あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間の悲劇の原点は、自我に取り憑かれることにある。(自我その218)

2019-09-22 18:02:44 | 思想
人間の特徴を使って、人間を定義する言葉は幾つもある、有名な言葉は、ホモ・サピエンス、ホモ・ファーベル、ホモ・ルーデンス、ホモ・シンボリクスである。ホモ・サピエンスは、リンネが考案し、人間は考える動物であるという意味である。ホモ・ファーベルは、ベルクソンが考案し、人間は道具を作る動物であるという意味である。ホモ・ルーデンスは、ホイジンガが考案し、人間は遊ぶ動物であるという意味である。ホモ・シンボリクスは、カッシーラーが考案し、人間は象徴化する動物であるという意味である。その他に、人間は言葉を使う動物である、人間は火を使う動物である、などがある。いずれも、人間を他の動物と比べ、その優位性を特徴としている言葉である。しかし、もう、自画自賛の言葉を考案するのはやめた方が良いのでは無いか。オゾン層を破壊したのは人間である。公害は人間が作り出したものである。地球温暖化は人間が作り出したものである。無数の動物を絶滅させたのは人間である。これらの行為に飽き足らず、人間世界には、個人が個人を殺すという殺人、個人が集団を殺すという殺人、集団が個人を殺すという殺人、集団が集団が殺すという戦争という行為がある。更に、自分が自分を殺すという自殺という行為がある。確かに、他の動物にも、時には、これらの行為が見られることがある。しかし、人間ほど、大規模に、計画的に、個人が個人を殺し、個人が集団を殺し、集団が個人を殺し、集団が集団が殺すという行為は、他の動物には、見られないことである。むしろ、人間の特徴である、考える、道具を作る、遊ぶ、象徴化する、言葉を使う、火を使うということは、これらの残虐な行為に利用されている。さて、かつて、殺人であっても、戦争であっても、その原因は経済的なものだと考えられていた。実際に、そういうことが原因であった場合もあり、現在でも、そういうことが原因である場合もある。金品を奪うために、財産を奪うために、土地を奪うために、資源を奪うために、労働力を奪うためにという経済的なものが要因であると思われていた。マルクスも、そのように考え、経済的な要因を取り除くために、マルクス主義(共産主義)を打ち立て、共産主義革命という階級闘争を提唱した。共産主義革命という階級闘争において、プロレタリアート(労働者階級)が勝利し、プロレタリアート(労働者階級)が独裁体制を敷き、計画経済を行えば、資本家と労働者の貧富の格差・身分の格差が消滅し、国民が、平和に、幸福に暮らせ、国家間の戦争も無くなると考えたのである。しかし、共産主義革命が成功した、ソ連、中国、北朝鮮は、どうなっただろうか。国家権力が国民を大量に餓死させ、国家権力者が敵対勢力を大量に粛清し、戦争も無くなるどころか、むしろ、自国から仕掛けるようなありさまであった。これでは、資本主義国家と、何ら、変わらない。むしろ、状況はいっそう残虐を極めた。確かに、マルクスは、天才である。資本主義社会の分析においては、マルクスは、随一の思想家である。しかし、マルクスは、経済的な要因に捕らわれすぎた。確かに、経済的な要因が、人間を動かすことはある。しかし、最も強く人間を動かすのは、深層心理が起こす自我の欲望なのである。しかも、現代においては、ますます、猖獗を極めているのである。マルクスは、フロイトやニーチェの思想を知らなかったので、深層心理が起こす自我の欲望に気付かなかったのである。フロイトが、深層心理(無意識と呼ばれることが多い)を再提唱し、欲望(リピドー)の存在をアピールしたから、それらが広まったのである。ニーチェは、自我の欲望という言葉を使わなかったが、「権力への意志(力への意志)」などの思想で、人間の心には、本質的に、他を征服し、いっそう強大になろうという意欲があると説いたから、人々は、心の中にある衝動に気付いたのである。フロイトやニーチェの思想を普遍すれば、人間は、深層心理の欲望によって動かされているということが理解できるのである。深層心理の欲望とは、深層心理が引き起こす自我の欲望である。さて、人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある人間の組織・集合体という構造体の中で、あるポジションを得て、その務めを果たすように、自我として生きていかざるを得ないのである。具体的に言えば、構造体と自我の関係は、次のようになる。日本という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体には、友人という自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があるのである。さて、深層心理は、自我をどのような方向に向けて、自我の欲望を生み出しているか。それは、三方向である。