あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、自我の安定のために、そして、自我を発展させるために生きている。(自我その387)

2020-07-28 15:09:39 | 思想
ギリシアの哲学者のヘラクレイトスは、「人々が同じ川に入ったとしても、常に違う水が流れている。だから、同じ川に二度と入ることはできない。万物は流転するのだ。」と言った。しかし、ヘラクレイトスは、万物は変化すると共に、対立や矛盾を含んでいると言い、その思考を、「上り坂も下り坂も同じ一つの坂である。」、「水は魚にとっては生だが、人間にとっては死である。」という喩えで示している。そして、「変化、対立、矛盾があることが万物の真理であり、それらを包括した思想を、ロゴスとして、打ち立てなければいけない。」と主張した。ヘラクレイトスの思想は、ヘーゲルに影響を与え、「意見(定立)と反対意見(反定立)との対立と矛盾を通じてより高い段階の認識(総合)に至る」という、弁証法を主体とした哲学を生み出させた。ヘラクレイトスの思想に対して、パルメニデスは、「存在は不変である。」と主張する。その理由を、「存在の生成の原因が存在だとすれば、その原因となった存在もどのような存在が原因になっているかと追究していくことができ、それは、とどのつまり、無限循環となって、追求できなくなり、矛盾が生じる。だから、存在の生成の原因は、存在ではない。しかし、存在の生成の原因を非存在だとすれば、非存在から存在が生じたことになり、それはあり得ないことであり、矛盾が生じる。だから、存在の生成の原因は、非存在でもないのである。すなわち、存在は生成することはないのである。また、存在が消滅するとすれば、存在が非存在に変化することになり、それはあり得ないことであり、矛盾が生じる。だから、存在が消滅することはないのである。つまり、存在は生成することも消滅することもないのである。」と説明している。そして、パルメニデスは、「世界が変化しているように考えるのは、感覚に基づいて思考しているからである。感覚ではなく、理性による思考をしなければならない。」と主張するのである。ヘラクレイトスとパルメニデスの思想は対立しているように思われるが、外見の変化に捕らわれず、本質を捉えよと主張している点では共通しているのである。しかし、古来、日本人にとって、流れる川は、人生の変化を象徴している。鎌倉初期に成立した鴨長明の随筆『方丈記』も、「行く川の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる無し。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」という文で始まっている。鴨長明の思想は、無情厭世の仏教観に貫かれ、全てが変化することが真実であり、何に対しても愛着を持ってはいけないと説いている。1961年9月から、仲宗根美樹が歌った『川は流れる』は、レコードが100万枚以上売れ、大ヒットした。横井弘が作詞した。哀しみに満ちた人生であるが、希望を持って生きていこうという感傷歌である。それは、「病葉を今日も浮かべて 街の谷 川は流れる ささやかな望み破れて 哀しみに染まる瞳に 黄昏の水のまぶしさ 思い出の橋のたもとに 錆び付いた夢の数々 ある人は心冷たく ある人は好きで別れて 吹き抜ける風に泣いてる ともしびも 薄い谷間を ひとすじに川は流れる 人の世の塵にまみれて なお生きる 水を見つめて 嘆くまい 明日は明るく」という歌詞に表されている。1989年1月に発売された、美空ひばりが歌った『川は流れのように』は、彼女の生前最後に発表されたシングル作品である。秋元康が作詞した。長い人生を振り返って、よく生きてきたなあとしみじみと感慨にふけっている。歌詞の全文は、「知らず知らず歩いて来た 細く長いこの道 振り返れば 遙か遠く 故郷が見える でこぼこ道や曲がりくねった道 地図さえ無い それもまた人生 ああ 川の流れのように 緩やかに 幾つもの時代を過ぎて ああ 川の流れのように とめどなく 空が黄昏に染まるだけ」である。『川は流れる』は、人生の途上にあり、これからも変化はあるだろうが、その変化を受け止めて生きていこうという希望の歌であるが、『川は流れのように』は、人生の最後にある人が、これまでの自分の人生を振り返って、いろいろな変化によって苦しめられてきたが、苦しみも、自分の人生を形作っているのだとしみじみ述懐した歌である。さて、人間は、誰しも、川は海や湖に流れ込んで川という存在を失うように、自分もいつか死んで存在を失ってしまうと考えている。しかし、死後の考え方はさまざまである。死後、あの世で、神の裁きにあい、天国に行かされるか、地獄に落とされるかの運命が待っていると信じている人々がいる。代表的なのは、キリスト教やイスラム教を信仰する人である。彼らは、天国に行きたいがために、聖書やコーランなどを熟読し、教会や礼拝所などに通い、神の教えを日々実践しようとしている。