住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

寺院とはテーマパークか?

2007年05月10日 19時31分07秒 | 様々な出来事について
お寺とは何だろう。何度となく、ここでも書いてきたように思う。先だって京都の三千院に参詣し、往生極楽院にお参りした。そのときおられた天台宗のお坊さんが一席の法話の中で、誠に軽妙に面白可笑しくお話しされた。

「このお堂は、平安時代に造られたテーマパークで、阿弥陀浄土を体験していただく、つまり、いま流行のバーチャル・リアリティを実感してもらうための空間なんです」と。

なるほど、おもしろいことを言うと感心した。確かに、日本の仏教は、と言うか、大乗仏教においては、寺院とは、仏菩薩の近くにはべり、その境地の法悦を味わう場であったであろう。だからこそ、沢山の仏たち、如来や菩薩、明王という尊格がおびただしく創られていった。

沢山の仏塔が建立され、そこに正にお釈迦様がおられるかのように思ってお参りした。そして、沢山の仏像が造られ、さらに曼荼羅という仏の世界を表現したビジュアルによって瞑想を強化する装置も発展していった。さらに声明などの音楽によって、仏の世界の音も体験できるようになる。寺院はそれらがすべて揃った空間の中で、仏と対面し、仏の世界に誘い、仏の世界を体験させる場であったのであろう。

また、街の喧噪からひとたびお寺に入ると、外の音は聞こえてきても、心安らぐ癒しを与えてくれるところがお寺、ないし教会とは言えまいか。昔、インドにはじめて行ったとき、カルカッタの喧噪の中で、ひと人ひと、車やリキシャの群れ、汚れた空気と騒音に疲れたとき飛び込んだキリスト教の教会の静寂のありがたさを思い出す。重い荷物を置いて、手を合わせるわけでもなかったが、静かに椅子に腰掛けるだけで、心安らいだものだった。

ところで、昔友人に、音楽で飯を食っていこうと志した人がいた。ある先生に弟子入りしたところ、素人で歌を習っているときにはとても親切で優しい先生だったのに、本格的にプロになるためにひとたび弟子入りしたら、途端に態度から教え方まで豹変して、まったく人が変わったようにスパルタで厳しくなってしまったという。それでとうとう音を上げて止めてしまったという話を聞いたことがある。

素人の世界とプロの世界とは、そうしたものだろう。どんな業種でも同じことが言えるのではないか。それはお寺であっても同じことではないだろうか。だから、冒頭に述べたように「お寺とはテーマパークで、バーチャルリアリティを体験する場」というのも結構だが、それはあくまでも、素人の世界の話であろう。

プロの世界ではどうかといえば、やはり、昔平安時代にそのお堂を造り修行された真如房尼の、50日間もひたむきに念仏を唱え横にならず歩き通し念仏する常行三昧行を修した姿勢こそが本当のものだろう。若くして亡くなった主人の菩提を願って、ひたすら念仏を行じた厳しさこそ、プロの世界ではないか。

お寺とは、一時の安穏、静寂、癒しの場であると同時に、やはり、一人一人のさとりを求めた修行の場としての厳しさが求められているのではないかと思う。以前チベットのあるリンポチェが高野山に参詣され、山内で二カ所だけ神聖な場があると言われたという。その二カ所とは、弘法大師の御廟前と専修学院という僧侶養成所である。

奥の院と言われる大師の御廟は、ひたすらに何事かを願い参詣する人が後を絶たない場である。また専修学院は、新しく僧侶になる人たちが真剣に修行を重ねる場である。だからこそ神聖なのではあるまいか。

お寺に参詣する人は、仏に帰依してひとときの安らぎを感じて帰るときもあれば、ときに、厳しく己を振り返り、これでよいのかという懺悔の心を、そして、これからどうあるべきかという葛藤の末に、こうあるべきとの誓願を起こし、仏教を実践する場として寺院を捉えて欲しいと思う。

加えて、僧侶は、一分一秒に抱く心の持ちようも業になり、輪廻の業因となることを考えれば、寸時を惜しんで自らの心に気づいていることが求められているのであろう。修行は本堂の本尊様がされていますでは話にならない。

余計なことに心遊ばせ、悪業を重ねることなく、それこそプロとしての姿勢を常に保つことが、誠に難しいことではあるが、それが寺に住まう者としての本来のマナーなのかも知れない。

(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする