住職のひとりごと

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わかりやすい仏教史⑥ー仏教中国化の歴史 1

2007年07月23日 07時51分05秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など

(大法輪 平成13年12月号掲載)

前回は、仏教が衰滅したとされてきたインドで今も生き続けているベンガル仏教徒の歩みと近代インドの仏教史を概観しました。今回は我が国へ仏教を伝える中国の、伝来から南北朝時代までの仏教について、その受容の特徴を中心に述べてみようと思います。
 
北伝の道

中国に仏教がもたらされたのは、後漢の明帝(在位五七ー七五)の時代と言われています。が、それ以前に、紀元前二世紀頃から開けていたシルクロードを通って、インド商人や仏教を信奉していた西域人が中国に仏教をもたらしたものと考えられています。

交易路であったシルクロードは、インドと中国の文化接触の幹線であり、仏教伝来の道でもありました。そして、スリランカやミャンマー、タイへと伝播された南伝仏教に対し、シルクロードによって西域を経由して中国、朝鮮、日本へいたる仏教は北伝仏教と言われます。

中国へ仏教をもたらした西域のトルファン、コータン、クチャなどには今日多くの石窟寺院が発見され、仏教が盛んであった当時の様子を伺い知ることが出来ます。こうした砂漠に消えていった国々の信仰によって仏教は中国に紹介されていきました。

訳経のはじまり

この古代の交易路を通って、西域のお坊さんたちが経典を携え中国にいたり、その儀礼を披露したのでありましょう。二世紀中頃には西方異国趣味の王侯貴族の間で、黄帝や老子とならんで金色の仏像を祀り、香を焚き経を唱える仏教の法要がもてはやされたと言われています。

そして、こうして西域から中国へ伝道された仏教は、そのはじめから経典をそのまま受け入れるのではなく、それらをことごとく翻訳し紹介されていきました。

その最初は、一四八年頃後漢の都洛陽に来たパルティアの安世高が進めた訳経で、このときには、転法輪経や八正道経など部派教団所伝の諸経典が翻訳されました。その後月氏出身の支婁迦 が洛陽に来て、般若経など大乗経典を訳出。

また三世紀末頃、敦煌出身の竺法護(二三二ー三〇八)は、法華経、維摩経、無量寿経など多くの大乗経典を訳しました。彼が翻訳した法華経は観音信仰の基礎を作り、維摩経は清談を好んだ貴族社会に大きな影響を与えました。

こうして始まった中国における経典翻訳の歴史は、その後千年にも及び、この間に訳された仏典は今日その大半を収める大正新修大蔵経三〇五三部一一九七〇巻に見るように膨大なものとなりました。翻訳後インドの原典はことごとく処分して残されておらず、今日こうして翻訳された漢訳経典が世界中で唯一最大の仏典となっています。

仏教受容の特徴①

[翻訳後の中国化]中国では翻訳されるとインドの原典が省みられることはなく、その漢訳した訳語を巡って議論され解釈が加えられていきました。

仏教の重要な基本概念でさえも、原典に立ち戻ってその意味を問う試みはなされず、訳された術語を解釈し、思想として論じられていきました。たとえば因縁という訳語の原語を忘れて、因とは何か、縁とは何かと思索されていきました。そうして形成されていく仏教は、原初の姿とはかなり異なるものとなりました。

[格義ということ]仏教伝来時の中国に、もしも紀元前三世紀に仏教が伝えられたスリランカのように、伝来されたインド文化に匹敵する文化が無かったならば、仏教をそのままに変化を加えることなく伝えたものと考えられます。しかし、当時既に彼らの文化の中には仏教を解釈するに値するものが充分にありました。

それが故に、彼らは翻訳された仏教の思想内容を理解するために、中国の古典、特に老荘や周易の思想を手がかりとしたのでありました。本義に格るためになされた、このような思想的いとなみを格義と言い、四世紀前半、盛んに流行しました。たとえば大乗仏教の中心思想である「空」を老荘思想で説く「無」をもって理解したり、解説されたのでありました。

しかし、四世紀後半になると、老荘思想などを通してなされたこのような仏教解釈は批判され、本格的仏教研究が進められました。ところが、その後も中国仏教を形成していく中で、老荘思想と仏教との結合は否定することのできないものとなり、「無」という言葉は後々までも中国仏教の中で重要な概念として語られていきました。

