(大法輪誌平成十三年九月号掲載)
前回は、仏教教団が二つに分裂した後、アショーカ王によってインド国内はもとより、周辺の諸外国にまで仏教が宣布されたこと。そして、その後仏教教団はたくさんの部派に分かれ、僧院を中心に自らの修道と教義研究に励むお坊さんに対し、在家信者は仏塔を盛んに崇拝していたことを述べました。
今回は、紀元前一世紀頃から起こる大乗仏教運動を中心に述べてみようと思います。
新しい仏教の興起
前回触れたように、マウリヤ王朝衰退後、前二世紀頃から再びインドは分裂状態となり、西方の異民族が相ついで武力侵入を繰り返しておりました。インド社会は混乱の極に達し、多くの民衆は、侵略者に田畑を取られ、家畜を殺され、一家離散の運命に喘いでいました。こうした当時の人々の心の依りどころとして仏塔があり、そこに集まった人々は香や花を供え、歌舞音曲など法楽をささげ供養していました。
そして、仏塔を建立荘厳し、また礼拝供養する功徳に預かることによって、来世ではよりよい世界に生まれたいという自然な感情が芽生えていきました。そうした心の救いを求める在家信者たちの宗教的欲求、つまり信仰による救済を仏教思想として肯定してくれる教えが、正にこの時代待望されていたのです。
また、異民族の流入は社会に混乱をもたらす一方で東西交流を育み、西アジアの宗教・ゾロアスター教がインドにもたらされ、大乗仏教の成立に影響を与えたと考えられています。
大乗仏教の成立
お釈迦様が現れる前にも過去に仏がおられた、また、未来にも仏が現れるであろうという考えが、前二世紀頃には次第に普及していたと言われています。そしてその後、仏塔を管理し信者たちの指導に当たっていた在家の仏教者とこれを好意的に支持していた大衆部系の部派教団によって、現在にも十方に仏たちは生きているはずだという信仰が生まれていきました。
未来の仏としては弥勒如来が、現在の仏としては西方の阿弥陀如来、東方の阿閦如来などがおられるといった信仰が、既に大乗仏教成立前に生じておりました。如来とは真理に到達した人のことであり、仏陀(さとった人)と同意で用いられます。
さらには、ジャータカにおいてお釈迦様の無数の前世における異名であった「菩薩(さとりを求める人)」という言葉を用いて、やがては仏となるであろう菩薩が無数にいるに違いないと考えられるようになりました。観音菩薩や文殊菩薩、地蔵菩薩といった、今も私たちの身近にある菩薩たちが早くもこのころ登場してまいります。
そして、仏塔にあって儀礼や修行に励む在家の仏教者たちによって、現世での救済を約束する現在諸仏への信仰、また菩薩の思想を基礎に据えた新しい仏教の諸教理が研究され、在家者による在家者のための大乗仏教運動が成熟していきました。
そして、おそらく前一世紀頃、様々な地域でそれぞれに新たなグループが形成され、僧院に暮らす部派仏教のお坊さんたちを小乗(小さな乗物)と批難し、自らを大乗(迷いの世界からさとりの世界にいたる大いなる乗物)と名のったのでありました。そうして仏教をすべての人々のための教えとして捉え、民衆の救済を訴えたのであります。
大乗経典の制作
大乗仏教がそれまでの教えと違って、新しい教えであることを表す象徴的なものが、新たな経典の作成でありました。
当時部派仏教教団の中で、最も強大な勢力を誇っていたのは、説一切有部という上座部系の部派でありました。西北インドを本拠としていた説一切有部は、煩瑣な教理哲学を構築し、その名の示すとおり、一切のもの(自我を除く)は実在すると主張しておりました。お釈迦様が教えられた無常や無我といった、ものを実体として見ないという仏教本来の見方を一見覆しかねないと思える哲学を展開していたのです。
そして、正にこの説一切有部の哲学をことごとく批判し、お釈迦様の精神に帰れというスローガンのもとに、般若経など初期大乗経典は生み出されていくのです。
「般若経」は、大乗という言葉をはじめて用いたお経であり、すべてのものは多くの原因と条件によって存在しており、他と関係なく独自に存在するものではない、そのことを「空」といい、すべてのものは空なのであるから、何ものにも執着しない智慧の完成を求めるべきであると説いています。そして、それを求める者は諸仏諸菩薩に護られ、導かれ、称讃されているとしています。原初的なものは既に紀元前一世紀に成立していたと言われています。