しかし、日本の仏教はそれとは異なる。浄土宗・浄土真宗は、「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽往生できると説き、日蓮宗は「南無妙法蓮華経」と唱えれば真理に帰依して成仏できると説いている。両者とも、修行が必要でもなく、簡単にできるので、信者はこぞって唱えている。しかし、本来の仏教の教えは、人間が、修行して、悟りを開いて、迷いを去り、永遠の真理を会得して、仏(完全な悟りを得た聖者)になり、全ての煩悩を解脱するという涅槃の境地に入り、一切の苦しみから解放された不生不滅の悟りに入ることである。仏になり、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道を輪廻転生し、永遠に迷い、苦しむという、生物全ての運命から脱することである。つまり、仏教本来の教えとは、修行し、悟りを開き、涅槃の境地に入り、輪廻転生の苦しみから脱却することなのである。そして、死後、あの世が無いという考え方をする人々がいる。所謂、無神論者である。無神論者の中にも、死後、宇宙の塵となれば良いと考える人、死後、宇宙の一部となれば良いと考える人、偶然生まれたのだから、死後の世界が存在する必然性が無いと考える人、偶然生まれたのだから、この世で何かをする必然性は無く、自分の行動は自分の判断・決断によれば良いと考える人など、さまざまな考え方をする人が存在する。しかし、死後の世界があるという考え方をする人にしろ、死後の世界が無いという考え方をする人にしろ、死後は、安定したいという思いは同じである。それほど、人間は、この世に生きている間は、変化に満ち、苦難が絶えないのである。なぜ、人生は、変化に満ち、苦難が絶えないのか。それは、人間は、カオス(混沌)の状態で生まれてくるからである。人間は、カオス(混沌)の状態で生まれてきて、不安だから、コスモス(秩序)の状態を求め、構造体に所属し、自我を持とうとするのである。人間は、精神が安定するには、安定した構造体に所属し、安定した自我を有していなければならないのである。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、構造体の中で、役割を担ったポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。人間は、構造体に所属し、自我を持って活動することによって、精神が安定するのである。構造体は人間の組織・集合体であるから、国、県、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップルなど、大きなものから小さなものまでさまざまなものがある。自我も、その構造体に付随して、さまざまなものがある。国という構造体では、国民という自我がある。県という構造体では、県民という自我がある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我がある。学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我がある。会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我がある。店という構造体では、店長・店員・来客などの自我がある。電車という構造体では、運転手・車掌・乗客などの自我がある。仲間という構造体では、友人という自我がある。カップルという構造体では恋人という自我がある。人間は、孤独であっても、孤立していても、常に、ある一つの構造体に所属し、ある一つの自我に持って、暮らしているのである。孤独や孤立は、アイデンティティを失い、不安な状態であるが、構造体から追放されたわけでもなく、本人もそれを望まない。それは、この世は構造体によって組織されていて、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得なければ生きていけないからである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だからこそ、安定した構造体に所属することを望むのである。それは、安定した構造体でなければ、安定した自我が得られないからである。人間は、無意識のうちに、安定した構造体、安定した自我を求めているのである。人間の無意識の思考を深層心理と言う。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考していることを意味する。ラカンは、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。だから、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、ある構造体の中で、ある自我を主体に立てて、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。