憲法記念日のきのう、新聞各社は申し合わせたように、社説で憲法問題を
論じている。そのなかで異彩を放っていたのは、朝日新聞である。主要な
新聞の社説が読めるサイト「新聞社説一覧」には、きのうもきょうも、朝
日の社説は載っていない。「あれれ?」と思って確かめると、きのうの
朝日の紙面には、憲法問題をテーマにした社説が二本も掲載されている。
《憲法70年 この歴史への自負を失うまい》と《憲法70年 先人刻んだ
立憲を次代へ》である。
この二本のうち、私の心に残ったのは後者の方である。
こちらの社説は、5年前に公表した憲法改正草案で、自民党が「個人」の
文言を削ってこれを「人」に書き変えるとともに、「和」の尊重を書きこ
んだことに注目している。ここに表れているのは、「個人という異様な思
想」を、――あるいは「個人主義」という西洋に固有の思想を、意に染ま
ないものとして退け、「和の精神」を強調することで、社会への同調圧力
を強めようとする発想だと社説は言う。だが、「ただでさえ同調圧力の強
いこの社会で、和の精神は、するりと『強制と排除の論理』に入れ替わり
うる」。そこに朝日は、軍国主義の復活に傾こうとする時代の、危険な発
想を読み取るのである。
この危険な発想に、最近の北朝鮮の軍事強行路線がリアリティーを与えて
いるとしたら、これは皮肉というほかない。
日本の改憲論議が北朝鮮問題と密接にリンクすることは、産経新聞の社説
(5月3日付)に、分かりやすい形で表れている。
産経の社説《北朝鮮をめぐる情勢は、日本にとって戦後最大の危機となり
つつある 日本国民を守る視点を欠く憲法は一日も早く正そう》は、この
タイトルの通り、次のように主張する。
「核・弾道ミサイル戦力の強化に突き進む北朝鮮の脅威を前にして、明白
になったことがある。それは、憲法9条と前文が、日本の平和を保つ上で
役立たないという現実である。(中略)国民を守る視点を欠く憲法は一日
も早く正すべきだ。」
このバリバリ改憲派の主張に対して、護憲派は「憲法9条が持つリアリズ
ム」を主張して、断固対抗しようとするだろう。だが、この「リアリズム」
の主張に説得力を持たせることは、そう容易ではない。歴史の審判に堪え
得るのは、はたして北朝鮮なのか、それとも(9条をかかげる)日本なのか。
その答えが得られるまでに、どれぐらいの歳月が必要なのか。
この文章を書きながら、私は、一年前の憲法記念日前後にアップした本ブ
ログの記事(2016.5.4《憲法論議をさりげなく》)を思い起こし、そこで
取り上げた東京新聞の社説を思い起こした。ちょっと(というか、かな
り)長いが、以下にそれを再録しよう。この一年間をふり返ると、北朝鮮
の核兵器開発強行路線ばかりが印象に残るが、議論の構図そのものは、一
年経ってもちっとも変わっていない。このことは何を意味するのだろう
か。
(以下、再録)
ネットで社説をチェックしていたら、おもしろい言葉に出会った。東京新
聞が紹介する言葉だ。
「ラテン語で表題が書かれた文章があります。訳せば「『汝(なんじ)、
平和を欲すれば、戦争を準備せよ』と『汝、平和を欲すれば、平和を準備
せよ』」です。一九三三年に書かれた論文で、筆者は東大法学部教授の横
田喜三郎でした。」
横田が論文で言及した、この「汝(なんじ)、平和を欲すれば、戦争を準
備せよ」という言葉は、その昔、オーストリア・ハンガリー帝国の陸軍省
の扉に書いてあった標語である。
「強大な軍備を用意しておけば、他国は戦争を仕掛けてこないだろうか
ら、平和を得られる」という意味がこめられているという。
今、日本で、「護憲か、改憲か」と問いを投げかけ、改憲の必要を主張す
る人たちの根本にある考え方は、まさにこの標語が含意するものだろう。
平和を得るためには、強大な軍備を用意する必要がある。だが、日本では
憲法がそれを妨げている。これでは国民の安寧は守れない。だからまずは
