ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

ヒルティの幸福論

2020-12-25 11:19:14 | 日記
私がむかし勤めていたA大学の大学院B研究科C専攻では、教員と大学院生が合同で小さな研究会を組織し、その会報を年に一度の割合で刊行している。先日、その2020年版が送られてきた。いわゆる「研究紀要」の類である。研究紀要といえば、「読者は著者一人だけ」と言われるほど、それほど面白くないのが通り相場だが、一つだけ面白い論文があった。S・I 准教授が書いた『哲学における幸福論ーーヒルティ、アラン、ラッセルーー』と題する論文である。

幸福論。人はどうすれば幸福になれるのか。幸福について我々はどう考えればよいのか。現代のアカデミズムの世界では、こういうストレートな「素人っぽい」問いを掲げることは憚られるが、開き直って言えば、この問いは哲学・倫理学の中核に位置する正統的な問いにほかならない。この問いに真正面から向き合った3人の思想家、ヒルティ、アラン、ラッセルの幸福論を取りあげた点で、私はこの論文に興味をそそられた。

以下、私が面白いと思った箇所をそのまま引用する。私などが喋々するより、そのほうがずっと有意義だと思うからである。S・I 准教授には、この場を借りてお礼申し上げる。

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そもそも起きていることはすべて「自らの力の及ばないもの」、「外的運命」であり、自分の好悪に関わらず外からわれわれに与えられたものである。出来事に限ったことではない。われわれがここに生きているのもわれわれ自身の努力によるものではなく、われわれが呼吸をしているのも自らの意志によるものではない。自分の意志を超えたこの絶対的受動性をわれわれは既に生きているのだ。われわれにできるのは「与えられている」というこの受動性を生き切るか、あるいはその事実性に抗うかの二択である。そしてすべてが与えられたもの/自分を超えるなにものかによって自らに下されたものであるとするなら、われわれはそのなにものか/われわれを超えるものである超越者に自らを委ね、与えられる生を恵まれた生として生きるしかない。

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以上は、著者のS・I 准教授がヒルティの幸福論について言及した文章からの抜粋である。この部分は何やら親鸞の「他力」の思想を思わせ、我々ーー悩み多き凡俗である我々に、慰めと救いの手を差しのべている。ここで言われる「超越者」を「神」と言い換えれば、ヒルティの思想にはキリスト教的な抹香臭さが漂う。その一歩手前で「寸止め」をしているところがヒルティのヒルティたる所以(ゆえん)だろうか。
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