一方向は、自我の対他化であり、自我が他者から認められること、愛されること、強化されることである。つまり、自我の対他化とは、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自分に対する他者の思いを探ることである。好かれたい、愛されたい、認められたいという思いで、他者の自らの思いを探ることである。それは、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者の思いに自らの思いを同化させようとする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉に集約されている。もう一方向は、自我の対自化であり、自我が他者を思うように動かすこと、自我が他者の心を支配すること、自我が他者たちのリーダーとなることである。つまり、自我の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者に対応し、他者の狙いや目標や目的などの思いを探ることである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いから他者を見ることである。「人は自己の欲望を他者に投影する」(人間は、自己の思いを他者に抱かせようとする。人間は、自己の視点で他者を評価する。)ということである。ニーチェの言う「力への意志」とは、このような自我の盲目的な拡充を求める、深層心理の欲望なのである。そして、思想家の吉本隆明は、「人間の不幸は、わがままに生まれてきながら、わがままに生きられず、他者に合わせなければ生きていけないところにある。」と言っている。わがままに生きるとは、他者を対自化して、自分の力を発揮し、支配し、思うままに行動することである。他者に合わせて生きるとは、自我を対他化し、他者の評価を気にして行動することである。つまり、自分の思い通りに行動したいが、他者の評価が気になるから、行動が妥協の産物になり、思い切り楽しめず、喜べないと言うのである。だから、サルトルも、「人間は対他化と対自化の相克であり、対自化を目指さなければならない。」と言ったのである。最後の一方向は、自我の共感化であり、自我と他者が心の交流をすること、愛し合うこと、友情を育みこと、協力し合うことである。つまり、自我の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることである。また、敵や周囲の者と対峙するために、他者と協力し合うことである。「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)もそれである。だから、自我の共感化とは、簡潔に言えば、愛情、友情、協調性を大切にする思いであり、自我の立場と他者の体場は同等であるから、一般的に、歓迎されるのである。さて、人間は、自我の力が弱いと思えば、対他化して、他者の自らに対する思いを探り、迎合する。人間は、自我の力が強いと思えば、対自化して、他者の思いを探り、他者を動かそうとしたり、利用しようとしたり、支配しようとしたりする。人間は、安心できる人や理解し合う人や愛し合うことができる人ならば、共感化する。人間は、自我が不安な時は、共感化できる人がいたならば交わり、自我の存在を確かなものにしようとする。また、深層心理は、自我が存続・発展するように、そして、構造体が存続・発展するように、自我を動かす。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。このように、深層心理は、構造体において、自我を主体にして、対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、そして、自我が存続・発展するように、構造体が存続・発展するように、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を行動させようとするのである。表層心理は、それを受けて、深層心理が生み出した感情のなかで、深層心理が出した行動の指令の指令の諾否を思考するのである。その結果、人間は、行動を起こすのである。一般的に、深層心理は、瞬間的に思考し、表層心理の思考は、長時間を要する。感情は、深層心理が生み出したものだから、瞬間的に湧き上がるのである。言うまでも無く、理性は、意識・意志の下で行われる、表層心理の思考である。このように、深層心理が、人間の無意識のうちで、まず、動くのである。深層心理が、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、表層心理は、それを受けて、意識・意志の下で、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理の出した行動の指令の承諾・拒否を思考するのである。