あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

自分は自分の世界の中心であるが、他者にとっては一つの駒に過ぎない。(自我その210)

2019-09-13 20:37:16 | 思想
人間、誰しも、自分は、自分の世界の中心であるが、他者にとっては、一つの駒にしか過ぎない。それは、自分の世界はさまざまな構造体から形成され、自分はさまざまな自我から形成され、自我の統合の象徴として自己が君臨しているが、他者にとっては、他者が所属している構造体の一つの駒にしか過ぎないからである。だから、自己は他者から理解されるはずがないのである。なぜならば、自己はさまざまな自我の統合の象徴であり、他者に理解されるのは、ある特定の一つの構造体での自我に過ぎないからである。だから、学校でいじめられ自殺した子供の両親が、学校での子供の生活を知ろうとするが、知りたい気持ちは理解できるとしても、それは、不可能である。なぜならば、両親は、家族という構造体での我が子の自我の行動は理解しているが、学校での生徒という自我でのあり方は理解できないからである。理解できるのは、同じ学校という構造体に所属している者だけである。もちろん、いじめた子たちを裁くために、いじめの詳細を記した書類からいじめの実態は把握できるが、それはいじめた子たちを裁くために書かれたものであり、それから、両親が望むような、我が子の学校での生活の全体を知ることはできないのである。そもそも、人は、他の人の全体を理解することはできないのである。同じ構造体に所属している他者の、構造体内でのその自我しか理解できないのである。それでも、人は、誰しも、自分は親しい人の全てを理解していると思い込み、親しい人は自分の全て理解していると思い込んでいる。そうでなければ、その人と懸隔があると感じ、寂しさを覚えるからである。同じ構造体だけの共感化だけでは空しく感じるからである。まさしく、「人は自己の欲望を他者に投影させる」(人間は、自己の思いを他者に抱かせようとする。人間は、自己の視点で他者を評価する。)という深層心理の対自化の作用からである。つまり、自分は親しい人の全てを理解していると思い込み、親しい人は自分の全て理解していると思い込みがあって、初めて、他者から認められているという深層心理の対他化を満足し、他者と一体化しているという深層心理の共感化を満足するからである。そうでなければ、その人と懸隔があると感じ、寂しさを覚えるからである。親しい他者の全てを理解しているという思い込みが無ければ、親しい人間関係が存立しないと思っているからである。つまり、自我の安定のためには、理解し合っているという思い込みが必要なのである。しかし、理解し合っているという思い込みは同じ家族・学校・会社などの構造体の属している時にしか成立しないのである。愛し合っているという思い込みは、同じカップル・夫婦という構造体にしか成立しないのである。それを、他の構造体にも、波及させようとするから悲劇が生じるのである。ストーカーの行動は、他者(元彼氏・元彼女・元夫・元妻)が、元構造体(元カップルという構造他・元夫婦という構造体)から他の構造に所属することに脅威を覚え、それを妨害することから起こるのである。さて、人間は、常に、構造体に所属し、自我を有し、役目を担わされ、行動している。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。人間にとって、具体的なあり方は自我である。自分は、固有名詞と肉体を意味し、自己はさまざまな自我の統合としての象徴である。だから、現実的に、具体的に活動しているのは、自分や自己ではなく、自我である。人間は、まず最初に、深層心理が、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それによって、自我が動かし、行動できるようにするのである。深層心理とは、人間の無意識の、心の働きである。その後すぐに、表層心理が、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令の適否を思考し、その後、実際に、行動するのである。表層心理とは、人間が意識し、意志の上での、心の働きである。さて、深層心理は、自我を、構造体の存続・発展に自我の存続・発展に尽力させるが、それは、構造体が消滅すれば、自我も消滅するからである。自我が消滅すれば、自分の存在も無く、活動もできないからである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。さて、子供にも、大人と同じように、常に、構造体に所属し、自我を持って、暮らしている。家族という構造体では、息子・娘という自我を持つが、学校(小学校・中学校・高校)という構造体では、生徒という自我を持ち、クラスという構造体では、クラスメートという自我を持ち、クラブという構造体では、部員という自我が持ち、仲間という構造体では、友人という自我が持って暮らしているのである。それでは、子供は、各々の構造体において、どのように考えて行動しているのだろうか。それは、大人と同じである。各々の構造体において、自我の思いを主人にして、深層心理が対他化・対自化・共感化のいずれかの機能を働かせて、行動しているのである。さて、対他化とは、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自分に対する他者の思いを探ることである。対自化とは、自分の目標を達成するために、他者に対応し、他者の狙いや目標や目的などの思いを探ることである。共感化とは、自分の力を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と愛し合い、敵や周囲の者と対峙するために、他者と協力し合うことである。往々にして、人間は、自我の力が弱いと思えば、対他化して、他者の自らに対する思いを探る。人間は、自我の力が強いと思えば、対自化して、他者の思いを探り、他者を動かそうとしたり、利用しようとしたり、支配しようとしたりする。人間は、自我が不安な時は、他者と共感化して、自我のの存在を確かなものにしようとする。