住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
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大師堂落慶を祝して

2023年04月12日 20時09分25秒 | 備後國分寺の風景
大師堂落慶を祝して



四月二日、めでたく大師堂が落成した。前日まで左官屋さん、大工さん、建具屋さん、清掃の方など職人方が慌ただしく最終の仕上げを施してくれて、何とか落慶法要に間に合わせてくださった。昨年十一月から解体された大師堂と休み堂が一つの建物に生まれ変わった。

明治三十四年五月発行の『廣島県名所図録』という、広島県内の神社仏閣など名所の建物の様子をスケッチして解説を施した図鑑がある。それによれば、ここ備後國分寺の頁には「備後国深安郡御野村真言宗唐尾山國分寺之真景」とある。それを見ると、境内の西側に南北に切り妻屋根の休み堂らしき建物があり、すこし離れた北側に小さな籠堂らしき建物が描かれている。記録によれば明治二十一年に、天保年間に開創された唐尾山八十八箇所の籠堂が造られたとあるのでその建物であろう。

唐尾山は國分寺の山号であり、寺の背面に位置する山を唐尾山と通称している。四国八十八箇所の札所本尊を彫った石仏が山一円に順に設置されている。山の西麓に屋根を設けた一番札所があり、そこから北西の斜面を上がり下御領下組の共同墓地を経て、山上の石鎚社に登る。その西側の三十八番札所から接待堂を経て、途中古墳をいくつか横に見ながら石段が設けられた山を下る。國分寺の庭園を見下ろしながら降りてくると本堂西の裏にあたる八十七番札所があり、八十八番結願所は境内に設けられていた。一巡すると小一時間はかかるだろうか。

江戸時代初期に四国霊場の巡礼は盛んとなり、その後全国各地にミニ霊場が作られていく。その一つとして、天保の大飢饉をきっかけに開創されたという。霊場開創百四十年記念誌に記載された開創当時の施主帳には、「天保十二庚丑年秋八月吉祥日 唐尾山八拾八ケ所本尊施主帳 開眼 寅二月廿一日 結衆中 相頼 相添申候 世話人 当村 平吉、浅七、政右ヱ門、久米右ヱ門 法印 光蓮代」とある。天保四年(1833)に大雨による洪水や冷害による大凶作により始まり、天保十年ころまで続いたとされる天保の大飢饉を乗り越え、風雨順時五穀豊穣を心底願われての開創であったことであろう。

そして、明治二十一年に近在の信者約五百人から浄財をいただき籠堂を建立したとある。それも九十年余りが経過して損壊甚だしきことから再建の話が出たが、おそらくお籠りする人もない時代となったためであろう、境内に置かれた八十八番の本尊と大師像を祀る大師堂として昭和五十六年に建立が発願されて、千五百人近い人々から浄財を頂戴し、八月二十日に落慶された。

それから四十年余り、唐尾山八十八箇所は二十年前頃まで毎朝何人かが巡っていたが、その後一人欠け二人欠けして、巡る人が徐々に減少。接待堂でのボヤ騒ぎや不審者の滞在など風評が広がりさらに減って、近年はイノシシが駆ける道となってしまったことも災いして激減。逆に大師堂は毎月の薬師護摩供の道場として特に十年ほど前から多くの参拝者を迎えるようになり、数名の人たちが外にベンチを並べてお詣りするようになった。加えて、南に位置する休み堂をどのように再興するか以前から懸案となっていたことから、二つの建物を繋いで内拝できるお堂として再建することが検討された。

旧大師堂建立の経緯から、昭和五十六年に建設した際に世話になった大師講の世話人方にこうした事情を説明し了解をとる必要があった。大師講の世話人方も徐々に世代が変わり一人二人となってしまっているが、丁寧にこの度の再建計画に至る事情を説明。お寺の敷地内のことでもあるからと、なんとか了解を取り付けることができ、早速総代で一級建築士の武村氏が素晴らしい設計図を作ってくださった。そして、令和三年四月には建設にとりかかることとなった。

しかし、コロナ禍の中、物流がストップするなど資材が揃わず延期となり、昨年令和四年十一月やっとのこと解体にこぎつけた。四日に午後から石仏を搬出し境内に安置、護摩壇は本堂に移された。七日より解体が始まり、三日ほどで二つの建物の解体が済み、十日に急遽倉敷の宝嶋寺様に伺い土公供の伝授を受け、十一月十二日午前に鎮壇具を地面下に埋納する土公供を執り行った。

