夢さめて先づ開き見る新聞の予報に晴れとあるをよろこぶ
正岡子規
きょうの朝日新聞「折々のことば」欄に、子規のこんな短歌が紹介されていた。子規は「長く病の床にあって激痛に苦しんだ」という。この歌を見て、私は「うん、そうだよなあ」とうなずいた。そして「いいね!」と。
私も寄る年波か、激痛に悩まされた一時期があった。毎朝、ベッドから起き上がろうとすると、背骨に激痛が走る。その傷みをかわすように、そろり、そろり、ゆっくりと上体を持ち上げる。激痛が走らない朝は、「ラッキー!」と晴れやかな気持ちになったものだ。
こんな心の状態を「幸福」と言うのかもしれない。
長らく「折々のことば」欄を担当する鷲田清一氏は、この欄にこう書いている。
「ひとは幸福を願うのなら、幸福論の本は閉じたほうがいい。『幸福とは何か』などという大きな問いを立てるより、淡い幸福の経験を一つ一つ小刻みに重ねていったほうがいい。」
(朝日新聞4月14日)
このコメントを読んで、私は「団塊シニア」さんのブログを思い浮かべた。このブログはほぼ毎日読ませてもらっているが、私は、そこで開陳される「団塊シニア」さんの思想(というほど大袈裟なものではないが)と共通するものを感じたのである。
正岡子規
きょうの朝日新聞「折々のことば」欄に、子規のこんな短歌が紹介されていた。子規は「長く病の床にあって激痛に苦しんだ」という。この歌を見て、私は「うん、そうだよなあ」とうなずいた。そして「いいね!」と。
私も寄る年波か、激痛に悩まされた一時期があった。毎朝、ベッドから起き上がろうとすると、背骨に激痛が走る。その傷みをかわすように、そろり、そろり、ゆっくりと上体を持ち上げる。激痛が走らない朝は、「ラッキー!」と晴れやかな気持ちになったものだ。
こんな心の状態を「幸福」と言うのかもしれない。
長らく「折々のことば」欄を担当する鷲田清一氏は、この欄にこう書いている。
「ひとは幸福を願うのなら、幸福論の本は閉じたほうがいい。『幸福とは何か』などという大きな問いを立てるより、淡い幸福の経験を一つ一つ小刻みに重ねていったほうがいい。」
(朝日新聞4月14日)
このコメントを読んで、私は「団塊シニア」さんのブログを思い浮かべた。このブログはほぼ毎日読ませてもらっているが、私は、そこで開陳される「団塊シニア」さんの思想(というほど大袈裟なものではないが)と共通するものを感じたのである。