(この原稿は、大法輪誌6月号特集「死についての教え」掲載文です。仏教の生死観、いま死から学ぶことの二部構成、素晴らしい内容の特集記事満載です。是非お買い求め下さい)
『死を見つめる修行』
人は身近な人の死に遭遇することで、命のはかなさを思い、死とは何か、生きるとは何かと問いはじめます。
中学生の時友人をガンで亡くした私も、その思いをひきづりつつ成人し、仏教に関心を深めていきました。そして死して人は来世に生まれ変わる輪廻の教えを知りました。それによれば死とは、来世への新たな誕生と言い換えることができます。
ですが、来世には六道という地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つの世界があり、生きとし生けるものは生前になした行いに応じた世界に赴くのです。
どの世界に再生するかもわからず、何度も生き死にを繰り返し、そのいずれに転生しても苦しみがついてまわります。この苦しみ多い生死輪廻の世界から抜け出す、つまり解脱しない限り、何のわずらいもない束縛のない真実の幸せにいたることはありません。
だからこそお釈迦様は出家し、過酷な苦行を何年も重ねたすえに、静かに坐り瞑想されたのでした。そして自身の過去世を如実に見られ、生きとし生けるものが業によって輪廻する様子をご覧になり、そしてすべての煩悩を断じ悟られました。
私たち凡夫には、解脱に一歩でも近づくために、悪をなさず功徳を積み心を清める生き方が求められています。つまり生きるとは、功徳を積むためにあると言うことができます。
お釈迦様がお説きになった様々な修行法は、まさにそのために用意された、功徳多い行いであると言えましょう。
不浄観について
ところで、お釈迦様は、出家の弟子たちには修行の場として静寂な森林や山、洞窟や樹下に加え、墓地で瞑想することを勧められました。
当時の長老方の詩を収録した『長老偈(テーラガーター)』には、死体置き場で女性の死体が投げ捨てられ放棄されて、ウジ虫がみちみちて喰われている様子を観察し、世をいとい、解脱にいたった長老の話が登場します。
そして、タイなどの上座仏教国では、今日でもこの死体を観察する不浄観がきわめて意義ある修行と位置づけられています。タイ比丘落合隆師は『タイ・テーラワーダ仏教の不浄観(「大法輪」平成十三年三月号)』と題する小論にて、不浄観は、「自他の身体への執着から離れることによる深い禅定をめざし、さらにゆるぎない覚醒へ導こうとするもの」であると述べられています。
そしてタイでは、警察病院などの遺体解剖室には比丘はフリーパスで入室が許され、不浄観の修習がなされているということです。
慈雲尊者が説く不浄観
今日わが国では、どの宗派においてもこの不浄観が特別に修行されていると聞くことはありません。
江戸後期の学徳高き清僧・慈雲尊者の『慈雲尊者法語集(三密堂刊)』の中に「不淨觀」と題する法語があります。それによれば、当時既に不浄観を説く者も伝うる者もなく修する者も少なくなり、実に悲しむべき事だと尊者は述べられています。
尊者はここで不浄観の初門を説くとされて、
(一)自身の姿形をよく見て身体の垢を見よ、垢を見て総身ことごとく不浄なることを知れ。
(二)身体の臭気を見よ、つまり、大小便、つば、痰、涙、肉、血、髄、膿など三十六の不浄物が臭く穢いものであることを知り、自分の身体に対する愛著を離れよ。
(三)他者に対するときはただ肉血に対するがごとく、容姿端麗なる人に対しても藁人形のごとく、みな単なる糞嚢のごとくと見て愛著を離れ、自分の身体も他者の身体もともにただの土塊に異ならないと知れ。
(四)この初心の境界を徹見すると、愛著を離れ、瞋恚を離れ、驕慢を離れ、この時三宝に対して浄信が生ずる。最初から古人のごとくいかずとも、しだいに煩悩微薄となり、怒りの心もなくなり、怒りを顔に出すことも口にすることもなくなる。名利に走ることなく、名誉栄冠に心奪われることもない。このように尊者は不浄観を教えられています。
慈雲尊者は、この法語の冒頭で、お釈迦様在世の折、不浄観を修した比丘が、死臭ただよう身を厭い、早く死にたくなり、他者に殺させたという事例をあげており、そうした悪弊をおそれてか、ここでは死体を観想するといった不浄観には言及していません。
因みに、日本では『大智度論』『倶舎論』などを典拠に、不浄観は九想(相)観として修されてきたようです。がここでは、南方上座仏教に伝わる不浄観を見てみましょう。
十不浄
