収めて賞賛を受けても良いはずなのに、なぜ他者がその成功を収めたのか、悔しく思い、その他者を毛嫌いし、排除しようとするのである。だから、嫉妬の対象者は、自らと同じ立場の他者であり、自らと同じような実力のものである。人間は、誰しも、自分の力の及ばない他者に対しては、嫉妬心は抱かないものである。しかし、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、自我に執着して、嫉妬心を抱くのではない。人間は、無意識のうちに(思考して)、自我に執着し、嫉妬心を抱くことがあるのである。人間の無意識のうちでの思考を深層心理と言う。つまり、深層心理が思考して、嫉妬心を生み出し、人間に持たせるのである。さて、人間は自我の動物であるが、その自我とは何か。自我とは、人間が、構造体に所属し、あるポジションを得て、その務めを果たすように生きていく、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体と自我の関係は、次のようになる。家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、夫婦という構造体には夫・妻という自我があり、学校という構造体には校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には運転手・車掌・客などの自我があり、日本という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我がある。人間は、いついかなる時でも、ある構造体の中にいて、ある自我を持して生きている。人間は、常に、構造体の中にいて、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快感原則を満たすように、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を動かそうとしている。快感原則とは、心理学者のフロイトの用語で、快楽を求める欲望である。それは、ひたすら、その場での、瞬間的な快楽を求める欲望である。そこには、道徳観や法律厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求めることを目的・目標にしているのである。ラカンは「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。無意識とは、言うまでもなく、深層心理の思考を意味する。ラカンは、深層心理は言語を使って論理的に思考して、人間を動かしていると言っているのである。つまり、深層心理が、人間の無意識のままに、自我を主体にして、欲動に基づいて、快感原則を満たすように、言語を使って、論理的に思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を動かそうとするのである。それでは、欲動とは、何か。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望の集合体である。欲動が、深層心理を動かしているのである。深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかをかなえば、快楽を得ることができるのである。だから、深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかに基づいて、快楽を得ようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとしているのである。欲動に、道徳観や社会規約が存在しないから、深層心理の思考にも、道徳観や社会規約は存在しないのである。深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを目的・目標にして、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。簡潔に言えば、安心欲である。深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。高校生・会社員という自我を持している者が嫌々ながらも学校・会社という構造体に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。それは、一つの自我を失えば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。簡潔に言えば、承認欲である。深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。若い女性がアイドルになろうとするのは、大衆から賞賛を浴びたいからである。受験生が有名大学を目指すのは、身近な人や世間から賞賛を浴びたいからである。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。簡潔に言えば、支配欲である。深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。教諭が校長になろうとするのは、学校という構造体の中で、生徒・教諭・教頭という他者を校長という自我で対自化し、支配し、充実感を得たい欲望があるからである。大工は、材木という物を対自化し、加工し、家を建てるのである。哲学者は人間と自然を対象として、哲学思想で捉え、支配しようとし、心理学者は人間を対象として、心理思想て捉え、支配し、科学者は自然を対象として、科学思想で捉え、支配しようとするのである。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。簡潔に言えば、愛欲である。深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。つまり、自我の他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、共感化の機能である。だから、若い人は、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を持って、自我の存在を確かなものにするのである。為政者が、敵国を作って、国民と「呉越同舟」の関係を作って、自分に対する批判をかわそうとするのである。さて、人間は、誰しも、嫉妬することがある。