住職のひとりごと

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追悼 松長有慶猊下

2023年04月25日 17時24分11秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
追悼 松長有慶猊下




私は教え子でもなく、お寺の関係者でもない。しかし猊下の最晩年にご縁をいただき、ご厚誼賜ったものとして誠にごくわずかのその関係についてのみではありますが、四月十六日ご遷化された松長先生の記憶を追悼の意を込めてここにとどめておきたいと思います。

松長有慶猊下についてはWikipediaにある通り、仏教学者密教学者としても、また真言僧侶としても最高の位置に自ずと推挙せられて上られました。そのご生涯は、真言宗ならず日本仏教界における金看板ともいえる存在でありました。急逝が惜しまれてなりません。

〈Wikipedia〉 松長有慶 1929年〈昭和4年〉7月21日 - 2023年〈令和5年〉4月16日)高野山真言宗の僧侶で仏教学者。高野山・補陀落院住職、元総本山金剛峯寺第412世座主、同宗管長(2006-2014年)。全日本仏教会会長(2008-2010年)高野山大学名誉教授、元同大学長。21世紀高野山医療フォーラム名誉会長。
経歴
1929年(昭和4年) 高野山南院住職松長有見高野山大学教授の長男として誕生。
1941年(昭和16年) 高野山南院道場において藤村密憧を戒師として得度
1951年(昭和26年) 高野山大学密教学科卒業
1959年(昭和34年) 東北大学大学院文学研究科博士課程修了
1968年(昭和43年) 高野山補陀落院住職に就任(~現在)
1977年(昭和52年)~1979年(昭和54年)高野山大学によるラダック地方の仏教文化調査
            「ラダック・ザンスカール仏教文化調査隊」に隊長として参加。
1978年(昭和53年) 密教学芸賞受賞・九州大学より文学博士号を授与(博士論文『密教経典成立史論』)
1983年(昭和58年) 高野山大学学長に就任
1995年((平成7年) 耆宿宗会議員(~1999年)
1999年(平成11年) 高野山寳壽院門主・高野山専修学院院長に就任(~2007年)
2002年(平成14年) 高野山第503世検校法印(~2003年)
2006年(平成18年) 11月15日高野山真言宗総本山金剛峯寺第412世座主、高野山真言宗管長就任(~2014年)
2008年(平成20年) 財団法人全日本仏教会会長に就任(~2010年)。春、瑞宝中綬章受勲。
2009年(平成21年)11月にダライ・ラマ14世と面会
2010年(平成22年)1月、東寺(教王護国寺)での後七日御修法の大阿(阿闍梨)真言宗長者
          スイスダボス会議(世界経済フォーラム)に出席。
2011年(平成23年)天台宗の半田孝淳座主に申し入れて、12月25日に比叡山にて
            天台・高野山真言宗トップ対談を1200年ぶりに実施。
2023年(令和5年)4月16日、膵臓がんのため死去。93歳没。

四十年以上前、私がまだ仏教を学び始めて間もない頃、原始仏教関係の本ばかりを読んでおりましたがインドつながりから、松長有慶訳・アジット・ムケルジー著『タントラ-東洋の知恵』(新潮社)を読んだのが先生の本との最初の出会いであろうかと思います。その後真言僧となるにあたりその基礎知識として読ませていただいたのが『密教 コスモスとマンダラ』(日本放送出版協会)であり、大変わかりやすく、身体感覚として法身大日如来というものの存在を体感できたのは特に印象にのこっています。『密教の相承者 その行動と思想』(評論社)は高野山専修学院の教科書として真言八祖の伝記を学ばせていただきました。そして、『秘密の庫を開く 密教教典 理趣経』(集英社)は、わかりやすく常用経典について学ぶテキストとして、今日まで何十回と読ませていただいています。

このように学者先生として仰ぎ見てきた先生がこの福山の地に来たところ、國分寺の先代が先生とは高野山大学の同期であり、盆暮の挨拶は勿論のこと、著書の出版記念パーティや宝寿院門主、法印、管長という重職につかれるたびに祝儀を送り旧交を温めてきた関係であったと伺いました。それが故に、平成二十六年十月二十二日高野山真言宗の福山近在の御寺院の檀信徒へ管長猊下としてなされる御親教のために福山にお越しになられると、翌日午前中の開き時間に國分寺にお立ち寄りいただいたのでした。

