あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

自殺とは、深層心理が生み出した、絶望に追い込まれた者の希望である。(自我その385)

2020-07-24 15:52:50 | 思想
人間とは、欲望の動物である。欲望は、深層心理が生み出す。深層心理とは、人間の無意識の思考である。しかし、生きるということは欲望ではない。人間は、生きるということを前提とされて生まれているのである。だから、生きているという現象は、自ら意識して思考して生み出した意志によってもたらされたものでもない。人間の意識しての思考を、表層心理での思考と言う。すなわち、人間は、表層心理で、意識して思考して、生きたいという意志を生み出して生きているのではなく、深層肉体の意志によって生かされているのである。深層肉体とは、人間の無意識の肉体の動きである。しかし、深層肉体の意志は、人間の精神にまで入り込めず、肉体に働き掛けることしかできない。だから、自殺は、深層心理が生み出した、他者に支配されたくないという欲望、より良く生きたという意志から発している。自殺は、深層心理が生み出した、絶望に追い込まれた者の希望なのである。さて、人間は、誰しも、意志無く生まれる。人間は、気が付いたら、そこに存在しているのである。つまり、偶然に、誕生しているのである。しかし、それでも、ひたすら生きようとする。深層肉体に、常に、生きようとする意志があるからである。私の父は亡くなっても、その翌日も、遺体の髪の毛も爪も伸びていた。髪の毛も爪も、つまり、深層肉体は父が亡くなったことを知らないのである。いや、知ろうとしていないと言ったほうが正確かもしれない。深層肉体とは、人間の無意識の肉体の動きである。だから、その意志は、人間が意識して思考して、自らが生み出したものではない。人間が、誕生とともに、肉体が、有している意志である。だから、人間は、この意志に気付いていない。たとえ、気付いたとしても、この意志を動かすことはできない。深層肉体の人間をひたすら生かせようとする意志には、全く、迷いは存在しない。しかし、人間には、自らの意志によって、動く肉体も存在する。それが、表層肉体である。腕を上げる、物を掴むなど、人間が意識して行う行動は全て表層肉体の行為である。表層肉体は、人間は自分の意志によって動かすことができるが、深層肉体は、人間は自分の意志によって動かすことができず、それは肉体自身の意志によって動き、精神や肉体がどんな状態に陥ろうと、ひたすら生きようとする。だから、自殺は、深層肉体の意志に反した行いである。自殺とは、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則の基づいて思考して生み出した自我の欲望による行為である。快感原則とは、フロイトの用語であり、快楽を求め不快を避けたいという欲望である。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動している。構造体には、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップルなどがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があるのである。人間は、孤独であっても、そこに、常に、他者が絡んでいる。人間は、常に、ある一つの構造体に所属し、ある一つの自我に限定されて、暮らしている。人間は、毎日、常に、深層心理が、ある構造体の中で、ある自我を主体に立てて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令というう自我の欲望を生み出し、それに動かされて、暮らしているのである。つまり、人間の行動は、全て、自我の欲望の現象(現れ)なのである。自我を主体に立てるとは、深層心理が自我を中心に据えて、自我が快楽を得るように、自我の行動について考えるということである。だから、自殺した人は、深層心理が、生きて間は、苦痛から逃れられないと思考し、自殺という自我の欲望を生み出したのである。もちろん、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて思考し、自殺を抑圧しようとする。現実原則とは、自らに現実的な利得を求める欲望である。しかし、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて思考し、自殺を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した苦痛の感情が強すぎるので、抑圧できず、自殺に突き進んでいくのである。さて、人間は、深層心理が生み出した、自我の欲望によって動かされている。自我の欲望は、ある感情とその感情に伴った行動の指令によって成り立っている。行動の対象は、他者、動物、生物、事物、事柄などの多岐にわたっている。時には、自分自身が、対象となることがある。自我の欲望は、自分の心の中から生まれてくるが、人間は、自分で意識して、自分の意志によって、生み出すことはできない。自我の欲望は、人間の心の奥底から湧き上がってくるのである。この、人間が、自らは意識せず、自らの意志で行われていない心の働きを深層心理と言う。深層心理が、人間が意識しないままに、思考して、自我の欲望を生み出しているのである。だから、人間は、心の奥底から湧き上がってくるように感じるのである。さて、自我の欲望とは、感情と行動の指令である。人間は、自我の欲望を受けて、行動の指令のままに行動するか、行動の指令を抑圧して別の行動を考えるかを、意識して、思考することがある。この思考の結果、生まれたものが意志である。この、人間の、意識して、思考する心の働きを表層心理と言う。人間は、表層心理で、深層心理心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、受け入れるか拒絶するかを思考することはあるが、表層心理で、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すことはできない。