住職のひとりごと

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わかりやすい仏教史⑤ーインド仏教の近代史 1

2007年07月16日 19時40分46秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
(大法輪誌平成十三年十一月号掲載)


前回は、七世紀中葉以降仏教は主に密教として発展し、その後十三世紀初頭、イスラム教徒によって仏教の中心となる拠点を破壊され、終焉を迎えたところまでを述べました。

今回は、仏教が衰滅したとされるインドで、今日に至るまで仏教徒として生き続けてきたベンガル仏教徒の歴史を中心に、インド仏教の近代史について述べてみようと思います。

移住開始、さらに東へ

インド仏教の歴史は、度重なる異民族の侵入によって様々な展開を示してきたことをこれまで見てきました。これから述べようとする、今日ベンガル仏教徒と呼ばれる人々の歩みも、その例外ではありませんでした。

七一二年、イスラム教徒による、はじめてのインド侵入がありました。これに続く度重なるイスラム教徒らによる侵略と改宗の強要を察した誇り高い仏教徒たちは、おそらくその迫害を逃れるために、この頃から次第に東へ移住を開始したものと考えられています。

ガンジス河中流域の今のビハール州マガダ地方から、東へ移住を開始した彼らは、その頃はまだカルカッタの町はなく、北へ回ってアッサムやマニプールを通って、東ベンガル地方、現在のバングラデシュ・チッタゴン丘陵地域からミャンマー西部のアラカン山脈方面へ移住したとされています。

ある伝承によれば、彼らはマガダ王家の血統を継ぐ人々で、仏教徒アラカン族が暮らすアラカン地方のアキャブに移住したと伝えられています。

イスラム支配

一一九二年、タラーインの戦いでゴール朝のムハンマドがヒンドゥー連合軍に勝利すると、イスラム軍は瞬く間にベンガル地方まで支配下におさめ、デリーに都をおくイスラム王朝が誕生しました。前回述べたように、この時仏教寺院はことごとく破壊され、多くの仏教徒はイスラム教に改宗させられていきました。

既にアラカン地方に移住していた彼らにとっては、西にイスラムが迫り、そして東側にはミャンマーのパガン王朝が控えている状況にありました。しかし、まだこの頃はアラカン山脈からベンガル湾に臨む海岸にかけて統治していた仏教国アラカン王国が存在していました。その保護のもとで、彼らはチッタゴンの平野部に町を作り、先祖の出身地に因んで、マガ、またはマグと呼ばれ暮らしていました。彼らは後にバルア姓を名乗り、ベンガル仏教徒またはバルア仏教徒と呼称されることになります。

そして、十六世紀にはモンゴル族系のイスラム王朝ムガール帝国が誕生し、インド南部やチッタゴン南東部を除くインド全土を支配することになります。一六六六年、ムガール帝国はこの少し前からチッタゴンにやってきていたポルトガルに土地を与える代わりに仏教徒たちを排斥させ、チッタゴン全域がムガール皇帝の土地と化してしまいました。

征服した土地の民衆を改宗させることで勢力を拡大させていったイスラム教徒のやり方に抵抗し、この時ほとんどの仏教徒が改宗を嫌ってチッタゴンを後にしました。しかし、ベンガル語を話す一部の仏教徒は国内に潜伏する生活を選択したということです。

ムガール帝国は、チッタゴンに西部のイスラム教徒を移住させ、仏教のお寺や僧院を壊してモスクにしました。この当時の名残として、チッタゴンには今もブッダマカーン(仏陀の家)という名のイスラムの礼拝所が存在しています。また、仏典は焼かれ、仏像は壊されたり海に捨てられました。お坊さんたちは、袈裟を身に纏うことも出来ず、仏教徒の供養のために隠れてお経を唱える場合であっても、袈裟を頭の上に乗せて行われたと言われています。