その一週間後には前年に亡くなった先代和尚の一周忌が予定されており、亡くなった時義母が訃報の連絡をしており、それを気にされていたと後になって聞いたのですが、何の事前通知もなく前日夕方に明日午前九時半にお越しになられると連絡が入りました。急遽、庭の掃除から始まり御通しする部屋の設い、お茶菓子、拝まれる座の用意など準備して、予定の九時前には仁王門前で待機しました。黒塗りの車が参道を入ってきて、合掌してお迎えしました。

開口一番、誠に気さくに「突然にすみませんなあ」と言われたように記憶しています。ほとんど初対面に近いこともあり、緊張してかしこまっていた当方もこのお言葉で気持ちがほぐれたことを思い出します。中門から客殿前の門を入り直接上段の間にご案内し、床前の毛氈の上に敷いた赤座布団にお座りいただき、菓子とお茶をお出ししました。

前年亡くなった先代の話から、その年の春にドイツ人の早稲田大学名誉教授で真言宗僧侶のヨープスト・雄峰先生にこちらの教区に講演にお越しいただいた話や仏教雑誌『大法輪』での執筆の話など砕けた話をしたことが思い出されます。それから本堂へご案内して先代の位牌を拝んでいただこうとすると、こちらにも毛氈赤座布団は用意していたものの経机の前にお座りになられ、理趣経一巻をお唱え下さいました。誠に有り難く思われ、あとから録音しておけばよかったと思われたのでありましたが。それから上段の間から外にお出になられ、本堂をバックに写真を撮らせていただきました。そして、仁王門前に駐車された車にお乗りになりお帰りになられたのですが、ちょうど一時間のご滞在でありました。

何のお礼にもならないものの、早速赤白のしの「菓上」と保命酒を送らせていただいたところ、後日、沢山のご著書と直筆の手紙を頂戴しました。そしてその翌年の四月丁度高野山開創千二百年の記念法要に高野山に団参で訪れた際に義母とともにご自坊にお礼のあいさつに伺いました。

その後送ってくださったご著書を読んで学ばせていただいたことなど手紙を出さねばと思っていて書きそびれて三年ほども経過した頃、令和元年六月、突然筆者がパソコンに向かっていたところ先生からのメールを着信したと表示されたのでした。その後寺報を送らせていただいていたのでアドレスを知られてのことではありますが、驚いてメールを拝見すると、本を送るように手配してあるので読んで欲しい、戦後の弘法大師の著作についての現代語訳が粗雑であり、誤解される恐れがあるので、残りの余生をその現代語訳に捧げるつもりである。この度は『訳注即身成仏義』(春秋社)であるが読んで少しでも取るところがあるなら勝手なお願いで済まないが感想を仏教関係誌に書くように。日常的に平易な文章を書きなれたあなたにお願いしたいとの内容でした。

早速にご自坊補陀落院にお電話し、直立不動の姿勢で、身に余るお話で期待に沿えないと申し上げると、そんなことではなくただ読んで思ったことを書いてくれればいいからとおっしゃられ、浅学を顧みずお引き受けすることとなりました。もとより不勉強の身のため、ただ読んで思ったことの羅列に過ぎないものを書いたように思われるのですが、六大新報誌に「新刊紹介」として二頁ほどの原稿が掲載されました。ただただ先生のご著書を汚すことにならないかと心配されたのでした。

その翌年六月には『訳注声字実相義』が送られてきて、令和三年には『訳注吽字義釈』が。先生は大師が命ぜられたとお感じになられて、御高齢の上、病を抱えながらもパソコンに向かわれ、大師の著作の現代化のため十巻章の訳注シリーズの出版と総まとめとしての新書版『空海』発刊のために管長退任後の余生を捧げられたのでした。そして昨年一月に『訳注弁顕密二経論』、六月には岩波新書『空海』を出版され、大師とのお約束を成就されました。その都度こちらにもご送付下さり、六大新報社からも連絡が入り、つごう五冊分「新刊紹介」を書かせていただきました。身に余る光栄であります。

