あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

自由な社会とストレス、防衛反応、いろいろな考え方

2017-07-28 08:41:28 | 思想
誰しも、ストレスなく、暮らしたいと思っているが、毎日、大なり小なり、ストレスを感じている。なぜならば、現代の日本は、自由な社会だからである。自由な社会であること自体は良いのだが、皮肉なことに、それがストレスを生み出しているのである。自由な社会とは、自分の選択・決断によって行動できる社会である。自由な社会の良さは、自分が行ったことで、自分が評価されることである。自由な社会において、人間は、自分の選択・決断による行為が良い結果をもたらせば、周囲の人や世間の人から賞賛され、自分自身も、自分の能力を確信でき、心から満足することができる。しかし、自由な社会において、人間は、自分の選択・決断による行為が悪い結果をもたらせば、周囲の人や世間の人から陰に陽に批判され、自分自身も、自分のことをふがいない人間だと思い、自己嫌悪に陥ってしまう。それが、ストレスになるのである。かてて加えて、何かの選択を迫られ、その決断がなかなか付かない時も、ストレスを覚えることがある。さらに、結果がまだわからないのに、悪い結果を案じてストレスを感じることもある。つまり、自由な社会においては、自分の思い通りにならない場合、誰しも、ストレスを感じてしまうのである。だから、自由な社会は、両刃の剣なのである。つまり、自由な社会は、国民一人一人が自らの選択・決断の下で行動できるので、個人の尊厳が守られ、良いのであるが、それが良い結果をもたらせば、その人は、個人として、周囲の人や世間の人から高い評価を受け、良いのであるが、逆に、それが悪い結果をもたらせば、その人は、個人として、周囲の人や世間の人から低い評価を受け、自己嫌悪に陥り、それがストレスになるのである。不自由な社会は、ストレスという面においては、優位である。日本において、最も不自由な社会が招来されたのは、太平洋戦争の時代である。軍部が、国民を統制し、国民から、自らの選択・決断によって行動できる自由を奪った。国民には、死の恐怖・飢えの不安はあっても、ストレスを感じることはほとんど無かった。なぜならば、国民には、自ら、選択・決断する権利が無かったので、個人として賞賛されることが無いのと裏腹に、個人として責任を問われることも無いから、ストレスを感じることが無かったからである。国民は、軍部に統制され、軍部に言われたように行動し、自分の思いのままに行動できないことが当然のように思ってしまうと、ストレスを覚えることがほとんど無くなってしまうのである。より正確に言えば、国民は、死の恐怖・飢えの不安に苛まれ、ストレスを感じている余裕が無かったのである。一般に、太平洋戦争に限らず、戦争に入ると、その国の民衆の精神疾患の発生数は、平和で自由な時代に比べて、極端に少なくなる。ストレスが精神疾患の主要因だからである。しかし、現代の日本の社会は、自由な社会だから、誰しも、自分の思い(自らによる選択・決断)のままに行動できると思っているので、自分の思い通りの結果にならないと、他の人から責められ、自分自身も自分のことを責め、ストレスを覚えてしまうのである。ニーチェは、「最後の人間とは、自分が他の人から愚かだと思われることにも、自分自身が自分のことを愚かだと思うことにも、堪えることのできない動物である。」という意味のことを言っている。最後の人間とは、これまでの人間を意味する。最後の人間を超えた人間が、超人である。しかし、人間は、容易に、最後の人間を脱却して、超人になることはできない。これまでも、そして、これからも、人間は、自らの心理・行動の原点は、他者による自分に対する評価・自分自身による自分に対す評価であることから逃れることができそうに無い。それ故に、人間は、自由な社会を選び、自由な社会に暮らす限り、ストレスから逃れることはできないのである。自由な社会とは、自分しだいで成功・失敗が決まるということは良いことだという思いで打ち立てられた社会である。だから、失敗すると、自己責任という言葉が、大手を振って歩くのである。言うまでもなく、それが、ストレスの主要因である。さて、ストレスの多い自由な社会とストレスの少ない不自由な社会のうち、どちらかを選ばなければならないとしたら、国民の大半もそうだろうが、私も、迷うこと無く、前者の、ストレスが多くても、自由な社会を選ぶだろう。なぜならば、確かに、自由な社会は、個人として、自己責任を問われる可能性があるが、個人として、認められるもあるからである。更に、ストレスを感じながら生きる方が、死の恐怖・飢えの不安に苛まれて生きるより、人間らしく生きられるからである。だから、自由な社会を選び、自由な社会に生きていく限り、人間は、多少のストレスを感じるのは正常なことなのである。しかし、ストレスがたまりすぎ、高じて、肉体的な変化や精神的な変化を起こすのは、異常な事態である。肉体的な変化とは胃潰瘍、十二指腸潰瘍、過食症、拒食症などの肉体の病気になること、精神的な変化とは鬱病、適応障害、離人症などの精神疾患に陥ることである。ストレスに苛まれた人が、肉体的な変化と精神的な変化のうちのどちらの変化を起こすか、どの病気、どの精神疾患に陥るかは、その人の体質や気質によって決まってくる。しかし、確かに、いずれの変化(肉体の病気、精神疾患)も、例外なく、罹病者本人は苦痛を受けるが、実は、人間は、無意識のうちに、深層心理が働いて、それらの変化を起こし、表層心理に(意識に)、自らが異常事態にあることを知らせると共に、ストレスの辛さから逃れようとしているのである。だから、肉体的な変化も精神的な変化も、深層心理による防衛反応と言うことができるのである。つまり、その人の深層心理が、その人を、胃潰瘍などの肉体の病気にさせたり、鬱病などの精神疾患に陥らせることによって、ストレスの辛さから逃れ、その人を守ろうとしているのである。