イギリスの登場

一六〇〇年にイギリス東インド会社が設立され、香料のほか良質の綿織物、絹織物の加工品が大量の銀貨を対価としてヨーロッパに送られていきました。しかし、一七五七年、クライブ率いるイギリス軍は奸計を巡らして、既に衰退化したムガール帝国のベンガル太守軍と対戦して勝利すると、その八年後には、ベンガル、ビハール、オリッサの徴税権を割譲させました。これによりイギリスは、銀貨を持ち込まずとも好きなだけインドの物資を運び出せることとなり、植民地化が進められていきました。

そうして、一七六〇年にはチッタゴンもイギリス人の手に渡ることとなりました。彼らはイスラムとは違い、人々の宗教にまでは立ち入らなかったと言われています。

そして、その後の植民地化を進める上で強靱な軍隊を養成することを必要としたイギリスは、土着の人材を採用することを思いつき、その軍隊にはじめて採用されたのがバルア仏教徒でありました。彼らは、土地を追われ生活の基盤さえなかった自分たちの立場改善の好機と捉えて、積極的に軍隊に志願したのでした。

混乱した時代を生き抜いてきた彼らの小隊は、すさまじい体力と統率力によってマグ・プラトーンとして知られるところとなり、軍の中でも異彩を放っていたと言われています。小隊長に昇進するものも出て、彼らの地位向上につながり、チッタゴンの主要な土地を奪還することに成功していきました。

仏教再生前夜

こうしてイギリスの勢力下にあったこの時代に、多くのバルアたちは地主や大農耕主となっていました。本来の生活を取り戻し、新たにお寺や僧院を建設していきました。ところが、長いイスラム支配の間に失われた仏典も、また生き残ったお坊さんたちの生活の規定や行事などを簡単に復活させることは出来ませんでした。

多くの仏教徒は、ヒンドゥーの神々を礼拝し、様々なヒンドゥーの慣習や儀礼を行い、イスラムの聖者まで崇拝するものもあったといいます。

お坊さんたちは、袈裟も本来の規則に則ったものでなく、正式なお坊さんとしての戒律も受けておらず、出家式のあと十戒を七日間守り、その後は家に帰って妻子と共に家庭生活を営んでいたといいます。布薩や安居といったお坊さんの行うべき行事も知らず、普段は在家の服を着用し、宗教儀礼の時だけ袈裟を纏っていました。

上座仏教の再生

アラカン地方のアキャブに、かつてビルマ王からアラカン族の軍事的脅威の源と恐れられ、人々を引きつける魅力ある存在であったマハームニという釈迦大仏像がありました。

一八一三年、失われた仏教の伝統を復活すべく模索していたバルア仏教徒は、そのマハームニ像と見紛うばかりの大仏像をチッタゴンに造り、多くの巡礼者が訪れるようになっていました。僧坊や巡礼者のための施設が整い、マハームニ村と名付けられ、ここを中心に仏教を再興する雰囲気が出来つつありました。

そして、一八五六年、アラカン仏教界の最高位にあったサーラメーダ長老を招いて、チッタゴンのバルア仏教徒、それに丘陵地域の仏教徒である少数民族チャクマ、マルマ、ラッカイン、シンハ族なども集まり、ともに、上座仏教の再生について会合しました。

サーラメーダ長老は、この時二年間マハームニ村に滞在して、ヒンドゥーの神々を礼拝したり、儀礼に参加することは仏教徒にふさわしい行動ではないことを教えていきました。

また、お坊さんたちには、律蔵にそった共同生活について語り、これまでの在家者とかわらない家庭生活をあきらめることを求めました。そのために、まずはじめに十戒を授かり沙弥(見習い僧)となり、ついで正式にパーリ律に則って二二七の戒を授かる受具足戒式を受けることを勧めました。

一八六四年、アラカンの僧団を伴って再訪したサーラメーダ長老は、チッタゴンの先に沙弥となっていた七人に対して具足戒を授けました。これは、インドにおける上座仏教の再生を宣言する、歴史的な受具足戒式となりました。つづく

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