この間二度ほど高野山に用事で出かけた際にご自坊にお伺いさせていただきご挨拶もうしあげました。昨年一月二十四日、小雪の降る中お伺いした際には、玄関までお出ましくださりお話させていただきました。六月に予定している『空海』で生涯著作が五十冊となるが、これが最後だと思ってやっている。全く新しい空海像を描いているが難しい表現が入るから一般の人にはどうかと思うと言われるので、最近の読者はよく勉強されるから少しばかり難しくても大丈夫ですと申し上げました。

また、いつも新刊をすぐに読んでまた文章を書いてくれてと言われるので、的外れのことばかり書きまして申し訳ありませんとお詫び申し上げました。ただそれでも先代は喜んでくれている、先代の供養と思って書かせていただいていると申し上げ、またあるお寺様が大師と語れる最後の先生でありこれからもご壮健で頑張って欲しいと申していたことをお伝えしました。これから高野山は寒いので九州に転地療養に行かれるとも言われていました。終始にこやかにお元気そうで、九十三才とは思えないほど声も表情も活気に満ちておられ、かえってこちらが元気をいただいたように思えたのでした。

その後三月十八日のメールでは、送付させていただいた寺報に関連して、上座部仏教の瞑想について今後もっと研究せねばならない領域であるとされ、先駆けて注目している点に深い敬意を呈上する。六月には『空海』の題名で岩波新書を出版する予定で、おそらく最後の著作となると思うが、真言宗の方々の常識をいくつか覆し、びっくりされる内容と思うが、瑜伽にいのちを掲げられた大師のお考えの核心と思う点を一般の知識人に訴えてみたいとありました。

また、六月二十三日にもメールを頂戴し、早速、的確な『空海』の御紹介に御礼を申し上げる。短時間の間にこれほど深いところまで読み込んでくれて感謝している。これを書き上げてほっとすると同時に疲れを感じるとありました。そして、これが最後の著作となると思うが、今年の日本密教学会、種智院大学で特別講演を村主学長から頼まれましたともありました。ですが、その後体調がすぐれず、この講演は先生の用意された原稿を高野山大学の学長先生が代読されたと伺いました。

そして、十二月四日、このメールが先生からの最後のメールとなるのですが、十月に腹痛で入院し、以後医師の指導の下に食生活をし、お酒も甘いものも控えるように命じられている。今年もまた著作の紹介をかたじけなくし感謝している。最後に、くる年もいい年でありますよう祈り上げます、と書いてくださいました。私のようなものにまで体調のすぐれない中メールを送ってくださり誠に申し訳なく思ったことでした。

そして今月十六日、朝八時過ぎに一本のショートメールで先生のご遷化を知ることになりました。通夜葬儀は十八日十九日高野山南院にてと知って、丁度その両日、東京のお寺の法会に出仕する予定であったため、当初出席するのは難しいと諦めていました。ですが、これまで賜ったご芳情を思い、急遽十九日早朝五時に宿を出て、六時品川発の新幹線に乗り高野山に向かいました。

降りしきる雨の中、十一時過ぎに南院へ。門を入ると目の前にずらっと並ぶ供花に、まずは圧倒させられました。広間の建物の外から廊下、門正面の植え込みの周りにも。荷物を置き、上がらせていただき、棺の前に進み線香を立て投地礼。小声ながらこれまでの恩義に感謝の言葉を述べさせていただきました。それから一度退出して、再度十二時過ぎに南院に参り、奥の間で黒衣如法衣に着替え、山内寺院方のすぐ後ろの随喜参列寺院席に着席。管長猊下はじめ山内寺院院家様、上綱様、前官様方が着席され、理趣経一巻唱和。管長猊下と山内住職会会長の弔辞、弔電、挨拶が続きました。この頃から雨脚が強くなり屋根にあたる音がわかるようになります。

そして出棺となり、棺が広間中央に運ばれ、山内寺院方から順に花を棺に入れていきます。私も蘭の花を受け取り棺に添えさせていただきましたが、先生のお顔はお会いした時と変わらず端正な綺麗なお顔でした。そして棺が霊柩車に運ばれるころには土砂降りとなり、棺を乗せた車が動いた、まさに出棺のその時、ひときわ大きく雷鳴がとどろきました。

その時、「人の願いに天従う」という弘法大師の言葉が頭によぎりました。出棺を天が世の者に知らしめ先生を弔わんとされた雷鳴か、はたまた先生が皆のものへの挨拶としてとどろかしめたものかはわかりません。ですがいずれにせよ、霊柩車のクラクションと同時に鳴ったその音は、何か先生のご意思によるものと思われたのでした。