さて、子供も、大人と同様に、毎日のように、同じ構造体で暮らし、人間関係ができると、必ず、自分が好きな人、自分が嫌いな人、自分を好きな人、自分を嫌う人が出てくる。クラスという構造体にもクラブという構造体にも、そのような人が現れる。しかし、好きになった理由も嫌いになった理由も、親切にされた、助けてくれた、意地悪をされた、物を盗まれたというような明確なものは少ない。深層心理(無意識の心の働き)が好き嫌いを決めるから、多くの人は、自分でも気付かないうちに好きになったり、嫌いになったりしているのである。しかし、教師や両親は、生徒同士で話し合えば、理解し合えば、仲良くなれると思っている、また、嫌われている生徒は、性格上や行動上に問題があると思っている。そして、教師は、小学一年生に向かってさえ、「友だち、百人、作りましょう。」、「みんな、良い子ばかりだから、みんな、友だちになることができます。」と言う。中学校・高校の教師は、エンカウンターという授業を設けて、任意の二人の生徒に、互いにプライバシーを言わせて、仲良くさせ、友人にしようとする。しかし、これは危険である。もしも、相手に嫌われたならば、そのプライバシーを公表され、大きな打撃を受けるのである。いじめられている生徒や嫌われている生徒は、教師や両親の考えに影響され、いじめられている原因・嫌われている原因は自分の性格・行動にあると思うから、恥ずかしくて、教師や両親に相談できないのである。そして、自分一人で問題を抱え込み、自分自身を責めて、悶々と思い悩むのである。日本において、教師や両親を含めて、大人全体の人間理解が不足しているから、いじめ問題が解決の方向へと向かわないのである。むしろ、教師は、無自覚に、いじめを助長しているのである。さて、言うまでも無く、自分が好きな人、自分を好きな人は、ストーカーにさえならなければ、問題はない。問題は、自分が嫌いな人、自分を嫌う人である。自分が相手を嫌いであることを、相手が気付けば、相手も自分を嫌いになる。相手が自分を嫌いであることを、自分が気付けば、自分も相手を嫌いになる。だから、片方が嫌いになれば、相互に嫌いになるのである。自分が相手を嫌いだと意識するようになると、相手の挨拶の仕方、話し方、笑い方、仕草、雰囲気、声、容貌、態度など、全てが嫌いになってくる。「坊主憎ければ袈裟まで憎い」である。しかも、自分が相手を嫌いだと意識すると、それが自分の表情や行動に表れる。すると、相手も自分も嫌うようになる。相手が自分を嫌いだと意識すると、それが相手の表情や行動に表れる。すると、自分も相手も嫌うようになる。とどのつまり、クラス・クラブという同じ構造体で、互いに、共に生活することが苦痛になってくる。互いに、その人がそばにいるだけで、攻撃を受け、心が傷付けられているような気がしてくる。自分が下位に追い落とされていくような気がしてくる。いつしか、その人が不倶戴天の敵になってしまう。しかし、嫌いという理由だけで、その人を、クラス・クラブ構造体から放逐できない。また、自分自身、現在の構造体を出たとしても、別の構造体に見つかるか、見つかってもなじめるか不安であるから、とどまるしかない。そうしているうちに、深層心理が、嫌いな人に攻撃することを指令するようになる。深層心理は、嫌いな人を攻撃し、困らせることで、自我が上位に立ち、苦痛から逃れようとするのである。ここで、小学生・中学生・高校生は、自分一人で攻撃すると、周囲から顰蹙を買い、孤立するかも知れないので、友人たちを誘うのである。自分には、仲間という構造体があり、共感化している友人たちがいるから、友人たちに加勢を求め、いじめを行うのである。友人たちも、仲間という構造体から放逐されるのが嫌だから、いじめに加担するのである。そして、いじめを受けた生徒の中には、自殺する人も現れるのである。小学生・中学生・高校生のいじめの加害者も、自ら、ストレスを感じることが嫌だから、いじめに走ったのである。そして、被害生徒を、最悪の場合、自殺にまで追い込んでしまうのである。深層心理は、いろいろな自我の欲望(感情と行動の指令)を生み出す。深層心理は、道徳観を有していないから、深層心理が出した行動の指令には、道徳にかなっているものと道徳にかなっていないものが混交している。しかし、どのような行動の指令にしろ、表層心理がそれを抑圧すれば、深層心理はストレスを感じることになる。だから、誰しも、ストレスを感じて暮らすのは嫌だから、表層心理は、深層心理が出した道徳にかなっていない行動の指令をそのまま実行するのである。。「子供は正直だ」と言われるが、それは、子供は、表層心理が、深層心理の行動の指令に忠実に行動するということである。だから、それは、決して、喜ばしい現象ではないのである。さて、それでは、いじめ問題を抜本的に解決する方法はあるのか。それが、あるのである。クラスという構造体にしろ、クラブという構造体にしろ、閉ざされ、固定した空間であるから、嫌いなクラスメートや部員ができても、毎日顔を合わせなければいけない。そこに、問題が生じるのである。毎日顔を合わせ、その度に苦痛を感じ、心が傷付く。そして、その復讐のために、いじめを行うのである。だから、クラスやクラブという構造体が閉ざされ、固定した空間である限り、いじめが無くなることはないのである。だから、小学校・中学校・高校も、大学のように、授業を受ける時は、生徒自らが教室を移動し、クラスという閉ざされ、固定した構造体で無くなれば、いじめは激減し、自殺する生徒はいなくなるだろう。中学校・高校のクラブという構造体も、転部、退部が自由という解放された空間にすれば、いじめは激減し、自殺する生徒はいなくなるだろう。しかし、日本人の多くは、小学校、中学校、高校という構造体においては、クラスやクラブを閉ざされた構造体にし、固定したクラスメートたち、固定した部員たち、固定した担任の教師、固定した顧問の教師にしなければ、有効な指導ができないと思っている。だから、クラスやクラブという構造体が解放されることは無いのである。それ故に、日本の小学校・中学校・高校から、いじめが激減することも、いじめによる自殺者がいなくなることも、永遠に無いのである。クラスを解体し、クラブ参加を全く自由にしない限り、日本の小学生・中学生・高校生は、いじめから解放されないのである。