また、妙法を泥中から生じて泥に汚れない蓮華に喩え、仏陀の衆生救済の大慈悲を巧みに示した「法華経」、世界を毘盧舎那仏の現れであるとし、一微塵の中に全世界を映し、一瞬の中に永遠を含む世界観を展開する「華厳経」や、無量の寿命と光明の仏・阿弥陀仏が菩薩のとき衆生救済の為に大願を発し、願が成就して極楽国土を建立して衆生を救済するという「大無量寿経」など。いずれも二~三世紀のかなり早い時期に成立していたとされています。
こうした大乗の諸経典は、当時の仏教説話や仏伝から題材を集め、戯曲的な構成として、その中に大乗仏教の教理を含ませ、当時の民衆のために、知られざる作者によって知られざる場所でつくられたものだと言われています。
仏像の誕生
こうした大乗経典が盛んに生み出されていた一世紀中頃、中央アジアの遊牧民クシャーン族は西北インドのガンダーラに侵入し、瞬く間に中インドまでを制圧していました。そして、この大規模な異民族侵入のさなか、一世紀末葉、仏滅後五〇〇年もの間作られることのなかった仏像が、浮彫の石彫仏伝図として誕生することになりました。
仏像は、ガンダーラとインド中部のマツラーの二カ所で、ほぼ同時期に別々に現れたと言われています。ガンダーラ仏はギリシャの彫刻様式に習熟した外来の工匠の手によるものと見られ、またマツラー仏は丸く鋭い顔付きと均斉のとれた力量感のある力強い体躯の造型を特徴としています。ともに初期には、お釈迦様を中心とした造像であり、大衆部など部派仏教教団へ在家信者らによって奉献されたものと考えられています。
クシャーン王朝は、第三代カニシュカ王(在位一四四ー一七三年)の時最盛期を迎え、北インド全土が支配されることになります。カニシュカ王はその権勢を誇るために自らの姿を刻ませた金貨をつくり、その裏にはさまざまな神々を刻ませました。発見された金貨の中には仏像を刻んだものもあり、ギリシャ語でボッドと記されていました。
また、ローマとの交易で経済的にも栄え、学術文化の交流も盛んとなりました。特に、建築美術面での隆盛を極め、様々な仏菩薩像をはじめ、ヒンドゥー教ジャイナ教などでも盛んに尊像制作が進められていきました。
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前回は、仏教教団が二つに分裂した後、アショーカ王によってインド国内はもとより、周辺の諸外国にまで仏教が宣布されたこと。そして、その後仏教教団はたくさんの部派に分かれ、僧院を中心に自らの修道と教義研究に励むお坊さんに対し、在家信者は仏塔を盛んに崇拝していたことを述べました。
今回は、紀元前一世紀頃から起こる大乗仏教運動を中心に述べてみようと思います。
新しい仏教の興起
前回触れたように、マウリヤ王朝衰退後、前二世紀頃から再びインドは分裂状態となり、西方の異民族が相ついで武力侵入を繰り返しておりました。インド社会は混乱の極に達し、多くの民衆は、侵略者に田畑を取られ、家畜を殺され、一家離散の運命に喘いでいました。こうした当時の人々の心の依りどころとして仏塔があり、そこに集まった人々は香や花を供え、歌舞音曲など法楽をささげ供養していました。
そして、仏塔を建立荘厳し、また礼拝供養する功徳に預かることによって、来世ではよりよい世界に生まれたいという自然な感情が芽生えていきました。そうした心の救いを求める在家信者たちの宗教的欲求、つまり信仰による救済を仏教思想として肯定してくれる教えが、正にこの時代待望されていたのです。
また、異民族の流入は社会に混乱をもたらす一方で東西交流を育み、西アジアの宗教・ゾロアスター教がインドにもたらされ、大乗仏教の成立に影響を与えたと考えられています。
大乗仏教の成立
お釈迦様が現れる前にも過去に仏がおられた、また、未来にも仏が現れるであろうという考えが、前二世紀頃には次第に普及していたと言われています。そしてその後、仏塔を管理し信者たちの指導に当たっていた在家の仏教者とこれを好意的に支持していた大衆部系の部派教団によって、現在にも十方に仏たちは生きているはずだという信仰が生まれていきました。
未来の仏としては弥勒如来が、現在の仏としては西方の阿弥陀如来、東方の阿閦如来などがおられるといった信仰が、既に大乗仏教成立前に生じておりました。如来とは真理に到達した人のことであり、仏陀(さとった人)と同意で用いられます。