一つの時代が終わってしまったと思われて仕方がありません。先生は戦中戦後どんな思いで補陀落院を継承なされたのか。学問の道を極められた心の源は奈辺にあったのか。また、今の時代に私どもに向けて、もっと多くのことを言い残して欲しかったと思うのですが、いやいや、沢山のことを書き残しているではないかとお声が聞こえるようです。

そうなのです、先生は密教の学問的な研究の傍ら、宗教や信仰の枠を超えて、常に時代であるとか世の中の諸問題について、いかにとらえ対処すべきかを問い指針を示してこられました。それは例えば脳死と臓器移植についての捉え方が西洋の人々とは違った日本人の精神構造の観点からの理解が必要であるとされたり、遺伝子操作については不治の病に対する治療がなされるほかに人間のクローン化などへの不審が払拭されていないこと、終末期医療については長生きよりも命の質の問題への転換が必要とされるなど、医学や生命科学における諸問題の解決のため宗教者からの提言を積極的になされてこられました。

平成十七年には、現在では百四十を超える社寺が参加する西国神仏霊場会が発足していますが、先生は十七人の発起人の一人として神仏の宥和を推進されています。平成二十一年には、天台宗の半田孝淳座主を高野山で行われる宗祖降誕会に招待され、平成二十三年には比叡山を訪問されて、東日本大震災を体験した日本人の心のあり方を宗教人として示すべく、半田座主と千二百年の時を隔ててトップ対談を実現されました。これもすべてのものを包摂する密教的発想からの宥和の実践をお示しくださったものといえます。

さらに平成二十二年、全日仏会長として世界経済フォーラムによるダボス会議にアジアの宗教者として初めて招請されました。その際になされた講演の内容は、まさに現状の国際社会のあり方に対して日本の仏教者の立場から警鐘を鳴らすものでした。自我を中心として対立的に世界を見る近代思想から全体的、相互関連的に世界を見る立場への転換を提案し、先進文明を唯一絶対の価値あるものとして世界を統合するのではなく、地球上のあらゆる地域に存在する文化の独自の価値を尊重し共存すべきこと、私たちが現代社会に生きているとは環境破壊に関与して生かさせていただいていることに気づき、社会のため環境のために寄与奉仕する生き方が求められていると提唱されています。

ところで、先生の著作のいくつかにヘルマン・ヘッセの小説『シッダールタ』の話が登場します。インド人の人生の三大目的であるカーマ(愛欲)とアルタ(富貴)を経験し尽くし、その後無一文となってモークシャ(解脱)を求めて生きる主人公を本当の意味での自由な生き方の手本と書かれています。最後は、わが子とも決別して悩み苦しみつつも、すべてあるがままに現実を受け入れ生きんとする主人公に憧憬を寄せておられるようにも感じられました。

三年ほど前のことにはなりますが、生涯坐禅に取り組まれた仏教学者玉城康四郎先生の著作に学んでいることをメールでお伝えしました。すると、先生からは、生前よく存じ上げており、東大教授でしたが仏教を学問的に研究するだけではなく、ご自身の生き方の中に常に求め、それを生かそうと努めておられた方で尊敬している。今日このような求道的な態度で仏教に接しておられる研究者はほとんど見かけなくなり残念です。老齢ながら、余生の中にこの態度を取り込み生かしたいと考えているとご返信いただいて大変恐縮したことがあります。最後の著作となった『空海』において、先生は大師の思想と生涯の行動が瑜伽(観法・瞑想)に始まり瑜伽に終わると記されていますが、先生ご自身も日々瑜伽観法を丁寧に修法なされ、世俗を超越し無限なる世界と繋がる時間を何よりも重んじてこられたのであろうと思われます。

だからこそ、いつも飾ることなく、一つも偉ぶるところなく、誰にも変わりなく優しいまなざしで、気安くお声がけくだされた。そんな先生に数えきれないほどの多くの人が心癒されたことと思います。私もその中の一人にすぎないのですが、晩年にご高誼を賜りましたことの感謝の気持ちを込めて一文認めさせていただきました。本当にお世話になりました、感謝申し上げます。どうか兜率浄土より安らかにお見守りください。合掌



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