常に、人間は、表層心理で思考するのは、深層心理が思考した結果である自我の欲望についてである。つまり、常に、深層心理の思考が先発であり、人間の表層心理での思考は後発なのである。しかし、深層心理は、人間が意識していない心の中の思考であるが、決して、恣意的に、感情と行動の指令という欲望を生み出しているわけではない。深層心理は、快感原則に基づいて、思考して、感情と行動の指令という欲望を生み出しているのである。快感原則とは、快楽を求める欲望である。そして、人間は、深層心理の思考の結果を受けて、表層心理で、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、受け入れるか拒絶するかを思考するのである。現実原則とは、現実的な利得を求める欲望である。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則を満足させるように、欲動に基づいて、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動き出すのであるが、深層心理の思考の後、人間は、それを受けて、すぐに行動する場合と考えてから行動する場合がある。前者の場合、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、行動するのである。これは、一般に、無意識の行動と呼ばれている。深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、表層心理で思考することなく行動するから、無意識の行動と呼ばれているのである。むしろ、人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。ルーティーンという、同じようなことを繰り返す日常生活の行動は、無意識の行動である。だから、人間の行動において、深層心理が思考して行う行動、すなわち、無意識の行動が、断然、多いのである。それは、表層心理で意識して審議することなく、意志の下で行動するまでもない、当然の行動だからである。人間が、本質的に保守的なのは、ルーティンを維持すれば、表層心理で思考する必要が無く、安楽であり、もちろん、苦悩に陥ることもないからである。だから、ニーチェは、人間は「永劫回帰」(永遠に同じことを繰り返すこと)であると言うのである。後者の場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を意識して、思考して、行動する。すなわち、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動するのである。表層心理とは、人間の意識しての思考であり、人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動である。現実原則も、フロイトの用語であり、自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちであり、深層心理は、超自我によって、この自我の欲望を抑えようとするのだが、感情が強いので抑えきれないのである。そうなると、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則という後に自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。日常生活において、異常なことが起こり、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出すと、もう一方の極にある、深層心理の超自我という道徳観や社会規約を守るという欲望の良心がそれを抑圧できないのである。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、実際に、深層心理が出した行動の指令を抑圧できた場合、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならない。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した苦痛の感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。自殺もこの時に起こるのである。だから、人間は、深層心理が生み出す自我の欲望に動かされて生きていると言えるのである。それでは、人間に、何ができるのか。人間は、ただ、単に、深層心理が生み出す自我の欲望に操られて人生を終わらせるのか。それが、一人一人の人間に問いかけられているのである。さて、人間は、親しい人が自殺すると、誰しも、「なぜ、自分に、自分に、悩み事を相談してくれなかったのだろう。」と悔やむ。しかし、それはできないのである。なぜならば、正直とは、嘘・偽りの無いこと、素直なこと、ありのままということである。正直と同じ意味の言葉に、腹蔵無しがある。腹蔵無しとは、心の中に思っていることを包み隠すことが無いということである。しかし、「正直に、何でも、話して下さい。」と言われても、文字通り、相手について、正直に、腹蔵なく話してしまうと、二人の関係は壊れてしまうことがあるからである。それは、どんなに親しくしていても、どんなに信頼していても、どんなに愛し合っていても、それを話してしまうと、相手が、自分に対して、不信感、嫌悪感を抱くことがあるからである。人間は、相手が自分に対して不信感や嫌悪感を抱き、自分も相手が自分に対して不信感や嫌悪感を抱いているということを知った段階で、二人の関係は壊れてしまうのである。それは、人間は、どのような親しい人であろうと、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理が、まず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているか常に探っているからである。だから、どのような親しい人であろうと、何でも話せるわけではないのである。