五世紀中頃セイロンでブッダゴーサによって著された『清浄道論』(南伝大蔵経第六二巻)によれば、不浄観は「十不浄業處(十種類の不浄なる瞑想の対象)」として説かれています。
「十不浄」とは、死体が次第に変化していく様子を左記のような段階に応じて観察し、人間の肉体は不浄なものであると観て愛欲を遠離するための瞑想法です。
(一)膨脹相・寿命が尽きて数日経ち、しだいに皮膚が膨張した死体を観想する。
(二)青お相・皮膚が青くなり膿んで白くなった死体を観想する。
(三)膿爛相・皮膚やぶれ膿が流れ出ている様子などを観想する。
(四)断壊相・戦場などで切られたり、獅子や虎によって喰い裂かれた死体の切断された様子を観想する。
(五)食残相・犬や禿鷹などにつつき喰い散らかされた死体を観想する。
(六)散乱相・手足頭が別々に散乱した死体を観想する。
(七)斬斫散乱相・四肢五体を斬り刻まれ散乱した状態を観想する。
(八)血塗相・血が流れ飛び散った状態を観想する。
(九)蟲衆相・ウジ虫が充満し這い回る様子を観想する。
(十)骸骨相・骸骨となりはてた死体を観想する。
『清浄道論』には、この不浄観を修する場合の注意事項として、
①その場所に至りては、目にする周囲の様子を細かく観察しつつ死体を眺める。
②そのうえで、その対象である死体の十種の相に応じて色、特徴、形、身体の向き、手足頭、関節、身体の凹凸などと細かく観察し、目を閉じてもその相が違わずに現れるまで瞑想する。
③もしも、その場で禅定に入らざれば、瞑想しつつ歩き、適当な場所にて、その不浄相に心身をかたむけて座すべしと述べられています。
そして、その功徳として生死の苦界から脱しようという心が起こり、愛欲が断ぜられ瞋恚も断じ、五蓋(世俗の貪欲、悪意と怒り、沈鬱と眠り、うわつきと後悔、疑い)が捨断されて初禅に至るとあります。
一般にこの不浄観は、性欲の横溢な人に適した修行とされているようです。ですが、誰もが肉体の欲求に振り回され生きていることを考えれば、不浄観は万人にとって必修すべき修行と言えるでしょう。
こうしてお釈迦さまの時代には、多くの比丘が墓場で瞑想修行に励み、諸欲を断じ禅定を深めていきました。
死随念について
そして、仏教では他者の死を修行の対象とするばかりか、自らの死をも瞑想修行の対象としました。『清浄道論』(同第六三巻)には、十随念(十の対象を心に念じる瞑想)の一つとして「死随念」が説かれています。
死随念とは、「死、死、死だけがある」と観念する瞑想のことで、具体的には次のような八種の修習法が解説されています。
(一)生まれた者には必ず死が訪れる、生まれた瞬間から老死がともない、生きることは瞬間瞬間に老い死に向かいつつある現実により自分の死を観想する。
(二)権勢を誇る人も、健康な人も、病気になり老衰し死にいたる。どんなに盛んなるものもいずれ死の凋落にいたることから自分の死を観想する。
(三)富める人も、名声ある人も、たとえ智慧あり悟った人であったとしてもついには病気になり死ぬように自分にも死が訪れると自分の死を観想する。
(四)多くの病気を起こしたり、外部からの危害を受けて、死にいたる身体は、多くの人と共通することから自分の死を観想する。
(五)命あるものは、呼吸、睡眠、気温、環境、食事などが適度になされなければ忽ち死にいたる。このように命とはもろいものであると知ることから自分の死を観想する。
(六)いつまで生きられるか、どんな病気になるか、どこで死ぬか、死して六道のどこへ転生するかもわからない不確定なることから自分の死を観想する。
(七)長命であったとしても百歳内外にすぎない、寿命は誠に短いものであり、人の命に限りあることから自分の死を観想する。
(八)一切の生けるものの命は、心が刹那刹那に変化するがごとく、連続して無数の生死を繰り返している、その刹那の短いことから自分の死を観想する。
このように死随念を修すると、無常・苦・無我を理解し、生きることに対する執着が無くなり、悪事をせず欲に溺れることもない。いつ死が訪れても戦慄せず怖れもなく、不益なことに心が向かうこともなくなると教えられています。解脱に至らない場合には、来世で天界(道)に生まれるともあります。
このように他者の死、自分の死を瞑想することによって、なにごとも移ろい変化し滅していく理を、つまりは無常という真理を身を以て知り、輪廻の因となる生きたいという執着を滅し尽くすことに専念できるようになるのです。
私も、解脱に一歩でも近づけるように、この功徳多い不浄観、死随念を心して修したいと思います。