胃潰瘍の辛さは、ストレスの辛さの代理である。鬱病の辛さは、本人を、ストレスを受ける環境に行かせないためにある。人間には、常に、防衛反応がある。例えば、人間は、料理をしている際、うっかり、包丁で指を傷つけることがある。すると、血が出て、消毒と細胞防御をする。痛みが意識化されるから、これから、指を傷つけないように注意する。出血と痛みが防衛反応である。だから、ストレスによって引き起こされた胃潰瘍や鬱病は、それが治っても、防衛反応が治ったことになるので、抜本的な解決になっていない。ストレスの原因になっているものやことを消滅させなければ、その人が、元の環境に戻れば、再び、胃潰瘍や鬱病に罹ってしまう可能性が大きい。だから、大切なことは、ストレスの原因を消滅させること、本人が考え方を変えることである。そのためには、ストレスになっている環境を変えること、別の環境に移ること、ストレスを感じないようになることが必要なように考えられる。まず、第一点目のストレスになっている環境を変えることであるが、これはなかなか難しい。例えば、職場で上司が、家庭で父が、自分にとって大きなストレスになっている場合、日本人の多くは、彼らに意見や不満を述べることをしない。彼らの復讐が恐いからであり、その環境から追い出されることを恐れるからである。だから、職場では、上司に何も言えずに、ストレスが高じて自殺したり、家庭では、父や夫の暴力を受け続けたりする人が、跡が絶たないのである。むしろ、その職場を辞める覚悟で、上司のパワハラやセクハラを弁護士に相談して、謝罪と慰謝料を勝ち取った方が良いのである。日本人は、職場外の第三者に訴えた後、その職場に留まることは、心理的に難しい。職場内の人に相談するのも良いが、自分の思いを話すことで心が慰められることはあるが、その人が実力者で無いと、根本の解決には至らない。最も良いのは、労働組合に相談することである。しかし、労働組合に対する日本人の意識は低く、誤解していることも多いので、労働組合が活躍している職場は少ない。家庭内暴力の場合は、そこから逃げて、警察や役所や弁護士に相談するしか道は無い。第二点目の別の環境に移ることであるが、家庭内ストレスだけで無く、職場内ストレスにおいても、これが最も容易な方法である。転職することは恥じだという意識、新しい職場が見つからないかもしれないという不安、新しい職場になじめないのでは無いかという不安はあるが、ストレスで毎日が苦しいという状況を考えれば、ものの比では無い。座して死を待つことは無い。第三点目のストレスを感じないようになることであるが、人間は、性格を変えることはなかなかできないが、自分に合った考え方ならば、その考え方に変わることができる。一つ目の考え方として、ハイデッガーの主張する、実存的な考え方がある。ハイデッガーの言う実存的な考えとは、自らを臨死の状態において決断する思想である。簡単に言えば、もしも、今、自分に死が迫っていたならば、職場において、家庭において、どのように考え、どのように行動するかを考え、その思考通りに、決断する思想である。今まで、人の目を気にし、同じような生活を繰り返していたが、その日常性を崩し、自分らしい、新しい生き方を決断する思考方法である。二つ目の考え方として、自分はもちろんのこと、誰にも責任を取らせない考え方である。何事も成るしか成らないのであるとして、全てを運命として受け入れる考え方である。現実をそのまま受け入れ、抵抗しない考え方である。そこには、状況を変えようとする意志は無く、喜びも悲しみも無く、時間が坦々と過ぎていくばかりである。むしろ、坦々と過ぎゆくことが喜びなのである。三つ目の考え方として、世捨て人に身を置いて考える方法である。出家や隠遁をして、自ら、世間との関係を絶った人である。しかし、小林秀雄は、「世捨て人とは、世を捨てたのでは無く、世に捨てられたのである。」というような意味のことを言っている。至言である。つまり、世捨て人とは、世間から価値を認められなくなったので、世間から身を引いて、人間関係を絶って生きている人のことなのである。誰しも、簡単には、実際の世捨て人には成れませんが、想定上の世捨て人には成れます。世捨て人になれば、他の人から高く評価されることはありませんが、低く評価されることもありません。自我から離れ、堅苦しい人間関係から離れるので、解放され、人の目を気にせず、自由に物事を考え、行動できる。四つ目の考え方として、人間は役目存在でしか無く、人間が動いているのでは無く、役目が動いているという考え方である。つまり、人間は、役目に動かされて生きている存在でしか無いという考え方である。例えば、職場内において、誰しも、自由な選択・決断はできず、社長ならば社長という役目に沿った選択・決断しかできず、部長ならば部長という役目に沿った選択・決断しかできず、課長ならば課長という役目に沿った選択・決断しかできず、一般社員ならば一般社員という役目に沿った選択・決断しかできないから、役目存在にしか過ぎないのである。そこにおける、名誉・評価などはたわいのないものになるのである。五つ目の考え方として、人間の行動や発言は、ほとんど、深層心理によるものであると考えることである。上司は自分の意志で発言していると思うから、部下は言われたことを気にするのである。上司が、訳のわからない深層心理によって言わされていると思えば、上司が言ったことは気にならないものである。フロイトやラカンが言っているように、人間は、自分の意志で言動しているように思っているが、実は、深層心理に操られて言動しているのである。六つ目の考え方として、宗教に、身を委ねることである。全ての宗教は、あの世に価値観を置き、この世はその通過点に過ぎないことを教えるから、信仰心が深くなれば、これまで自分を困らせていたことがつまらなく見えてくるのである。このように、自由な社会で生きる限り、多少のストレスがあるのは当然であるが、強過ぎるストレスがある環境では、今の環境の状況を変えるか、別の環境に移るか、自分の考え方を変えるしか無いのである。