憲法を改正すべきだ、というわけである。
では、この考え方に従うと、懸案の平和はいったいどういうことになるの
か。
それは歴史が証明している。東京新聞によれば、横田は次のように書いて
いる。
「標語に従つて、各国はひたすら戦争の準備を行い、互(たがい)に強大
な軍備を用意することに努力した。そこに猛烈な軍備競争が起(おこ)つ
た。その結果は世界大戦であつた。」
標語の考え方がもたらしたのは、第一次世界大戦の戦禍だった。この標語
を掲げたオーストリア・ハンガリー帝国は、皮肉なことに、この大戦の結
果、崩壊したという。
戦後、平和を実現しようとして「不戦条約」がパリで締結された。その根
本にあったのが、「汝、平和を欲すれば、平和を準備せよ」という言葉
だった。
これは、フランスのアーヴルの市民たちが当時、金言として尊重していた
ものである。横田はこう書いている。
「アーヴル市民の金言が世界の指導原理となつた。平和を準備するため
に、各国は協力して、軍備を縮少(小)し、戦争を禁止し、紛争の平和的
解決に努力した。」
紹介記事風のこの社説で、東京新聞が訴えたかったこと、それは、
「汝(なんじ)、平和を欲すれば、戦争を準備せよ」という考え方よりも、
「汝、平和を欲すれば、平和を準備せよ」という考え方のほうが、平和を
実現する原理として機能する、ということである。
(再録、ここまで)
歴史をふり返れば、パリ不戦条約が締結されてからも、世界のあちこちで
戦争は絶えなかった。「汝(なんじ)、平和を欲すれば、戦争を準備せよ」
という考え方よりも、「汝、平和を欲すれば、平和を準備せよ」という考
え方のほうが、平和を実現する原理として機能する、と何の留保もなしに
断言できるのかどうか。ここにも疑問符が付きまとう。う〜ん、難しい問
題である。
一年後の来年も、同じ問題に悩まされるのだろうか。
論じている。そのなかで異彩を放っていたのは、朝日新聞である。主要な
新聞の社説が読めるサイト「新聞社説一覧」には、きのうもきょうも、朝
日の社説は載っていない。「あれれ?」と思って確かめると、きのうの
朝日の紙面には、憲法問題をテーマにした社説が二本も掲載されている。
《憲法70年 この歴史への自負を失うまい》と《憲法70年 先人刻んだ
立憲を次代へ》である。
この二本のうち、私の心に残ったのは後者の方である。
こちらの社説は、5年前に公表した憲法改正草案で、自民党が「個人」の
文言を削ってこれを「人」に書き変えるとともに、「和」の尊重を書きこ
んだことに注目している。ここに表れているのは、「個人という異様な思
想」を、――あるいは「個人主義」という西洋に固有の思想を、意に染ま
ないものとして退け、「和の精神」を強調することで、社会への同調圧力
を強めようとする発想だと社説は言う。だが、「ただでさえ同調圧力の強
いこの社会で、和の精神は、するりと『強制と排除の論理』に入れ替わり
うる」。そこに朝日は、軍国主義の復活に傾こうとする時代の、危険な発
想を読み取るのである。
この危険な発想に、最近の北朝鮮の軍事強行路線がリアリティーを与えて
いるとしたら、これは皮肉というほかない。
日本の改憲論議が北朝鮮問題と密接にリンクすることは、産経新聞の社説
(5月3日付)に、分かりやすい形で表れている。
産経の社説《北朝鮮をめぐる情勢は、日本にとって戦後最大の危機となり
つつある 日本国民を守る視点を欠く憲法は一日も早く正そう》は、この
タイトルの通り、次のように主張する。
「核・弾道ミサイル戦力の強化に突き進む北朝鮮の脅威を前にして、明白
になったことがある。それは、憲法9条と前文が、日本の平和を保つ上で
役立たないという現実である。(中略)国民を守る視点を欠く憲法は一日
も早く正すべきだ。」
このバリバリ改憲派の主張に対して、護憲派は「憲法9条が持つリアリズ