そして、人間は、自らの深層心理が論理的に思考して生み出した自我の欲望に捕らわれて生きているのである。深層心理が生み出した自我の欲望が、人間が生きる原動力になっているのである。深層心理は、自我が安定するために、そして、構造体が安定するために、自我の欲望を生み出すが、それは、安定した構造体、安定した自我を求めているからである。しかし、人間は、構造体に所属しているだけでは、安定した自我を得ることができない。たとえ、それが安定した構造体であろうと、構造体に所属しているだけでは、安定した自我を得ることができないのである。人間は、構造体に所属し、構造体内の他者にその存在が認められて、初めて、自らの自我が安定するのである。それが、アイデンティティーをエアを得るということである。つまり、アイデンティティを得るには、自らが構造体に所属しているという認識しているだけでは足りず、構造体内の他者からの承認と評価を必要とするのである。つまり、構造体内の他者からの承認と評価が存在しないと、自我が安定しないのである。人間の最初の構造体は家族であり、最初の自我はこの家の子(息子・娘)である。家族という構造体に所属し、この家の子(息子・娘)だという自我意識が得られて、初めて、安心感が得られるのである。自我の成立は、アイデンティティーの確立を意味する。幼児の深層心理(無意識の世界)の中に、自分はこの家の子(息子・娘)という自我が成立したということは、自分はこの家という構造体の子(息子・娘)というアイデンティティーが確立したことを意味するのである。すなわち、幼児は、深層心理で、家族や親戚や近所の人々からこの家の息子・娘だと見なされていることを感じ取り、そこに安心感・安住の位置を得たから、自ら、この家という構造体の息子・娘であるという自我を積極的に容認したのである。つまり、この家の子(息子・娘)であるというアイデンティティーの確立があって、初めて、この家という構造体の子(息子・娘)であるという自我が成立したのである。ここにおいて、幼児は、自らの無意識のうちに、深層心理は、家族という構造体の子(息子・娘)であるという自我の確立とともに、家族という構造体内の父・母・(兄・姉)、家族という構造体外の親戚や近所の人々という他者が区別できるようになったのである。幼児がこの家の子(息子・娘)だという自我を持ったということは、彼・彼女が動物を脱し、人間になったということ、つまり、人間界に入ったことを意味するのである。しかし、彼らは、この家という構造体の息子・娘という自我を持ち、人間になった時から、母親・父親に対して性愛的な欲望(近親相姦的愛情)を抱き始めるのである。つまり、人間は、自我が安定すると、自我が発展するように、自我の欲望を生み出すようになるのである。なぜならば、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、ある構造体の中で、ある自我を主体に立てて、快感原則を満たすために、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているからである。快感原則とは、心理学者のフロイトの用語であり、快楽を求め、不快を避けようとする欲望である。幼児の深層心理は、家族という構造体の中で、息子・娘という自我の安定という快楽を得たから、次は、息子・娘という自我の発展のために、自我の欲望を生み出すのである。それが、エディプスの欲望である。エディプスの欲望とは、最も自分に親しげに愛情を注いでくれる異性の親という他者に対する性愛的な欲望である。人間界に入るということ、つまり、人間になるということは、異性の他者に対して性愛的な欲望を抱けるということなのである。つまり、幼児が、人間になれば、すなわち、この家という構造体の息子・娘であるという自我が成立すれば、異性の親である、母親・父親に対して性愛的な欲望(近親相姦的愛情)を抱き始めるのは当然なのである。これが、フロイトの言う、エディプスの欲望である。母親・父親に対する性愛的な欲望(近親相姦的愛情)、すなわち、エディプスの欲望をかなえることが、幼児期における人間の共通の欲望なのである。しかし、もちろん、この欲望は決してかなえられることは無く、絶望することになる。それは、男児の母親への性愛的な欲望(近親相姦的愛情)には、父親が大きな対立者として立ちふさがり、絶対的な裁き手としての社会(周囲の人々)もこの欲望を容認せず、父親に味方するからである。そこで、男児は、この家で生きていくために、社会(周囲の人々)の中で生き延びるために、自らの欲望を、深層心理(無意識の世界)の中に抑圧するのである。つまり、自我の安定のために、自我の発展を抑圧するのである。また、同様に、女児の父親への性愛的な欲望(近親相姦的愛情)には、母親が大きな対立者として立ちふさがり、絶対的な裁き手としての社会(周囲の人々)もこの欲望を容認せず、母親に味方する。