仏図澄と釈道安の活躍

時代は仏教伝来の後漢から三国時代を経て、西晋の時代となり、そのころ洛陽には四二のお寺があったと言われています。しかし、次第に北方からの異民族の圧迫が強まり、三一六年ついに西晋が匈奴に敗れて江南に逃れ東晋を建国。北シナは、異民族が次々に覇権を争う五胡十六国時代となります。

北シナを制圧した異民族は、漢民族を支配するために漢民族の文化に匹敵する異国文化として仏教を採り入れました。

三一〇年に中央アジアのオアシスの国クチャから洛陽に来た仏図澄(二三二ー三四八)は、その宗教的霊験によって後趙の石勒と石虎に王侯大臣以上の礼遇を受け、軍事、私事にわたり相談を受けるなど尊信を得ました。三〇年余り北シナで布教し、また神通力を現し、九〇〇近い寺を建て、一万もの弟子を養成したと伝えられています。

この時代までは、主に外来の西域人のための宗教としてあった仏教が、胡族出身の王によって前代の制に拘束されることなく、自由に僧尼になることが許されました。これにより、漢人の中からもお坊さんになるものが多く現れ、仏教は急速に広まっていきました。

この仏図澄の門下に、漢人の高僧道安(三一四ー三八五)があり、仏教徒はすべてお釈迦様の弟子なのであるから、みな釈を姓とするがよいとして、門下をみな釈氏と呼ばせ、純然たる漢人仏教教団をはじめて組織しました。

石虎の死後、彼は戦乱を避けて数百の門下と襄陽に檀渓寺を建て、東晋の皇帝や北シナの胡族君主、貴族たちからの寄付により、真摯な修道活動を続けたと言われています。

道安は、当時行われていた仏教の諸教理を老荘思想から解釈する方法を改め、仏教は仏経によってのみ解釈すべきことを訴え、仏教研究の正しい道を確立しました。

また道安以外にも長安や洛陽地方から戦乱を避けて東晋へ南渡するお坊さんも多く、建康を中心に多くの寺院が建設されました。江南の貴族たちはこぞってすぐれた学僧を家僧として招き、一門のために仏教を講義させたため、彼らは仏教の教養を広め信仰を増進する指導者として尊敬されました。

羅什の翻訳事業

クチャ出身の鳩摩羅什(三四四ー四一三)は、幾多の苦難の末に、後秦の姚興より国師の礼をもって迎えられました。彼は、当時の文明の中心地であった長安で、国家事業として充分な設備と資金、それに多くの優秀な助手を動員され、講義し討議しながら翻訳を進めたと言われています。

大般若経をはじめ、法華経、阿弥陀経などの大乗経典の他、その翻訳は中論や成実論などの論書や律蔵にまで及びました。天下の仏教者が長安に参集し、法華経の翻訳には二千人もの学僧が参加したと言われています。

羅什の翻訳は、訳語がすぐれ流暢であるため、彼にいたって始めて訳文のみによって仏教を理解し研究することが可能になりました。中国で没するまでの十二年余りの間に、この大翻訳家は三五部三百巻余りもの翻訳事業に携わり、唐代に新訳が登場してもなお現代に至るまで、彼の訳文が活用されています。つづく

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日本呉音」が南朝的色彩が濃厚であることの理由 (嶋田一雄)
2008-11-18 13:50:36
大変興味深く拝読させて頂きました。
拝見した切っ掛けは、日本最初の漢字音と思われる「日本呉音」が仏教経典と共に大陸から渡来したのではないかとの推測から、仏教経典と支那大陸南朝との関係をネットで検索している過程で、このブログを発見させて頂きました。
日本列島に現存している最古の文書は、ことごとく仏教関係のもののようですが、支那大陸への仏教の伝来が、ご指摘のように、最初はシルクロード・西域を経由したものであると致しますと、日本最初の漢字音と思われる「日本呉音」が南朝的色彩が濃厚であることの理由が腑に落ちません。
どうかご教示の程、御願い申し上げます。08.11.18
嶋田一雄 < pithecan1894@gmail.com > 
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沢山の経典があります (全雄)
2008-11-25 12:19:59
嶋田様、ご高覧恐縮致します。

日本に仏教が伝来しますのは、六世紀半ば、その前から勿論伝わっていたものと思われますが、その頃既に沢山の経典が中国で翻訳されており、それらが日本にもたらされたことでしょう。

シルクロードを通り中国に至った仏教がすぐに日本に来たわけではありません。すべて中国で加工された後に伝来したものと考えますと、日本呉音が南朝的色彩があっても不思議ではないのではないでしょうか。

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