おもしろい話を聞いた。新元号である「令和」の最古の典拠は、(安倍首相が吹聴するように)国書ーー『万葉集』ーーではなく、漢籍ーー『文選』に収録された「帰田賦」(きでんのふ)ーーだというのである。
これだけのことであれば、「さもありなん」というだけの話であるが、おもしろいのは、この「帰田賦」の著者・張衡が、この著書の中で「安倍政権そっくりの忖度政治」を批判しているというのである(リテラ 4月3日配信《 安倍首相「令和は国書典拠」自慢の間抜け! 大元は中国古典で作者の張衡は安倍政権そっくりの忖度政治を批判》)。
要するに、安倍首相は「自らの政権とそっくりな不正と忖度官僚の跋扈を嘆いた中国の役人の言葉を元ネタとする元号をつけてしまっていた」のであり、「間抜け」この上ない首相だというのである。
だが、安倍首相を(いつものように)おちょくろうとするこの「リテラ」記事の見解は、どこまでがホントなのだろうか。べつに安倍首相の肩を持つつもりなどないが、もっともらしいドヤ顔のこういう言説を見ると、天邪鬼爺は、つい眉に唾(つば)をつけたくなってしまうのである。
まず、張衡の言葉がホントに政権批判の言葉であるのかどうか、これを疑って掛からなければならない。「リテラ」の記者自身が書くように、張衡は「帰田賦」の中で次のように書いている。
まことに天道は微かで見定めがたいものである以上、いっそかの漁夫を追って隠棲し、彼の楽しみを見習おうと思う。塵の如き俗界を離れて遠く立ち去り、世間の雑事とは永久に別れることにしよう。
つまり張衡は、俗界に見られる「忖度政治」の姿を、俗人にありがちな(度し難い)欲得に由来するものと捉え、そうした「俗界」の「雑事」から隠遁したいと述べているのである。批判の矛先は、政治の姿というよりも、(欲得にまみれた)俗人の性(さが)の方に向けられている。
それにしても驚くのは、『万葉集』の大昔に、島国日本の一文人が張衡の文言をパクっていることである。張衡の文は「仲春令月、時和し気清らかなり」(「帰田賦・文選巻十五」)。一方の『万葉集』は「初春の令月、気淑しく風和らぐ」である。この文を書いたのは大伴旅人である(という説が有力である)が、当時の情報伝達の状況を考えれば、文化先進国の言説をパクった旅人の技は驚異的と言わなければならない。
文化先進国の言説をパクるというのは、学者の階段を登るための必須のテクニックとして、相変わらず現代日本のアカデミズムにも横行しているが、情報技術が発達した現代では、よほどブラッシュアップしないと、パクリはすぐにバレてしまうだろう。旅人の時代では、パクリは非難の対象ではなく、逆に称賛の対象になったのだろう。
そういう余計なことまで連想させてしまうのが、新元号の「令和」である。う〜む、どうなのだろうなあ・・・。
これだけのことであれば、「さもありなん」というだけの話であるが、おもしろいのは、この「帰田賦」の著者・張衡が、この著書の中で「安倍政権そっくりの忖度政治」を批判しているというのである(リテラ 4月3日配信《 安倍首相「令和は国書典拠」自慢の間抜け! 大元は中国古典で作者の張衡は安倍政権そっくりの忖度政治を批判》)。
要するに、安倍首相は「自らの政権とそっくりな不正と忖度官僚の跋扈を嘆いた中国の役人の言葉を元ネタとする元号をつけてしまっていた」のであり、「間抜け」この上ない首相だというのである。
だが、安倍首相を(いつものように)おちょくろうとするこの「リテラ」記事の見解は、どこまでがホントなのだろうか。べつに安倍首相の肩を持つつもりなどないが、もっともらしいドヤ顔のこういう言説を見ると、天邪鬼爺は、つい眉に唾(つば)をつけたくなってしまうのである。
まず、張衡の言葉がホントに政権批判の言葉であるのかどうか、これを疑って掛からなければならない。「リテラ」の記者自身が書くように、張衡は「帰田賦」の中で次のように書いている。
まことに天道は微かで見定めがたいものである以上、いっそかの漁夫を追って隠棲し、彼の楽しみを見習おうと思う。塵の如き俗界を離れて遠く立ち去り、世間の雑事とは永久に別れることにしよう。
つまり張衡は、俗界に見られる「忖度政治」の姿を、俗人にありがちな(度し難い)欲得に由来するものと捉え、そうした「俗界」の「雑事」から隠遁したいと述べているのである。批判の矛先は、政治の姿というよりも、(欲得にまみれた)俗人の性(さが)の方に向けられている。
それにしても驚くのは、『万葉集』の大昔に、島国日本の一文人が張衡の文言をパクっていることである。張衡の文は「仲春令月、時和し気清らかなり」(「帰田賦・文選巻十五」)。一方の『万葉集』は「初春の令月、気淑しく風和らぐ」である。この文を書いたのは大伴旅人である(という説が有力である)が、当時の情報伝達の状況を考えれば、文化先進国の言説をパクった旅人の技は驚異的と言わなければならない。
文化先進国の言説をパクるというのは、学者の階段を登るための必須のテクニックとして、相変わらず現代日本のアカデミズムにも横行しているが、情報技術が発達した現代では、よほどブラッシュアップしないと、パクリはすぐにバレてしまうだろう。旅人の時代では、パクリは非難の対象ではなく、逆に称賛の対象になったのだろう。
そういう余計なことまで連想させてしまうのが、新元号の「令和」である。う〜む、どうなのだろうなあ・・・。
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