当日朝から、六文銭を取り付けた土公申幣、幣足十二本、五寶・五香・五薬・五穀・五色を納めた宝鋲、さらには水、酒、色紙を小さく刻んだ切花、洗米に五色の紙を刻んで入れた散米、五穀粥、塩を用意。お堂予定地の中央と四方に一尺ほどの穴を掘り、その前に幣を立て、穴に納める鎮壇具を前方の机に用意して午前十時から修法開始。四十五分に終わり、中央には宝鋲と法輪橛、四方には法輪橛を納めた。そして翌週からといわれていた基礎工事がその日午後から急遽開始された。

十一月二十六日基礎工事完成。十二月十日木工事のための木材搬入、十二月十九日総代四人と工事関係者七人が参加されて、圓照寺住職に御助法いただき午後四時半、上棟式を執行した。導師が仏式上棟式作法を修法する中、心経発音、立義分を共に唱え、薬師真言、不動真言、日天・月天・地天・梵天の各真言、大金剛輪呪、光明真言、御寳号、一字金輪と次第して唱和を終える。棟梁に、棟木に幣と棟札を飾り、四方に酒・米・塩を供えてもらう。挨拶、乾杯の後祝儀を差し上げ直会を行った。

翌日より今年二月八日までに木工事、瓦銅板など屋根工事を終え、その後左官工事、電気工事などが施された。三月三十日、まず石仏が搬入され、護摩壇を本堂から運んでいただいた。それから茶室などに仮置きされていた仏像を一体一体運んで、橛を差し込んで壇線を張り仏具を移して荘厳し、大師堂入り口の蔀戸など建具が取り付けられた。さらに法要前日に、外にベンチが設置され、流しの横には棚が作られた。そして、大師堂前には紫の寺紋入りの幕、外陣部分には五色の幕が張られ、見事落成を迎えることができた。落成に向け懸命な作業に邁進してくださった職人様方に深く感謝申し上げます。

四月二日、快晴の中、地元神辺の真言宗結衆寺院六ケ寺八名と圓照寺住職により、午後一時から落成慶讃法要が執り行われた。次第は、入堂着座、奠供一讃、心経、慶讃文、諸真言、挨拶、祝辞、退堂。慶讃文は以下の通り。

『大師堂落成慶讃文』
「敬って、真言教主大日如来、両部界会諸尊聖衆、殊には本尊聖者薬師如来並びに
高祖弘法大師、総じては一切三宝の境界に申して言さく。夫れ惟んみれば、堂塔は
秘密荘厳の標幟。伽藍は信心培増の方便にして、本尊之によって威光を輝かし衆生
之を仰いで信心を運ぶ。

 茲に当山大師堂と者、そもそも天保十二年開創せし唐尾山大師道の籠堂として明
治二十一年に建立。九十年余りを経て損壊甚だしきことから、昭和五十六年八十八
番札所大師堂として近在の数多の信徒より浄財を募り再建す。以来、月例護摩供を
修して檀信徒の護持並びに参詣善男子善女人の除災招福を祈願せり。然るに、此の
度新たに建立を企てるは、先住和尚並びに檀信徒の念願にして、護摩供参詣者の便
に資し、精進功徳を積みて人心の暗迷を除き正路に就かしめんが為なり。

 殊に、本年は弘法大師御生誕千二百五十年にあたり、宗祖大師を讃仰し報恩謝徳
に資するは幸甚この上なし。依って本日落慶にあたり、神辺結衆諸大徳の親修を仰
ぎ法会を厳修す。期する所は、

 世界平和 国家安穏 弘法大師 倍増法楽 
 護持檀信 家内安全 息災延命 如意吉祥 
 乃至法界 平等利益

 干時令和五年四月二日
            唐尾山國分寺 住持全雄敬白」

最後にはなりましたが、建設にあたり、檀信徒の皆様からは涅槃会寄付を、また篤信の皆様方からは特別寄付を賜り、さらに多くの檀信徒の皆様からお祝いを賜りましたこと、ここに深く感謝し御礼申し上げます。お寺は福田(ふくでん)とも申します。お参りくださった方々が善行を施し、心を耕し功徳を収穫していただく場であります。是非これからもより多くの皆様が集い沢山の功徳を持ち帰ってくださる福田となりますことを心より願っております。合掌


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