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『死を見つめる修行』
人は身近な人の死に遭遇することで、命のはかなさを思い、死とは何か、生きるとは何かと問いはじめます。
中学生の時友人をガンで亡くした私も、その思いをひきづりつつ成人し、仏教に関心を深めていきました。そして死して人は来世に生まれ変わる輪廻の教えを知りました。それによれば死とは、来世への新たな誕生と言い換えることができます。
ですが、来世には六道という地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つの世界があり、生きとし生けるものは生前になした行いに応じた世界に赴くのです。
どの世界に再生するかもわからず、何度も生き死にを繰り返し、そのいずれに転生しても苦しみがついてまわります。この苦しみ多い生死輪廻の世界から抜け出す、つまり解脱しない限り、何のわずらいもない束縛のない真実の幸せにいたることはありません。
だからこそお釈迦様は出家し、過酷な苦行を何年も重ねたすえに、静かに坐り瞑想されたのでした。そして自身の過去世を如実に見られ、生きとし生けるものが業によって輪廻する様子をご覧になり、そしてすべての煩悩を断じ悟られました。
私たち凡夫には、解脱に一歩でも近づくために、悪をなさず功徳を積み心を清める生き方が求められています。つまり生きるとは、功徳を積むためにあると言うことができます。
お釈迦様がお説きになった様々な修行法は、まさにそのために用意された、功徳多い行いであると言えましょう。
不浄観について
ところで、お釈迦様は、出家の弟子たちには修行の場として静寂な森林や山、洞窟や樹下に加え、墓地で瞑想することを勧められました。
当時の長老方の詩を収録した『長老偈(テーラガーター)』には、死体置き場で女性の死体が投げ捨てられ放棄されて、ウジ虫がみちみちて喰われている様子を観察し、世をいとい、解脱にいたった長老の話が登場します。
そして、タイなどの上座仏教国では、今日でもこの死体を観察する不浄観がきわめて意義ある修行と位置づけられています。タイ比丘落合隆師は『タイ・テーラワーダ仏教の不浄観(「大法輪」平成十三年三月号)』と題する小論にて、不浄観は、「自他の身体への執着から離れることによる深い禅定をめざし、さらにゆるぎない覚醒へ導こうとするもの」であると述べられています。
そしてタイでは、警察病院などの遺体解剖室には比丘はフリーパスで入室が許され、不浄観の修習がなされているということです。
慈雲尊者が説く不浄観
今日わが国では、どの宗派においてもこの不浄観が特別に修行されていると聞くことはありません。
江戸後期の学徳高き清僧・慈雲尊者の『慈雲尊者法語集(三密堂刊)』の中に「不淨觀」と題する法語があります。それによれば、当時既に不浄観を説く者も伝うる者もなく修する者も少なくなり、実に悲しむべき事だと尊者は述べられています。
尊者はここで不浄観の初門を説くとされて、
(一)自身の姿形をよく見て身体の垢を見よ、垢を見て総身ことごとく不浄なることを知れ。
(二)身体の臭気を見よ、つまり、大小便、つば、痰、涙、肉、血、髄、膿など三十六の不浄物が臭く穢いものであることを知り、自分の身体に対する愛著を離れよ。
(三)他者に対するときはただ肉血に対するがごとく、容姿端麗なる人に対しても藁人形のごとく、みな単なる糞嚢のごとくと見て愛著を離れ、自分の身体も他者の身体もともにただの土塊に異ならないと知れ。
(四)この初心の境界を徹見すると、愛著を離れ、瞋恚を離れ、驕慢を離れ、この時三宝に対して浄信が生ずる。最初から古人のごとくいかずとも、しだいに煩悩微薄となり、怒りの心もなくなり、怒りを顔に出すことも口にすることもなくなる。名利に走ることなく、名誉栄冠に心奪われることもない。このように尊者は不浄観を教えられています。
慈雲尊者は、この法語の冒頭で、お釈迦様在世の折、不浄観を修した比丘が、死臭ただよう身を厭い、早く死にたくなり、他者に殺させたという事例をあげており、そうした悪弊をおそれてか、ここでは死体を観想するといった不浄観には言及していません。
因みに、日本では『大智度論』『倶舎論』などを典拠に、不浄観は九想(相)観として修されてきたようです。がここでは、南方上座仏教に伝わる不浄観を見てみましょう。
十不浄
五世紀中頃セイロンでブッダゴーサによって著された『清浄道論』(南伝大蔵経第六二巻)によれば、不浄観は「十不浄業處(十種類の不浄なる瞑想の対象)」として説かれています。