そこで、女児も、また、この家で生きていくために、社会(周囲の人々)の中で生き延びるために、自らの欲望を、深層心理(無意識の世界)の中に抑圧するのである。つまり、自我の安定のために、自我の発展を抑圧するのである。これが、フロイトの言う、所謂、エディプス・コンプレクスである。つまり、人間になるということは、家族という構造体において、この家の子(息子・娘)であるというアイデンティティーが確立され、この家という構造体の子(息子・娘)であるという自我が成立した時から始まるが、それとともに、エディプスの欲望という自我の発展のための欲望が生じるのである。もちろん、それは、社会的には、かなえば悪事である欲望だから、他者から反対され、自ら抑圧するのである。しかし、幼児だから、このような、かなえば悪事となる欲望を抱くのではない。人間は、死ぬまで、かなえば悪事となる欲望を抱き続けるのである。なぜならば、人間は、死ぬまで、常に、何らかの構造体に属し、何らかの自我を持っているから、自我が安定すれば、自我の発展のために、さまざまな自我の欲望が、深層心理から湧いてくるからである。深層心理の快感原則には、道徳観や社会規約が無く、自我の安定、そして、自我の発展を基礎としているから、深層心理が生み出した自我の欲望には、かなえば悪事となる欲望は、必ず、存在するのである。特に、男児・女児には、深層心理の快感原則だけでなく、深層心理の超自我にも、表層心理の現実原則にも、道徳観や社会規約が無いから、深層心理から湧き上がった母親・父親に対する性愛的な欲望(近親相姦的愛情)を抑圧するのは、もちろん、道徳観や社会規約からではなく、父親・母親そして社会(周囲の人々)が容認しないからである。超自我とは、日常生活をルーティーンに、すなわち、昨日と同じように送ろうという欲望である。表層心理とは、人間の意識しての思考である。現実原則も、フロイトの用語であり、現実的な利得を求める欲望である。しかし、幼児期以後も、母親・父親に対する性愛的な欲望(近親相姦的愛情)を抱く者が存在するが、その時は、深層心理の超自我、表層心理の道徳観や社会規約で抑圧するのである。道徳観は、成長するに従い、周囲の大人から与えられ、また、社会規約は、自ら、社会(周囲の人々)の中で生き延びるために体得していくものである。道徳とは、人のふみ行うべき道であるが、社会の秩序を成り立たせるために、個人が守るべき規範とされているものである。社会は、取り締まるべきことを、道徳観で取り締まり、それで果たせないならば、法律などの社会規約で取り締まるのである。それでも、本質的に道徳観や社会規約の無い深層心理の快感原則はは、自我の安定、発展のために、非道な欲望も次々に生み出してくるのである。その度に、人間は、深層心理の超自我、表層心理の現実原則で取り締まっている。しかし、深層心理が生み出す自我の欲望の感情が強すぎると、人間は、深層心理の超自我や表層心理の現実原則を乗り越えて、自我の欲望をかなえようとするのである。それが、時には、偉大なものを創造することもあるが、往々にして、犯罪に繋がるのである。芸能人が不倫すると、「あんなに美しい奥さんがいるのに。」、「あんなに尽くしてくれる奥さんがいるのに。」、「あんなに愛してくれる旦那さんがいるのに。」、「何不自由なく暮らしているのに。」などと、マスコミや大衆は非難する。しかし、不倫した芸能人は、安定した生活に満足できないのである。確かに、不倫した芸能人も、最初は、安定した生活を求める。しかし、生活が安定すると、次は、発展した生活を求めるのである。人間、誰しも、不倫が道徳に反した行為だとわかっている。しかし、人間は、深層心理の快感原則が生み出した自我の欲望の感情が強すぎると、深層心理の超自我や表層心理の現実原則を乗り越えて、自我の欲望をかなえようとするのである。人間は、現状に満足できないのである。その状態を、作家の埴谷雄高は「自同律の不快」と呼び、ニーチェは「力への意志」と呼び、ハイデッガーは「欠如態」と読んでいる。「自同律の不快」は、単に、現状に満足することの不快感であるが、「力への意志」は力強い思想である。「力への意志」とは、「人間が自然法則を見出さなければ、自分にとって、この世界は混沌とした状態のままである。」や「自分が生きる法則を見つけなければ、自分は他者の言うがままの状態で生きることになる。」という思いで、自然法則や生きる法則を発見し、その法則の下で生きようとすることである。「力への意志」とは、ニーチェの根本思想である。「力への意志」は「権力への意志」とも言われる。そのために、「力への意志」は権力者になろうという意志のように解釈する人がいる。確かに、権力者になろうという意志は「力への意志」の一つであるが、それのみに限定すると、「力への意志」は一部の人にしか通用しないことになる。「力への意志」は全ての人に当てはまる思想なのである。