表層心理が承諾すれば、人間は、深層心理の行動の指令のままに行動する。表層心理が拒否すれば、表層心理は、意識・意志の下で、深層心理の行動の指令を抑圧し、代替の行動を思考することになる。表層心理が、深層心理の行動の指令を抑圧するのは、たいていの場合、他者から侮辱などの行為で悪評価・低評価を受け、深層心理が、対他化によって、傷心・怒りの感情を生み出し、相手を殴れなどの過激な行動を指令した時である。表層心理は、後で自分が不利になることを考慮し、行動の指令を抑圧する。しかし、その後、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、傷心・怒りの感情から解放されるための方法を考えなければならないのである。それは、苦悩の中での長時間の思考になることが多い。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることがある。しかし、表層心理が、深層心理の行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、人間は、深層心理の行動の指令のままに行動する。この場合、怒りなどの感情が強いからであり、傷害事件などの犯罪に繋がることが多い。これが、所謂、感情的な行動である。表層心理は、深層心理からの相手を殴れという行動の指令を、後のことを考慮し、抑圧しようとするのだが、深層心理が生み出した傷心・怒りの感情が強過ぎるので、抑圧できず、そのまま、相手を殴ってしまうようなことである。この行動は、犯罪になることもあり、後悔することが多いのである。また、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに、表層心理で意識せずに、行動することがある。一般に、無意識の行動と言い、習慣的な行動が多い。それは、表層心理が意識・意志の下で思考するまでもない、当然の行動だからである。さて、深層心理は、対自化・対他化・共感化のうち、どの機能を強く働かせて、人間を動かしているか。それは、対他化の機能である。深層心理は、対他化の機能を最も強く働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出ているのである。人間は、他者から、好かれたい、愛されたい、認められたいという思いが強いのである。他者から、好評価・高評価を受けたいのである。だから、逆に、他者から侮辱などの行為で悪評価・低評価を受けると、深層心理が、対他化によって、傷心・怒りの感情を生み出し、相手を殴れなどの過激な行動を指令するのである。表層心理が、深層心理の行動の指令である相手を殴れなどの過激な行動を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した傷心・怒りの感情が強いので、人間は、深層心理の行動の指令のままに、相手を殴ってしまうのである。これが、所謂、感情的な行動であり、傷害事件などの犯罪に繋がることが多く、最悪の場合、殺人事件にまで至るのである。人間は、このように、常に、他者から、好評価・高評価を受けたいと思って生きているのである。つまり、人間は、プライドの動物なのである。しかし、このプライドは、他者から悪評価・低評価を受けると、簡単に傷付けられ、その心の傷を癒やそうとして、怒りの感情がわき上がり、傷害事件を引き起こすことがあるのである。特に、構造体のトップにいる人ほど、プライドが高い。言うまでも無く、構造体の中では、自分より上位の人がいないからである。また、部下は、トップの人から、悪評価・低評価を受けると、心が深く傷付く。なぜならば、常に、トップの人から、好評価・高評価を受けたいと思って、構造体の中で、暮らしているからである。しかし、総理大臣、校長、社長、店長、と言えども、単に、一つの自我に過ぎない。単に、一つの役割を果たしているのに過ぎない。国民、教諭・生徒、社員、店員・客などに支えられて存在しているのである。だから、どの自我も、絶対的ではないのである。そして、国、学校、会社、店、という構造体も、家族、仲間、カップルという構造体と同様に、ある時代、ある時期において誕生し、そして、時代の推移、時間の経過によって消滅してしまう存在物なのである。だから、どの構造体も、絶対的ではないのである。つまり、自我にプライドを持ついわれは無いのである。自我にプライドを持つから、プライドが打ち砕かれると、苦悩するのである。つまり、人間は、自我の務めを淡々と果たせば良いのである。失敗すれば、矯正すれば良いのである。自分のミスが原因で、現在の構造体を放逐されれば、別の構造体を探せば良いのである。その構造体も放逐されれば、また、別の構造体を探せば良いのである。構造体に使われるのが嫌ならば、自分が構造体を作れば良いのである。死を迎えるまで変化し続ければ良いのである。それを、立ち止まってプライドを持とうとするから、それが打ち砕かれて苦悩したり、過ちを犯したりするのである。