「十不浄」とは、死体が次第に変化していく様子を左記のような段階に応じて観察し、人間の肉体は不浄なものであると観て愛欲を遠離するための瞑想法です。
(一)膨脹相・寿命が尽きて数日経ち、しだいに皮膚が膨張した死体を観想する。
(二)青お相・皮膚が青くなり膿んで白くなった死体を観想する。
(三)膿爛相・皮膚やぶれ膿が流れ出ている様子などを観想する。
(四)断壊相・戦場などで切られたり、獅子や虎によって喰い裂かれた死体の切断された様子を観想する。
(五)食残相・犬や禿鷹などにつつき喰い散らかされた死体を観想する。
(六)散乱相・手足頭が別々に散乱した死体を観想する。
(七)斬斫散乱相・四肢五体を斬り刻まれ散乱した状態を観想する。
(八)血塗相・血が流れ飛び散った状態を観想する。
(九)蟲衆相・ウジ虫が充満し這い回る様子を観想する。
(十)骸骨相・骸骨となりはてた死体を観想する。
『清浄道論』には、この不浄観を修する場合の注意事項として、
①その場所に至りては、目にする周囲の様子を細かく観察しつつ死体を眺める。
②そのうえで、その対象である死体の十種の相に応じて色、特徴、形、身体の向き、手足頭、関節、身体の凹凸などと細かく観察し、目を閉じてもその相が違わずに現れるまで瞑想する。
③もしも、その場で禅定に入らざれば、瞑想しつつ歩き、適当な場所にて、その不浄相に心身をかたむけて座すべしと述べられています。
そして、その功徳として生死の苦界から脱しようという心が起こり、愛欲が断ぜられ瞋恚も断じ、五蓋(世俗の貪欲、悪意と怒り、沈鬱と眠り、うわつきと後悔、疑い)が捨断されて初禅に至るとあります。
一般にこの不浄観は、性欲の横溢な人に適した修行とされているようです。ですが、誰もが肉体の欲求に振り回され生きていることを考えれば、不浄観は万人にとって必修すべき修行と言えるでしょう。
こうしてお釈迦さまの時代には、多くの比丘が墓場で瞑想修行に励み、諸欲を断じ禅定を深めていきました。
死随念について
そして、仏教では他者の死を修行の対象とするばかりか、自らの死をも瞑想修行の対象としました。『清浄道論』(同第六三巻)には、十随念(十の対象を心に念じる瞑想)の一つとして「死随念」が説かれています。
死随念とは、「死、死、死だけがある」と観念する瞑想のことで、具体的には次のような八種の修習法が解説されています。
(一)生まれた者には必ず死が訪れる、生まれた瞬間から老死がともない、生きることは瞬間瞬間に老い死に向かいつつある現実により自分の死を観想する。
(二)権勢を誇る人も、健康な人も、病気になり老衰し死にいたる。どんなに盛んなるものもいずれ死の凋落にいたることから自分の死を観想する。
(三)富める人も、名声ある人も、たとえ智慧あり悟った人であったとしてもついには病気になり死ぬように自分にも死が訪れると自分の死を観想する。
(四)多くの病気を起こしたり、外部からの危害を受けて、死にいたる身体は、多くの人と共通することから自分の死を観想する。
(五)命あるものは、呼吸、睡眠、気温、環境、食事などが適度になされなければ忽ち死にいたる。このように命とはもろいものであると知ることから自分の死を観想する。
(六)いつまで生きられるか、どんな病気になるか、どこで死ぬか、死して六道のどこへ転生するかもわからない不確定なることから自分の死を観想する。
(七)長命であったとしても百歳内外にすぎない、寿命は誠に短いものであり、人の命に限りあることから自分の死を観想する。
(八)一切の生けるものの命は、心が刹那刹那に変化するがごとく、連続して無数の生死を繰り返している、その刹那の短いことから自分の死を観想する。
このように死随念を修すると、無常・苦・無我を理解し、生きることに対する執着が無くなり、悪事をせず欲に溺れることもない。いつ死が訪れても戦慄せず怖れもなく、不益なことに心が向かうこともなくなると教えられています。解脱に至らない場合には、来世で天界(道)に生まれるともあります。
このように他者の死、自分の死を瞑想することによって、なにごとも移ろい変化し滅していく理を、つまりは無常という真理を身を以て知り、輪廻の因となる生きたいという執着を滅し尽くすことに専念できるようになるのです。
私も、解脱に一歩でも近づけるように、この功徳多い不浄観、死随念を心して修したいと思います。
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