「力の意志」は、一般に、「他を征服同化し、一層強大になろうという意欲、さまざまな可能性を秘めた人間の内的、活動的生命力、不断の生成のうちに全生命体を貫通する力、存在の最奥の本質、生の根本衝動。」などと説明されている。この説明の中で、「他を征服同化し、一層強大になろうという意欲。」は、他者に関わる自我の積極的な姿勢を示している。「力への意志」とは、自我の安定に満足せず、自らが発見した生きる法則の下で、自我の存在を大きくし、自我の存在を他の人から認めてもらいたいという飽くなき自我の発展への欲望なのである。また、「さまざまな可能性を秘めた人間の内的、活動的生命力、不断の生成のうちに全生命体を貫通する力、存在の最奥の本質、生の根本衝動。」という説明は、人間の自我の内からほとばしる生命の躍動的な動きを「力の意志」だとしているのである。つまり、「力への意志」とは、自らが発見した生きる法則の下での自我の積極的な力の発露であることを意味しているのである。ニーチェが「神は死んだ」と叫び、現世の自我において幸福を求めることを説いたのも当然のことである。また、ニーチェは、「人間は、力の意志を意志することはできない。」と言う。つまり、「力の意志」は意識して生み出すものではなく、無意識のうちに住みついていると言うのである。しかし、無意識と言っても、それは、無作為、無造作なものではない。人間は、無意識のうちで、思考するのである。だから、無意識の思考を深層心理と言い、人間の意識しての思考を表層心理と言うのである。深層心理が、自我を主体に立てて、「力への意志」によって、自我の案手に満足せず、自我の発展のために思考するのである。ハイデッガーの言う「欠如態」とは、人間の、常に、現在の物事や他者や自分自身の状態に満足せず(「欠如態」として見て)、次の高い段階に進もう(進ませよう)と考えている(「完全態」を追い求めている)状態を言う。人間は、一生、これを繰り返す。言わば、カミユの言う「シーシュポスの神話」である。シーシュポスは、一生、地下の石(「欠如態」)を地上に運ぶこと(「完全態」)を繰り返すのである。ハイデッガーは、「人間は、常に、物事や他者や自分自身を、欠如態として見て、その欠如が満たされた状態である完全態を求め、時にはそのようになることを期待し、時にはそのようになるように努力するあり方をしている。」と言う。これが、「全ての現象を欠如態として見るあり方」である。簡潔に、「欠如態としての見方」とも言われている。人間を「欠如態としての見方」(「全ての現象を欠如態として見るあり方」)をする動物として捉える考え方は、卓越した見識、有効な思考法であるが、一般に解説されることは少ない。ただし、サルトルは重要視し、「即自それ自体は無意味な物質的素材のあり方であり、対自はこの素材を意味づける意識のあり方である。」と述べている。サルトルはハイデッガーとは異なった言葉を使っているが、サルトルの言う「対自の意識のあり方」が、ハイデッガーの言う「全ての現象を欠如態として見るあり方」(「欠如態としての見方」)なのである。さて、人間の心は、「欠如態」を「完全態」にするという思いが叶いそうな時は希望が湧き、「欠如態」が「欠如態」のまま留まりそうな時、苦悩や絶望の状態に陥る。人間は、「全ての現象を欠如態として見るあり方」(欠如態としての見方」)に突き動かされて活動し、それが人類の歴史になったのである。人間は、生きている間、「欠如態」を満たして「完全態」にするために、馬車馬や競馬馬のように突き進むしかないのである。馬車馬は御者に操られて、競馬馬は騎手に操られて前に突き進んでいるが、人間は、深層心理(自らの心の底から湧き上がってくる思い)に操られて、「欠如態」を「完全態」にするように活動するしかないのである。そして、馬車馬は御者から離れ、競走馬は騎手から離れれば自由のようであるが、実際は、その時、彼らは殺されるのである。つまり、彼らは、生きている間、御者、騎手に操られ、前に突き進むしかないのである。人間も、表層心理(自分の意志)で深層心理(自らの心の底から湧き上がってくる思い)から離れることができれば、現在の物事や他者や自分自身の状態に満足でき、「欠如態」として見ることがなく、そのまま「完全態」として見るから、次の高い段階に進むように考えさせられ行動させられることが無いから自由であり、楽な状態になるように見える。しかし、実際は、人間の表層心理(自分の意志)は深層心理(自分の心の底から湧き上がってくる思い)に届くことが無いから、そのような自由で楽な状態は来ないのである。表層心理(自分の意志)は深層心理(自分の心の底から湧き上がってくる思い)を支配できないからである。サルトルは、「現在の物事や他者や自分自身の状態に満足し、欠如態として見ることがなく、そのまま完全態として見るあり方」を「即自の意識のあり方」と呼んでいる。そして、サルトルも、人間には「即自の意識のあり方」は身につくことはないと言っている。しかし、サルトルは、「人間は、自由へと呪われている。」とも言っている。サルトルの言う「自由」とは「表層心理(自分の意志)」という意味であり、「呪われている」とは「運命づけられている」という意味である。