さらには、ジャータカにおいてお釈迦様の無数の前世における異名であった「菩薩(さとりを求める人)」という言葉を用いて、やがては仏となるであろう菩薩が無数にいるに違いないと考えられるようになりました。観音菩薩や文殊菩薩、地蔵菩薩といった、今も私たちの身近にある菩薩たちが早くもこのころ登場してまいります。
そして、仏塔にあって儀礼や修行に励む在家の仏教者たちによって、現世での救済を約束する現在諸仏への信仰、また菩薩の思想を基礎に据えた新しい仏教の諸教理が研究され、在家者による在家者のための大乗仏教運動が成熟していきました。
そして、おそらく前一世紀頃、様々な地域でそれぞれに新たなグループが形成され、僧院に暮らす部派仏教のお坊さんたちを小乗(小さな乗物)と批難し、自らを大乗(迷いの世界からさとりの世界にいたる大いなる乗物)と名のったのでありました。そうして仏教をすべての人々のための教えとして捉え、民衆の救済を訴えたのであります。
大乗経典の制作
大乗仏教がそれまでの教えと違って、新しい教えであることを表す象徴的なものが、新たな経典の作成でありました。
当時部派仏教教団の中で、最も強大な勢力を誇っていたのは、説一切有部という上座部系の部派でありました。西北インドを本拠としていた説一切有部は、煩瑣な教理哲学を構築し、その名の示すとおり、一切のもの(自我を除く)は実在すると主張しておりました。お釈迦様が教えられた無常や無我といった、ものを実体として見ないという仏教本来の見方を一見覆しかねないと思える哲学を展開していたのです。
そして、正にこの説一切有部の哲学をことごとく批判し、お釈迦様の精神に帰れというスローガンのもとに、般若経など初期大乗経典は生み出されていくのです。
「般若経」は、大乗という言葉をはじめて用いたお経であり、すべてのものは多くの原因と条件によって存在しており、他と関係なく独自に存在するものではない、そのことを「空」といい、すべてのものは空なのであるから、何ものにも執着しない智慧の完成を求めるべきであると説いています。そして、それを求める者は諸仏諸菩薩に護られ、導かれ、称讃されているとしています。原初的なものは既に紀元前一世紀に成立していたと言われています。
また、妙法を泥中から生じて泥に汚れない蓮華に喩え、仏陀の衆生救済の大慈悲を巧みに示した「法華経」、世界を毘盧舎那仏の現れであるとし、一微塵の中に全世界を映し、一瞬の中に永遠を含む世界観を展開する「華厳経」や、無量の寿命と光明の仏・阿弥陀仏が菩薩のとき衆生救済の為に大願を発し、願が成就して極楽国土を建立して衆生を救済するという「大無量寿経」など。いずれも二~三世紀のかなり早い時期に成立していたとされています。
こうした大乗の諸経典は、当時の仏教説話や仏伝から題材を集め、戯曲的な構成として、その中に大乗仏教の教理を含ませ、当時の民衆のために、知られざる作者によって知られざる場所でつくられたものだと言われています。
仏像の誕生
こうした大乗経典が盛んに生み出されていた一世紀中頃、中央アジアの遊牧民クシャーン族は西北インドのガンダーラに侵入し、瞬く間に中インドまでを制圧していました。そして、この大規模な異民族侵入のさなか、一世紀末葉、仏滅後五〇〇年もの間作られることのなかった仏像が、浮彫の石彫仏伝図として誕生することになりました。
仏像は、ガンダーラとインド中部のマツラーの二カ所で、ほぼ同時期に別々に現れたと言われています。ガンダーラ仏はギリシャの彫刻様式に習熟した外来の工匠の手によるものと見られ、またマツラー仏は丸く鋭い顔付きと均斉のとれた力量感のある力強い体躯の造型を特徴としています。ともに初期には、お釈迦様を中心とした造像であり、大衆部など部派仏教教団へ在家信者らによって奉献されたものと考えられています。
クシャーン王朝は、第三代カニシュカ王(在位一四四ー一七三年)の時最盛期を迎え、北インド全土が支配されることになります。カニシュカ王はその権勢を誇るために自らの姿を刻ませた金貨をつくり、その裏にはさまざまな神々を刻ませました。発見された金貨の中には仏像を刻んだものもあり、ギリシャ語でボッドと記されていました。
また、ローマとの交易で経済的にも栄え、学術文化の交流も盛んとなりました。特に、建築美術面での隆盛を極め、様々な仏菩薩像をはじめ、ヒンドゥー教ジャイナ教などでも盛んに尊像制作が進められていきました。
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