ム」を主張して、断固対抗しようとするだろう。だが、この「リアリズム」
の主張に説得力を持たせることは、そう容易ではない。歴史の審判に堪え
得るのは、はたして北朝鮮なのか、それとも(9条をかかげる)日本なのか。
その答えが得られるまでに、どれぐらいの歳月が必要なのか。
この文章を書きながら、私は、一年前の憲法記念日前後にアップした本ブ
ログの記事(2016.5.4《憲法論議をさりげなく》)を思い起こし、そこで
取り上げた東京新聞の社説を思い起こした。ちょっと(というか、かな
り)長いが、以下にそれを再録しよう。この一年間をふり返ると、北朝鮮
の核兵器開発強行路線ばかりが印象に残るが、議論の構図そのものは、一
年経ってもちっとも変わっていない。このことは何を意味するのだろう
か。
(以下、再録)
ネットで社説をチェックしていたら、おもしろい言葉に出会った。東京新
聞が紹介する言葉だ。
「ラテン語で表題が書かれた文章があります。訳せば「『汝(なんじ)、
平和を欲すれば、戦争を準備せよ』と『汝、平和を欲すれば、平和を準備
せよ』」です。一九三三年に書かれた論文で、筆者は東大法学部教授の横
田喜三郎でした。」
横田が論文で言及した、この「汝(なんじ)、平和を欲すれば、戦争を準
備せよ」という言葉は、その昔、オーストリア・ハンガリー帝国の陸軍省
の扉に書いてあった標語である。
「強大な軍備を用意しておけば、他国は戦争を仕掛けてこないだろうか
ら、平和を得られる」という意味がこめられているという。
今、日本で、「護憲か、改憲か」と問いを投げかけ、改憲の必要を主張す
る人たちの根本にある考え方は、まさにこの標語が含意するものだろう。
平和を得るためには、強大な軍備を用意する必要がある。だが、日本では
憲法がそれを妨げている。これでは国民の安寧は守れない。だからまずは
憲法を改正すべきだ、というわけである。
では、この考え方に従うと、懸案の平和はいったいどういうことになるの
か。
それは歴史が証明している。東京新聞によれば、横田は次のように書いて
いる。
「標語に従つて、各国はひたすら戦争の準備を行い、互(たがい)に強大
な軍備を用意することに努力した。そこに猛烈な軍備競争が起(おこ)つ
た。その結果は世界大戦であつた。」
標語の考え方がもたらしたのは、第一次世界大戦の戦禍だった。この標語
を掲げたオーストリア・ハンガリー帝国は、皮肉なことに、この大戦の結
果、崩壊したという。
戦後、平和を実現しようとして「不戦条約」がパリで締結された。その根
本にあったのが、「汝、平和を欲すれば、平和を準備せよ」という言葉
だった。
これは、フランスのアーヴルの市民たちが当時、金言として尊重していた
ものである。横田はこう書いている。
「アーヴル市民の金言が世界の指導原理となつた。平和を準備するため
に、各国は協力して、軍備を縮少(小)し、戦争を禁止し、紛争の平和的
解決に努力した。」
紹介記事風のこの社説で、東京新聞が訴えたかったこと、それは、
「汝(なんじ)、平和を欲すれば、戦争を準備せよ」という考え方よりも、
「汝、平和を欲すれば、平和を準備せよ」という考え方のほうが、平和を
実現する原理として機能する、ということである。
(再録、ここまで)
歴史をふり返れば、パリ不戦条約が締結されてからも、世界のあちこちで
戦争は絶えなかった。「汝(なんじ)、平和を欲すれば、戦争を準備せよ」
という考え方よりも、「汝、平和を欲すれば、平和を準備せよ」という考
え方のほうが、平和を実現する原理として機能する、と何の留保もなしに
断言できるのかどうか。ここにも疑問符が付きまとう。う〜ん、難しい問
題である。
一年後の来年も、同じ問題に悩まされるのだろうか。
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