つまり、サルトルは、「人間は、表層心理(自分の意志)で、常に、物事や他者や自分自身を、欠如態として見て、その欠如が満たされた状態である完全態を求め、時にはそのようになることを期待し、時にはそのようになるように努力するあり方をするように運命づけられている。」と言っているのである。ここから、サルトルは、「表層心理(自分の意志)」で考え、行動したのだから、自分の行動に責任を持てと言っているのである。サルトルの責任論は潔い。しかし、物事や他者や自分自身を「欠如態」として見るのは、「表層心理(自分の意志)」ではなく、深層心理(自分の心の底から湧き上がる思い)なのである。もしも、「表層心理(自分の意志)」で、物事や他者や自分自身を「欠如態」として見ているのならば、「欠如態」が「欠如態」のまま留まりそうに思われる時、苦悩や絶望の状態に陥る前に、自由に、これまで「欠如態」として捉えていた物事や他者や自分自身を、別の物事や他者や自分自身に換えることができるはずである。また、自由に、これまでの「完全態」を別の「完全態」に換えることができるはずである。しかし、これまでの「欠如態」も「完全態」も別の「欠如態」にも「完全態」にもできないのである。深層心理(自分の心の底から湧き上がる思い)で、物事や他者や自分自身を「欠如態」として見ているからである。つまり、人間は、生きている間、深層心理(自分の心の底から湧き上がる思い)につきまとわれ、深層心理(自分の心の底から湧き上がる思い)に操られ、自由になれないのである。つまり、人間は、生きている間、深層心理(自分の心の底から湧き上がる思い)が捉えたように、現在の物事や他者や自分自身の状態を「欠如態」として見て、「完全態」を追い求めるしかないのである。さて、人間は、同じ現在の物事や他者や自分自身の状態を「欠如態」として見ても、求める「完全態」は、必ずしも、一致しない。例えば、同じ三日月を見ても、次に、半月を期待する人、満月を期待する人とさまざまなのである。中学三年生が国語で65点を取っても、次に80点を目指す人、90点を目指す人、100点を目指人、少し点数が上昇すれば良いと考えている人とさまざまである。それは、それぞれの人の深層心理(自分の心の底から湧き上がる思い)のあり方がさまざまだからである。また、マスコミの情報から、世の中には、いろいろな悩みを抱えている人がいることがわかる。「生きがいが無い。」と嘆く二十代の若者、「生まれてこの方、一度も彼女がいない。」と嘆く三十代の若者、「子供がいない。」と嘆く四十代夫婦、「友達がいない。」と嘆く女子高校生、「美人ばかりが得をしている。」嘆く二十代の女性などさまざまである。彼らは、現在の自分の状態を「欠如態」として見て、「完全態」を追い求めたいと考えているのだが、「欠如態」が「欠如態」のまま留まりそうに思われるので、悩んでいるのである。言うまでも無く、彼らの「完全態」は、生きがいがあること、彼女がいること、友達がいること、美人であることである。しかし、傍から、「諦めた方が良いよ。」と言って楽にさせようとしても、かえって、逆効果になり、本人を傷つけることが多い。なぜならば、諦めろの言葉は、本人にその能力が無いことを意味しているからである。また、現在の自分の状態を「欠如態」として見て「完全態」を追い求めるあり方は、本人の深層心理(思い)が為すことであり、表層心理(意志)では、どうすることもできないことだからである。諦めさせるのには、「諦めろ」という言葉掛けのような敵(本人の深層心理)の正面から攻めような大手の方法を取らず、自然に諦めるような状況を作ったり、優しく説得したりなどして、敵(本人の深層心理)の裏面から攻めるような搦め手の方法が取った方が良いだろう。そうすれば、本人が、深層心理(自分の心の底から湧き上がる思い)から諦める可能性が大なのである。また、たいていの人は、複数の「欠如態」を持っている。一般に、深層心理の敏感な人ほど、「欠如態」が多い。だから、一般に、深層心理の敏感な人ほど、悩みが多いのである。しかし、「欠如態」はマイナスばかりではない。人間に、「欠如態」があるからこそ、満足感や幸福感という快楽が得られるからである。満足感や幸福感は、「欠如態」を「完全態」にする(「欠如態」が「完全態」になる)ことによって、得られるからである。つまり、人間には、先天的に、「全ての現象を欠如態として見るあり方」(「欠如態としての見方」)が備わっているから、「欠如態」を「完全態」にする(「欠如態」が「完全態」になる)ことによって、満足感や幸福感を得ることができ、「欠如態」が「欠如態」のまま留まりそうに思われる時、苦悩や絶望の状態に陥るのである。だから、人間の深層心理は、永遠に、自我の安定に満足できず、自我の発展のために自我の欲望を生み出し続けなければならないのである。


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