なぜ、そうなのか。それは、深層心理は、常に、欲動の第二の欲望に基づいて思考しているからである。すなわち、深層心理は、常に、自我が他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する他者の思いを探っているからである。深層心理は、常に、好かれたい、愛されたい、評価されたい、認められたいという思いで、自我に対する他者の思いを探っているのである。自我が、他者から、好かれたり、愛されたり、評価されたり、認められたりすれば、欲動の第二の欲望にかない、喜びや満足感が得られるからである。人間のこのあり方について、フランスの心理学者のラカンは、「人は他者の欲望を欲望する」という言葉で表現している。「人は他者の欲望を欲望する」という言葉の意味は、「人間は、常に、他者の思いや評価を気にしている。人間は、いつの間にか、他者のまねをしている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。」である。しかし、人間は、自我ではなく、他者が好評価・高低評価を受けることもよくあるのである。その時、人間は、心が傷付き、その他者に対して、嫉妬するのである。だから、人間は、老若男女にかかわらず、誰しも、嫉妬心を抱く時があるのである。嫉妬心は、深層心理が生み出しているから、止めようが無い。深層心理とは、人間の無意識の思考であるから、止めようが無いのである。人間は、自我が認められたいという欲動の第二の欲望に満たされた他者を見た時、深層心理が嫉妬心を生み出すことがあるのである。嫉妬心は、自我が認められたいという欲望が満たされた他者がいて、自らはその欲望が満たされる可能性があったのに、その他者のせいで満たすことができなかったという敗北の悔しさ、そして、その他者がそこにいる限り自らはその自我の欲望を満たすことができないという恨みの心である。つまり、他者は自我が認められたいという欲望を満足させているが、自らはまだ自我が認められたいという欲望を満足させていないばかりか、自我が認められたいという欲望を満足させた他者が存在することによって自らは自我が認められたいという欲望を満足させることができないのではないかと思われた時、深層心理が嫉妬心を生み出すのである。持統天皇が、大津皇子を謀反の罪で処刑したのは、その文武に秀でた実力を嫉妬したからである。実子の草壁皇子に皇位継承をしたいがためである。持統天皇は、『日本書紀』では、沈着で度量が大きく礼にかない、仏教に対して熱心で、歌もよくしたと記されていると描かれているが、実子の草壁皇子に皇位継承をさせ、天皇の母として自我が認められたいという欲望が、大津の皇子に嫉妬し、冤罪で死に追いやったのである。だから、無名大学出身者は自我が認められたいという欲望がかなっているように思われる有名大学出身者に対する嫉妬心で苦しむのである。少女アイドルグループは、仲良さそうに装っているが、自我が認められたいという欲望から来る互いの嫉妬心から心から仲良く交際できないでいるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体を作り、友人という自我で、構造体に所属していない同級生をいじめるのは、連帯感の喜びを感じているとと共に一人で生きている者への嫉妬心からである。カップルや夫婦という構造体にある者が、相手から別れを告げられてストーカーになるのは、自分の代わりの恋人や妻もしくは夫に対する嫉妬心からである。このように、嫉妬心は醜くて恐ろしいものである。嫉妬心に取り憑かれた人間は、殺人すらも犯してしまうことがあるのである。しかし、人間、誰しも、嫉妬心を抱く時がある。人間は、自らのそれに堪えきれないから、嫉妬心をライバル心に読み替えたのである。自分が嫉妬を覚える人間を良きライバルというように好敵手に仕立て上げたのである。ライバル心という実際には存在していない心が存在していてほしいという深層心理の欲望がが、深層心理をして、存在しているようにに思い込ませるのである。これが、深層心理による、無の有化作用である。つまり、人間は、深層心理が有する存在していいてほしいという欲望によって、無意識に、実際には存在していないライバル心を存在しているように思い込んでしまったのである。しかし、深層心理は、恣意的に、実際には存在していないものを存在しているように思い込むのではない。無の有化作用には、志向性が存在するのである。その志向性とは、あるものの存在が、深層心理にとって絶対必要不可欠であり、それが存在すれば、深層心理に、すなわち、人間に、安らぎを与えるということである。無の有化作用による存在の典型として、神の存在がある。人類が神を創造したのは、深層心理が、神が存在しなければ生きていけないと思ったからである。犯罪者の中には、自らの犯罪を正視するのは辛いから、いつの間にか、自分は犯罪を起こしていないと思い込んでしまう人が出現するのである。ストーカーは、夫婦という構造体やカップルという構造体が壊れ、夫もしくは妻や恋人いう自我を失うのが辛いから、このような気持ちに追い込ませたのは相手に責任があり、自分には付きまとったり襲撃したりする権利あると思い込んで、実際にその行為に及んでしまうのである。ニーチェも、「人間の認識する真理とは、人間の生に有用である限りでの、知性によって作為された誤謬である。もしも、深く洞察できる人がいたならば、その誤謬は、人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理の上に、かろうじて成立した、巧みに張り巡らされている仮象であることに気付くだろう。」と言っている。まさしく、人間の一生は、「人間の生に有用である限りでの、知性によって作為された誤謬」を重ね続け、「仮象」を「巧みに張り巡らす」ことなのである。人間は嫉妬心という「真理」を「深く洞察」すれば、自らを「滅ぼしかねない」ので、ライバル心によって「誤謬」を「作為」し、「仮象」を「巧みに張り巡らす」しかないのである。嫉妬心という「真理」は人間の生に無用だが、ライバル心という「誤謬」は「人間の生に有用」だからである。しかし、ライバル心という「誤謬」は「巧みに張り巡らされている仮象」でしかないから、何か事があると、嫉妬心という「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」が、人間の深層心理に湧き上がってくるのである。そして、惨劇、悲劇を生み出すのである。そこに、人間存在の矛盾と苦悩があるのである。